大河ドラマ「光る君へ」 藤原道長が華麗な法成寺を建立した理由

土御門邸で道長と顔を合わせたまひろ
土御門邸で道長と顔を合わせたまひろ

 大河ドラマ「光る君へ」第47回は「哀しくとも」。

 刀伊の入寇があった年(1019年)の1月、藤原道長は胸病を患っています。時に一日中、苦しむこともあったと言いますから、重病です。しかも病はすぐに治らず、2月には急性胃腸炎のような症状も現れます。更には眼病も発生。手に取る物しか見えないとの状態に陥ります。こうした病の影響もあったのでしょう。同年3月下旬、道長は出家します。

 出家直後、道長の病は平癒したようです。藤原実資(日記『小右記』の記主)は出家した道長と面談していますが、その容貌は「老僧」のようであったと記載しています。実資は、道長に完全に隠居するのではなく、月に5・6度は参内することを勧めています。道長の後継者・藤原頼通(道長の長男)はこの時未だ20代後半。若い頼通を道長が支えた方が、朝廷の安定に繋がると実資は感じていたのでしょう。そのような事は道長も分かっていたようで、道長は頼通政権を出家後も後見しています。

 一旦、平癒したかに見えた道長の病ですが、5月下旬には再発します。実資が見舞いに訪れても、面会することはできませんでした。それほどの重病だったのです。出家後も病に苦しめられる道長は、阿弥陀像と四天王像を造立し、それを安置する御堂を造ることを願います。丈六(約4.8メートル)の阿弥陀像は、秋から冬にかけて完成。道長の邸宅・土御門第内の小南第に仮に安置されました。

 御堂の建設開始は、寛仁4年(1020)1月からですが、3月下旬には供養が行われています。多くの人夫が徴発され、建造に当たったので、これほどの速さで完成したのです。道長が御堂建設を願ったのは、重病により、もう長くはないと死期を悟ったことが大きいと思われます。こうして無量寿院(後の法成寺)が完成しました。

 御堂の垂木の端々は「黄金」で彩られていました。扉には「絵」が描かれ、御堂の中には金色に輝く9体の阿弥陀像が安置されていたのです。「その華麗さは今日の平等院鳳凰堂も及ばないだろう」と評される御堂が完成した訳ですが、火災などにより、残念ながら現存していません。


【主要参考文献】

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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