【山形県】山形城の歴史 奥羽の驍将が築いた巨大城郭
- 2024/02/01
JR山形駅から歩いてすぐの場所に、霞城公園があります。かつては山形城本丸・二の丸があり、現在は市民だけでなく、多くの観光客が訪れる山形のシンボルとなっています。
江戸時代の初め、山形城は「奥羽の驍将」こと最上義光によって大拡張され、東日本でも5番目の広さを誇りました。あの姫路城より広かったといいますから、義光の並々ならぬ思い入れが垣間見えますね。
そんな最上氏250年の礎となった山形城を、その歴史とともにご紹介したいと思います。
江戸時代の初め、山形城は「奥羽の驍将」こと最上義光によって大拡張され、東日本でも5番目の広さを誇りました。あの姫路城より広かったといいますから、義光の並々ならぬ思い入れが垣間見えますね。
そんな最上氏250年の礎となった山形城を、その歴史とともにご紹介したいと思います。
【目次】
出羽・山形を本拠とした最上氏
最上氏が治めた出羽国は、現在の山形県と秋田県にまたがります。南北朝期にあたる延文元年(1356)に、斯波兼頼が羽州探題として入国したのが始まりで、室町幕府から最上屋形の称号を与えられて以来、最上氏を称するようになりました。さて、兼頼は政治の拠点として山形を選び、入国した翌年から山形城の築城を開始しています。その規模を確かめる術はありませんが、現在の本丸を中心としたエリアだったと推定されています。
中世段階の山形城について不明な点は多いものの、発掘調査によって少しずつ明らかになってきました。まず二の丸からは幅13メートル余りの堀が検出され、三の丸付近では方形館の一部が発掘されています。いずれも16世紀後半の遺構とされ、当主の館もしくは家臣たちの屋敷跡だと推定されるようです。
ちなみに中世において、歴代の最上氏当主は「御所」という尊号で呼ばれていました。『言継卿記』によれば、永禄6年(1563)に最上義守・義光父子が上洛した時、山科言継は彼らのことを「出羽国之御所」と表現しています。
当時の奥羽地方で御所と称されるのは、大崎氏と北畠氏のみですから、最上氏は破格の尊崇を受けていたと考えられるでしょう。もちろん山形城内にも、御所が存在していたと考えられ、格式ある建造物があったと想像できるのです。
それゆえに戦国期の山形城は、あまり例のない平城でした。本来なら、守りやすい山城へ拠点を構えるところ、最上氏は10数代にわたって平地から動いていません。なぜなら御所こそが国の中心だからです。
一族間の分裂や内乱、離合集散が幾度も起こるものの、そこには羽州探題としての矜持やプライドがあったのでしょう。御所がある山形城を守り続けることで、厳しい乱世を生き延びていったのです。
最上義光によって行われた大規模普請
戦国時代、最上氏を強大な大名へ成長させたのが最上義光です。天正年間(1573~1592)には最上地方の諸領主を掌握し、さらに村山地方を勢力下に収めています。 天正18年(1590)、豊臣政権傘下の大名となった最上氏は、仙北地方を含めて13万石の領地を確定させました。奥羽地方では、蒲生氏、伊達氏、相馬氏、木村氏に次ぐ石高となっています。
続く朝鮮出兵において、秀吉は石高に応じた軍役を課していますが、この時、義光は500の手勢を率いて肥前名護屋へ参陣しました。
この時、義光は国元の家臣に宛てて、いくつもの書状を発していますが、その中に山形城の普請に関するものがあります。すでに山形城を出立する前から改修が計画され、改めて普請奉行に指示を与えたのでしょう。
「其元うちたてのほりふしん、いかゝ候哉、一度ニ八まかりなるましく候、一方つゝもきハめつかまつり候ハ、よく候ハんかと存候、ほりハ地のひき候かたよりほり候て、みつをおとしく、地あかりのかたへほり候へハよく候、あわれふしんなかはニくたり候て、いけんを申度候」
これは重臣・伊良子信濃守へ宛てた書状で、他にも蔵増大膳亮へ指示を出した文書も存在します。おそらくこの両名が、普請奉行として任にあたっていたのでしょう。
その中で義光は、「普請は一致協力してあたること」「火の用心が重要であること」「堀の開削は高さが低い方から始めること」など、実に細かい指示を出しています。
実際に普請工事が、どの程度の規模で行われたかは不明ですが、数年掛かりの大規模工事だったことは間違いありません。この時に、本丸・二の丸を含めた、複合的な曲輪が出来上がったと考えられます。おそらく豊臣大名にふさわしい城へ、面目を一新させたかったのでしょう。
また発掘調査の結果、当時の礎石建物跡や瓦などが検出されており、瓦に関しては、京都の最上屋敷推定地から発掘された軒丸瓦や軒平瓦と類似しています。豊臣期山形城でも同様に、格式の高い瓦が用いられたと推測されています。
最上氏が57万石の大名となり、山形城が近世城郭へ生まれ変わる
慶長5年(1600)、慶長出羽合戦において、義光は上杉方の直江兼続と戦い、見事に勝利しました。上杉勢が山形城へ迫った時、霞が発生して城の姿を隠したことから、「霞城」という別名が生まれたといいます。さて論功行賞の結果、最上氏は最上・村上2郡のほかに、庄内3郡と由利郡を与えられ、57万石の大名へ飛躍を遂げました。
この広大な所領を支配するには、検地の実行や交通網の整備などが必要不可欠となりますが、何より急務だったのが家臣団の編成です。義光時代の家臣数を見てみると、1万石を越える重臣が15人もおり、直臣クラスだけでも1265人という大所帯でした。
ちなみに62万石の伊達家では、1万石以上の重臣が9人しかいませんから、あまりに家臣の数が多すぎるのです。
領地が拡大し、家臣の数が増えれば、本来なら新しい城を築くところでしょう。ところが義光は新しい土地を探すのではなく、長い伝統を持つ山形城の整備・拡張を図ったのです。
改修は慶長年間に行われましたが、確かな史料が残っていないため、どのような普請だったのか定かではありません。ただし、のちに作成された『正保城絵図』を見ると、その様相をうかがい知ることができます。
まず二の丸の大きさは、東西440メートル、南北460メートルとなり、ちょうど本丸を同心円状に囲む形状になっていました。外側にある三の丸はさらに大きく、東西およそ1600メートル、南北1870メートルと、とてつもない広大さとなっています。城全体で東京ドーム50個分の広さだったといいますから、まさに巨大城郭と呼ぶにふさわしい威容を誇りました。
広大な三の丸には、上・中級家臣の屋敷が立ち並び、さらに外側の外郭部分には、下級家臣の屋敷や町家があったといいます。多すぎる家臣を収容するには、十分な広さを持つ城だったのでしょう。ただし天守は築かれなかったようで、石垣も一部にしか用いられなかったようです。
また城の南北には神社仏閣を配し、東に寺町を置くことで、宗教的な守りとしていました。さらに城を外から守る惣堀には、11ヶ所に及ぶ入り口が設けられ、厳重に警備されていたといいます。これを「十一口」といい、合わせて「吉」という字になることから、吉城とも呼ばれたとか。
ちなみに中世の山形城下では、明確な町割りは行われなかったようで、慶長期の改修を機に城下町が整備されていきます。
商人・職人の居住地は三の丸の東側に置かれ、さらに南北を貫くように直線道路が造られました。これと並行するように3~4本の道も整備され、その両側を町人の居住地と定めています。ただし鍛冶師や鋳物師など、火を扱う職人の住居は、馬見ヶ崎川の対岸に置かれたことから、おそらく火事を恐れたのでしょう。
山形藩3代藩主・最上義俊の時代、山形の人口は3万を数えたといいますから、奥羽地方でも有数の大都市だったことは間違いありません。
幻の天守造営計画とは?
江戸時代を通じて、山形城に天守が築かれることはなかったのですが、実は「天守造営計画」があったという説があります。最上義光に仕える小澤光祐という家臣がいて、慶長10年(1605)頃に天守の設計図を作成したというのです。小林家はのちに庄内藩で大工を務めますが、幻の天守設計図は失われることなく、長く伝えられたといいます。
その図面には、高石垣に載る五重の天守が描かれ、最上氏の家紋まで書き込まれていました。「庄内藩の鶴ヶ岡城のものでは?」という説もありますが、13万石余の庄内藩では、これほど立派な天守を建てることはできないでしょう。
最上家臣が記した『羽源記』によれば、「天守を造営したほうが良いのでは?」と進言した重臣たちに、義光はこのように語ったそうです。
「皆の意見はもっともである。しかしながら、駿河守(2代・家親)が家康公から受けた恩義は甚だ深い。ましてや籠城するなどあるべからずことだ。それより仁義をもって諸士を慰撫し、無欲をもって民を慈しむことこそ、第一に重視すべきだろう。ましてや城の普請など、民のくたびれになることである。外の出城を堅固にするのは良いが、この山形城には無用であろう。」
羽源記の記述通りなら、義光は設計図を書かせるほど天守への思いがあったものの、途中で断念したことになります。その背景には、平和な時代に天守は不要だと確信したこと、あるいは徳川に対する遠慮があったのかも知れません。
頻繁に藩主が入れ替わる山形城
2代藩主・最上家親は徳川家との繋がりが深く、良好な関係を築いていましたが、最上義俊の代になると、家臣団の対立から御家騒動へ発展。元和8年(1622)に改易されてしまいました。そして最上氏に代わって、鳥居忠政が山形へ入ってきます。周辺には仙台藩・米沢藩・久保田藩など、外様大名がひしめており、それらを監視する配慮から、信頼のおける譜代大名を配置したのでしょう。
ちなみに鳥居時代には、山形城に若干の改修が加えられています。従来の外枡形を内枡形へ造り替えたり、二の丸東南部の形状を、円形から直角へ改造するなど、一部の変更のみで、基本的な構造は変わっていません。
さて忠政の死後、跡を継いだ忠恒には嗣子がなく、程なくして所領を没収されました。代わって山形藩主となったのが、徳川秀忠の子・保科正之です。正之は山形藩主時代に徳川一門となり、領内で年貢の減免措置を取るなど、名君として慕われたそうです。ちょうどこの頃が、山形城の最盛期といえるかも知れません。
正之が会津へ転封したのち、山形藩主は頻繁に入れ替わるようになります。幕末に至るまで、藩主となった譜代大名は9家に及び、山形藩は監視役どころか、失脚した幕閣たちの左遷先となっていくのです。むろん左遷扱いですから、加増されて移ってくるケースなどほとんどありません。多くの場合、5~10万石程度の大名が配置されたといいます。
最上氏時代こそ57万石を誇ったものの、最後の藩主となった水野氏の頃には5万石にまで縮小。そのため山形城の改修はほとんど行われず、往時の城郭構造をそのまま存続させることになりました。
かつての三の丸は家臣屋敷で固められていたものの、石高が大きく減少した状況では、広大な屋敷地を維持することもできません。次第に荒廃していき、明和年間には二の丸、及び三の丸の屋敷地が売却され、田畑に変わり果ててしまったのです。
やがて明治になると山形城は廃城となり、土地や建物の多くが売却されました。跡地には学校や病院などが建てられ、急速に市街地化が進んでいきます。また大正・昭和期には造成が進み、残っていた堀や土塁跡も埋め立てられていきました。
城の面影を残していた二の丸と本丸には、明治29年(1896)に陸軍歩兵32連隊が置かれ、それに伴って本丸の堀が埋められています。
戦後、旧二の丸と本丸跡地は、山形市に払い下げられ、霞城公園として市民に開放されました。敷地内には運動公園や博物館などが建設され、新たに都市公園として生まれ変わっています。
三の丸は都市化が進んだことで消滅しましたが、昭和58年(1984)に山形城は国指定史跡となり、平成以降も復元事業が続けられてきました。
現在ではいくつかの城門や土塀などが復元され、往時の姿を偲ばせています。
おわりに
最上氏250年の牙城として、また最上義光が精魂を傾けて大改修を施した山形城ですが、歴史の流れというのは残酷なものです。江戸時代中期以降は衰退の一途を辿り、名城としての面目を失ってしまうのですから。多くの城がそうであるように、やはり城とは、地域の特色を示すシンボルのような存在です。かつての山形城を取り戻したいという市民の思い入れが、城の復元事業へ繋がっていったのでしょう。
今後、土塁の復原や、本丸御殿跡の整備などが計画されていますので、ますます魅力あふれる城になるはずです。
補足:山形城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
延文元年 (1356) | 斯波兼頼が出羽へ入り、翌年に山形城を築城。のちに最上氏を称する。 |
文禄~慶長年間 | 最上義光が山形城を改修。近世城郭の基礎が出来上がる。 |
慶長5年 (1600) | 慶長出羽合戦。最上義光が直江兼続を打ち破り、論功行賞の結果、57万石の大名となる。 |
慶長年間 | 二度目の大改修。山形城が大規模に拡張され、城下町が完成する。 |
元和8年 (1622) | 最上義俊が改易となり、新たに鳥居忠政が入封する。 |
寛永5年 (1628) | 鳥居忠政が死去。この頃までに山形城の改修が完了。 |
寛永13年 (1636) | 鳥居氏が改易となり、新たに保科正之が山形藩主となる。 |
延享3年 (1746) | 松平乗祐が懲罰的な国替えで入封。この頃から山形城の荒廃が顕著となる。 |
明和年間 (1764~67) | 幕府直轄地となり、二の丸・三の丸の屋敷地が売却される |
明治3年 (1870) | 山形城が廃城となる。 |
明治29年 (1896) | 陸軍歩兵32連隊が置かれ、それに伴って本丸部の堀が埋められる。 |
昭和23年 (1948) | 本丸・二の丸が山形市に払い下げられ、霞城公園として開放される。 |
昭和58年 (1984) | 山形城が国指定史跡となる。 |
平成3年 (1991) | 二の丸東大手門の復元が完了。 |
平成18年 (2006) | 本丸一文字門の大手橋が復元される。同年、日本100名城に選出される。 |
平成26年 (2014) | 本丸一文字門の高麗門、及び土塀の復元が完了。 |
【主な参考文献】
- 飯村均・室野秀文『東北の名城を歩く 南東北編』(吉川弘文館、2017年)
- 竹井英文『シリーズ・織豊大名の研究 最上義光』(戎光祥出版、2017年)
- 松尾順次『家康に天下を獲らせた男 最上義光』(柏書房、2016年)
- 木村礎・藤野保ほか『藩史大事典 北海道・東北編』(雄山閣、1988年)
- 村田修三『日本名城百選』(小学館 2008年)
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