心頭滅却すれば火もまた涼し…快川紹喜の壮絶な最期とは

 日本人なら誰しも一度は聞いたことがある「心頭滅却すれば火もまた涼し」。この語句を世に広めたのは誰なのか、皆さんはご存じですか?

 それは戦国時代の名僧・快川紹喜(かいせん じょうき)と言われています。武田信玄に禅の心を教え、織田信長に焼き殺された彼は、どのような人生を歩んできたのでしょうか?

 今回は知られざる快川紹喜の素顔に迫ってみたいと思います。

快川紹喜は武田信玄と親交深い名僧だった

 快川紹喜の誕生は文亀2年(1502)、まさに戦国時代真っ只中。生まれ故郷は美濃、現在の岐阜県。快川紹喜は僧侶としての名前で、俗姓は土岐氏といわれています。

 紹喜は幼い頃より神童の誉れ高く、物覚えが良いことで知られていました。漢籍にもよく通じ、特に中国の詩人・杜筍鶴(と じゅんかく)の作品を好みました。

 ここで早々に種明かしをしてしまうと、現在紹喜の言葉として流布している「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、杜筍鶴の詩に出てくる記述。それを死にぎわに引用したのが紹喜だったのです。

 紹喜の生涯を語る上で避けて通れない存在が「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄。信玄は出家後の法名で、現役時代は武田晴信と名乗っていました。

 信玄は大永元年(1521)、甲斐国守護・武田信虎と妻・大井の方の次男(幼名は太郎)として生をうけます。長男の竹松が7歳で他界後は跡取りに繰り上がったものの、父は三男の次郎ばかりを可愛がり、信玄を蔑ろにしました。疎まれた理由は定かではありませんが、親子間にも相性の良し悪しがあるのは否めません。

 父の愛情不足を補うように、母は息子の英才教育に力を注ぎ、信玄の学問の師となる僧を生家の菩提寺に招きました。この母と師のもとで、幼かった信玄は『四書五経』『孫子』『呉子』を学び、兵法を修めたのでした。

 とりわけ『孫子』が与えた影響は大きく、天文5年(1537)に16歳で初陣を飾るやいなや、孫子の兵法の実践によって手柄を上げていきます。旗印の「風林火山」も『孫子』の言葉、「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」……「走ること風の如し 構えること林の如し 奪うこと火の如し 動かざること山の如し」からとりました。信虎も勇猛な武将でしたが、信玄の才と人望は父を上回り、怜悧で豪胆な「甲斐の虎」の異名を全国に轟かせます。

 母の菩提寺で薫陶を受けた体験は、信玄を潜在的仏教徒足らしめ、精神修養を重んじる禅への関心を育みました。長じて親交を結んだ僧は惟高妙安、策彦周良、岐秀元伯、東谷宗杲ら数知れず。いずれも戦国の世を代表する高僧たちで、仏教の布教に貢献しています。

 中でも快川紹喜とは懇意になり、家族ぐるみの付き合いに発展します。紹喜が書いた円光院の葬儀記録には、武田信玄と正室・三条夫人の仲の良さを、比翼の契りになぞらえ称える記述が出てきます。

 紹喜は永禄7年(1564)には信玄に頼まれて恵林寺に入り、甲斐の武田氏と美濃の斎藤氏の仲立ちに奔走。信玄の長男・義信が謀反を企て幽閉された折には、長禅寺住職・春国光新、東光寺住職・藍田恵青らと協力して、関係修復に努めました。

信長の甲州征伐で運命が暗転

 禅の精神を尊び、陣中でも瞑想を欠かさなかった信玄ですが、戦支度に忙殺され、四季の移り変わりを見落とすことが増えてきました。

 ──ある春の日、紹喜は信玄を誘います。

紹喜:「恵林寺の境内の桜が見頃ですよ。花見をしませんか」

信玄:「戦が終わったら改めて」

 このように信玄は返事をしますが、よくよく考えれば無事に帰ってこれる保証はないのです。

信玄:「いま花見をせなんだら、あの時桜を見損ねたことを後悔するかもしれない……」

 そう思い直し、招待に応じた信玄は、満開の桜を愛で、紹喜の心遣いに感謝を述べました。
──

 二人の友情が伝わってくる、美しいエピソードです。その際に信玄が詠んだ次の歌を、晩年の紹喜はしみじみ噛み締めていたそうです。

「誘はすは くやしからまし桜花 さねこん頃は 雪のふる寺」

 信玄の死から3年後の天正4年(1576)には恵林寺で信玄の葬儀が行なわれました。その際、恵林寺の大導師として葬儀を粛々と取り仕切った快川紹喜は、正親町天皇から大通智勝国師の称号を賜りました。

 国師とは禅宗・律宗・浄土宗の高僧に贈られる尊称で、生前に賜る特賜と死後の勅賜に分かれており、前者は格別名誉なこと。以降も信玄の法要は恵林寺で営まれ、紹喜は友の菩提を手厚く弔い、楽しく語らった日々を偲びました。そのまま何も起きなければ、信玄の思い出を胸に温め、静かな余生を送れていたに違いありません。

 運命が暗転したのは天正10年(1582)、織田氏の甲州征伐の折。信玄亡きあと、弱体化の著しかった武田家はたちどころに滅ぼされ、残党を匿った恵林寺にまで軍勢が攻め込んできたのです。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」は国師の辞世の句

 信長と寺社の相性が最悪なのは、いまさら言うまでもありません。恵林寺から出ない紹喜の耳にも、かつて信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした悪評は届いていました。

 にもかかわらず、紹喜は残党の引き渡しを断固拒否。恩義ある武田家を滅ぼし、甲斐の領民を虐げる男に従うことは、友への裏切りだと思ったのでしょうか。もっと単純に、聖域を侵す信長が許せなかったのでしょうか。

 ともあれ交渉は決裂です。信長は境内に留まっていた120人を山門の2階に押し込め、その前に刈り草を積んで火を放ちました。瞬く間に草は燻され、モクモクと黒煙が上がり、山門の支柱に火が燃え移ります。

 まさしく阿鼻叫喚の地獄絵図。袈裟を炎上させた僧侶や年端もいかぬ稚児の群れが断末魔をあげて逃げ惑うなか、紹喜だけが座禅を組んだまま微動せず、瞑想の内に息を引き取りました。

 「心頭滅却すれば火もまた涼し」は彼の辞世の句。正しくは「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(安禅は必ずしも山水を用いず 心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)」。

 無我の境地を体現する、国師の信仰心に圧倒されませんか?

おわりに

 以上、武田信玄の親友・快川紹喜の逸話でした。

 たとえでも何でもなく、実際に火の海で事切れた人の言葉だと思うと、見方が違ってきてしまいますね。正確には中国の仏典『碧巌録』の引用にあたり、あらゆる煩悩を乗り越え、悟りを開いた状態こそが「火もまた涼し」の境地なのでした。


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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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