「どうする家康」松平信康事件を『徳川実紀』と『三河物語』はどう描いたか?

信康が幽閉、処刑された場所となった二俣城跡(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)
信康が幽閉、処刑された場所となった二俣城跡(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)

 大河ドラマ「どうする家康」第25話は「はるかに遠い夢」でした。織田信長に呼び出された徳川家康が、信長から「岡崎で謀反の噂がある」として、妻・瀬名と嫡男・松平信康を処刑せよと暗に告げられるという悲しい回でした。最終的に信康は二俣城(静岡県浜松市)において切腹して果てます。では、この信康切腹事件を徳川家の史書『徳川実紀』はどう記しているのでしょうか。

 同書は、徳川の家臣・酒井忠次・大久保忠世が、家康に信康の荒々しい振る舞いを直訴したと書いています。それを聞いた家康は「お前たちも、信康に2度も3度も諫言したであろう。しかし、それでも信康が聞き入れなかったので、私に直訴したのだろう。どうじゃ」と問いかけます。すると、彼らは「若殿は、荒々しいご気性で、諫言などすれば、場合によっては、殺されてしまいます。よって、誰も諫言する者あらず」と回答したと言います。

 この逸話の前段階などにおいて

「岡崎殿御事を信長より申さるる旨ありしとき」
「信長の恐れ忌しより事起れる」
『徳川実紀』より

と記されていますので、信康切腹の真因は織田家(信長)にありというのが、『徳川実紀』の主張です。織田家の奸計に陥った「両人」(酒井忠次・大久保忠世)のせい(不忠・愚昧)で、信康が死ぬことになったというのです(家康と信康の間に何のわだかまりもなかったのに、信長が信康の勇猛さを恐れて、信康を消そうとしたのが、全ての始まりだとする)。

 『徳川実紀』も、信康の挙動が荒々しいことは認めていますが、それも戦国の習いとして、深く咎める必要はないだろうと論評しています。『三河物語』は、信康の奥方・徳姫(信長の娘)が、夫を中傷する書状を、酒井忠次に持たせて、信長に送ったことが、信康の死の契機となったと記載します。中傷内容を「事実か」と問う信長。忠次は「その通りです」と答えたために、信長は「それは放置しておけぬ。切腹させよと家康に申せ」と厳命。

 信長の意向を聞いた家康は「大敵に直面している今、しかも背後に信長がいては、信長に背くことはできぬ」として、信康を殺害する決断をしたと言うのです。『三河物語』は徳姫と酒井忠次が「悪者」となっています。家康と信康を「悪者にしない」という意味で、『徳川実紀』と『三河物語』は共通していると言えるでしょう。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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