大河ドラマ「光る君へ」三条天皇の関白就任要請を藤原道長が固辞した訳
- 2024/10/28
大河ドラマ「光る君へ」第41回は「揺らぎ」。
寛弘8年(1011)6月、三条天皇に譲位された一条上皇は崩御されます。一条上皇の母は、藤原詮子(藤原道長の姉)でした。三条天皇の母は、藤原超子といって、これまた道長の姉だったのです(超子は詮子の姉)。つまり、詮子・超子共に、藤原兼家の娘だったのです。
超子は、冷泉天皇の女御となり、後の三条天皇を産むことになるのですが、天元5年(982)に急死したことにより、我が子の即位を見ることはありませんでした。超子は道長が16歳の頃に亡くなっていますので、それほど馴染みがなかったと言われています。
さて、一条天皇の御代において、長い東宮(皇太子)時代を送った三条天皇。ついに天皇となった三条は、道長に関白になるよう依頼します。道長を関白として優遇し、取り込もうとしたのでしょう。ところが、道長は、再三にわたる就任要請を断ります。道長は関白就任を嫌がり、それまでのように内覧・左大臣に留まることを希望したのです。左大臣の異称は「一上」(いちのかみ)と言いました。「一上」とは筆頭の公卿であり、政治を主導できました。
だが、もし関白になったら「一上」の仕事は右大臣に移ってしまいます。議定(陣定)にも参加できませんでした。「関白はたんなる文書の内覧役に過ぎず」(倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)との評価もあります。ちなみに、内覧は天皇と太政官を往来する文書を予め閲覧できました。道長が関白就任を固辞したのは、政治運営に関与できなくなることを恐れたためだったと思われます。政治的権限を保持したまま、内覧として権力を持つことを道長は選択したのです。結果、道長に内覧宣旨が下ることになります。三条天皇は道長に妥協したのでした。
【主要参考文献一覧】
- 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
- 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)
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