信長の長女「徳姫」が招いた“家族崩壊”…なぜ復讐劇は起きたのか?
- 2025/09/17
戦国時代を代表する武将、織田信長には多くの子どもがいました。その数は総勢27人!彼らは政略結婚や養子縁組に利用され、全国の諸大名と姻戚関係を結びました。
今回は徳川家康の長男・松平信康に嫁いだ、信長の長女・徳姫の生涯を追います。気の強さは父譲り?な彼女の人生から、戦国の世を生き抜いた女性たちの姿を紐解いていきましょう。
今回は徳川家康の長男・松平信康に嫁いだ、信長の長女・徳姫の生涯を追います。気の強さは父譲り?な彼女の人生から、戦国の世を生き抜いた女性たちの姿を紐解いていきましょう。
信康の正室となるも男児に恵まれず…
信長の正室は斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)ですが、彼女との間に子どもはいませんでした。信長は11人の側室をもち、男児11人、娘12人の子供をもうけました。非嫡出子や養女を含めると、その数は36人にものぼったといわれています。およそ1クラス分と考えると絶倫ですね。徳姫は、永禄2年(1559)に信長の長女として生まれました。母は側室の生駒氏。同腹の兄弟には信忠、信雄がおり、末娘だった徳姫は信長に特に可愛がられて育ちました。本名は五徳姫(ごとくひめ)といい、徳姫、五徳とも呼ばれていました。『織田家雑録』には名前の由来として、次のように記されています。
「五徳の足のごとくなりて五徳と名付け玉ふ」
信長は実子に奇抜な名前を付ける癖があり、徳姫の名前も茶道の道具「五徳」からこの名がとられていたのです。現代の感覚だと子供にレンジや机と名付けるようなものでしょうか…。ちなみに長男の信忠は、顔が奇妙だから「奇妙丸」、信雄は「茶筅丸」です。
政略結婚は戦国の世の常。永禄6年(1563)、桶狭間の戦いで今川義元を討った織田信長と、今川氏から独立をはかる徳川家康は同盟を結びます。その証として、家康の長男・信康と徳姫の縁談が持ち上がりました。同い年の2人の縁談はトントン拍子に進み、4年後の永禄10年(1567)に徳姫はわずか9歳で輿入れ。以降は岡崎城に移り住んで「岡崎殿」と称されました。
しかし信長の娘という立場に、信康は気位の高い徳姫に頭が上がらなかったといいます。さらに、岡崎城には信康の生母である築山殿も同居しており、新婚早々、嫁姑のストレスを抱える生活だったことが推察されます。
天正4年(1576)に長女・登久姫、翌天正5年(1577)には次女・熊姫が生まれますが、それ以降は子に恵まれず、跡継ぎの男児を欲した築山殿は焦りを募らせます。精神的に追い詰められた徳姫は、築山殿との関係が険悪になり、夫婦関係も冷え切っていきました。
そこで築山殿は信康に側室を迎えるよう助言し、武田氏家臣・浅原昌時の娘や日向時昌の娘、はては自身の侍女まで斡旋します。母親が息子に愛人を世話するのは非常識な話ですが、戦国の世における跡取りの不在はお家断絶に直結する為、苦肉の策だったのかもしれません。
案の定、徳姫は姑の仕打ちと夫の不甲斐なさに腹を立て、信長と家康が調停役に担ぎ出されることになったのです。
父への訴状、そして夫の死
徳姫と信康の軋轢を聞き及んだ家康は、たびたび岡崎城に足を運び、双方の仲を取り持ちました。されど一度壊れた関係は修復できず、天正7年(1579年)、21歳になった徳姫は父・信長に「十二箇条の訴状」と題した手紙を送ります。訴状には、信康は通行人に矢を射かけて笑い者にし、踊りが下手だと領民を斬り捨てたりする極悪非道な人物であり、築山殿は息子を傀儡に仕立て、謀反を企んでいるのこと。男児を産めない妻を「役立たず」と罵った挙句、徳姫が可愛がっていた侍女を目の前で刺し殺し、その口を引き裂いたとも書かれています。鷹狩りの帰りに僧侶と行き会った際は、「獲物が獲れなかったのはお前のせいだ」と言いがかりを付け、僧侶の首に縄を巻いて馬で引きずり回したそうです。
以上の暴挙も決して感心はできませんが、信長が最も看過できなかったのは、「武田勝頼と結託し謀反を企てている」と糾弾する一文でした。勝頼と信康を繋いだ黒幕は築山殿で、甲斐在住の唐人医・減敬と懇ろになり、織田方の情報を流していたのです。築山殿の父は今川家の重臣・関口氏純、母は今川義元の妹(諸説あり)です。家康が織田に寝返ったのが原因で両親が殺された為、徳川家に恨みを持っていたとしてもおかしくありません。同様の理由で伯父の仇の信長と、その娘の徳姫も嫌っていました。
この訴状を受け取った信長は、使者として安土城に滞在していた徳川家重臣の酒井忠次に事実確認を求めます。すると忠次は、信康を全く擁護せず、訴状の内容を黙認したため、信長は家康に2人の処分を命じました。その結果、築山殿は殺害され、信康も自らの命を絶つこととなります。これが松平信康事件です。
しかし、訴状の内容がどこまで真実だったかは、現在でも不明です。嫁ぎ先で冷遇されていた徳姫の捏造だという説も否定できません。信康の人柄に関しては、「気性が荒く粗暴な部分もあった」と伝えられていますが、信長の気性に比べたらマシのような気もしますが…。
激動の人生、そして安寧の晩年
夫の切腹後、未亡人となった徳姫はどのような人生を送ったのでしょうか。天正8年(1580)、徳姫は幼い娘たちを残し、安土に出戻ります。その後は近江八幡に移り住むものの、天正10年(1582)に本能寺の変が起こり、信長と信忠が討たれると、次兄・信雄を頼り、羽柴秀吉の人質として京都に送られました。
天正18年(1590)には、秀吉の怒りに触れた信雄が改易されてしまい、徳姫は母の実家・生駒氏の所領、尾張国小折に引っ越して、京都と行き来して暮らしました。
関ヶ原の戦い(1600)で徳川家康が勝利したのち、家康の四男・松平忠吉は徳姫に1761石の所領を与えます。これは、家康のもとで育った登久姫と熊姫が徳川方の重臣に嫁ぎ、多くの子を成した為。徳川家との縁は続いていたのです。
晩年は京都で隠居し、78歳まで生き、大往生を遂げました。曾孫にあたる繁姫の乳母選びを任されるなど、徳川家の人々から頼りにされていたことがうかがえます。
おわりに
父譲りの気の強さで、夫と姑に反旗を翻した徳姫。松平信康事件の真相は今も謎に包まれています。徳姫は本当に父を助けるために行動したのか、それとも息子の行状に頭を痛めた家康が黒幕で、徳姫は利用されただけだったのか等、様々な憶測が飛び交っています。十二箇条の訴状の存在を疑問視する学者もおり、真相が気になりますね。激動の戦国時代を生き抜いた彼女の姿は、私たちに多くのことを語りかけてくれます。
【参考文献】
- 池上裕子『人物叢書 織田信長』(吉川弘文館、2012年)
- 堀新、井上泰至『信長徹底解読: ここまでわかった本当の姿』(文学通信、2020年)
- 河内将芳『織田信長と京都』(戎光祥出版、2024年)
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