【武将の教養】秀吉、政宗、家康が能にハマった理由…三者三様、舞台裏の熱狂エピソード
- 2025/10/30
 
                         皆さんは能を観劇したことはありますか?室町時代初期に観阿弥、世阿弥、犬王といった猿楽者によって大成された能は、戦国武将にとって欠かせない教養の一つでした。豊臣秀吉、伊達政宗、そして徳川家康は能を深く愛好し、ただ鑑賞するに留まらず、自ら能装束に身を包んで舞い、賓客をもてなしたと伝えられています。
今回は、数多くの戦国武将を虜にした能の奥深い魅力と、彼らがパトロンとなって庇護した猿楽者たちを紹介します。
今回は、数多くの戦国武将を虜にした能の奥深い魅力と、彼らがパトロンとなって庇護した猿楽者たちを紹介します。
謡って舞える秀吉の推し・金春太夫
秀吉が能に目覚めたのは意外にも遅く、朝鮮出兵を控えて肥前名護屋に滞在していた57歳の時でした。新年の挨拶に訪れた素人役者・暮松新九郎と意気投合し、文禄2年(1593)から本格的な稽古を始めています。それ以前にも天正13年(1585)、弟・秀長の計らいで能楽師・金春安照と出会い、指南役を頼んだ記録も残っています。能の奥深さにたちまちのめりこんだ秀吉は、稽古開始からわずか50日足らずで十番曲を覚え、師から「この仕上がりなら人前に出しても恥ずかしくない」とお墨付きを得ました。その上達ぶりは周囲の誰もが目を見張るほどで、妻に「能の稽古で忙しい」と嘆く手紙を書き送るほど熱中していました。
文禄2年(1593)10月には、後陽成天皇が住む京都御所にて、3日間にわたる『禁中能』を披露。これには徳川家康や前田利家らも動員され、様々な役を演じたと言われます。師の新九郎もこの晴れ舞台に立ち会い、弟子の謡をハラハラしながら見守ったというエピソードは微笑ましい限りです。
その後、秀吉の能好きは加速し、新九郎に師事した翌年、58歳の時に『豊公能』を世に出します。太閤の生涯を描いた『豊公能』で、秀吉は蔵王権現の化身や母・大政所の霊と対面し、太平の世を寿ぎました。
大和猿楽四座の後見人を務めたのも秀吉の功績です。特に『豊公能』十番の節付(ふしつけ)を依頼した金春太夫を贔屓とし、大和四座の役者には配当米を特別に与え、他の座の吸収合併を促しました。
甥の秀次も秀吉に先んじて能を学び、下間少進を師と仰いで難解な秘曲『関寺小町』を修めています。能を習い始める以前から少進のファンだった秀吉は、毛利家の催しに少進を招き、その見事な舞を堪能したと伝えられています。秀長・秀次をはじめ、能を愛好する親族に囲まれていたことが、晩年の秀吉を能に熱中させたといっても過言ではありません。
「政宗大夫」と呼ばれた桜井八右衛門安澄
仙台藩祖・伊達政宗も、幼少期から能に親しんだ一人です。彼が能好きに育ったのは父・輝宗の影響が大きく、物心付いた頃から邸内では宴が開かれ、家臣が集まり能を催していたと言います。少年時代の政宗は自ら囃子を奏でることも多く、仙台藩の正史『貞山公治家記録』には、家臣・片倉景綱邸で能六番が演じられた際、二番の演目で太鼓を打ったことが記されています。豊臣秀吉や徳川家光も、政宗の太鼓の腕前を褒めたと伝わります。
政宗は「能は我が身の祈祷なれば」と語っており、諸国行脚中の遊行上人が『平家物語』に登場する齋藤別当実盛の亡霊と邂逅する『実盛』の演目を特に好んでいました。
政宗の伝記『政宗記』には、『実盛』を観劇した還暦過ぎの政宗が、感極まって落涙したエピソードが残っています。『実盛』は、敗軍の背骨を支えた老将の意地と悲哀を描いた能であったため、一際彼の心に響いたのかもしれません。隣には共に戦国の世を駆け抜けた1歳違いの従弟・伊達成実がおり、彼もまた袖で顔を覆って嗚咽していたそうで、2人の青春に想いを馳せてしまいます。
他方で政宗は能役者の育成にも力を注ぎ、14歳の奥小姓・桜井八右衛門安澄(やすとも)に才能を見出し、仙台藩と縁の深い金春流の能家に預けました。彼を鍛え上げた人物こそ、秀吉の推し・金春大夫安照とその三男・大蔵大夫氏紀です。
安照・氏紀親子による厳しい稽古に耐えた安澄は、めきめきと頭角を現し、政宗が主宰する能の主役に続けざまに抜擢され、ついに「政宗大夫」の称号を頂戴しました。政宗の友人で熱狂的な能好きの藤堂高虎は、「政宗大夫」の舞に感銘を受けて衝動的に席を立ち、「御うら山しく候(うらやましい)」と叫んだそうです。
贔屓の役者に扶持を与えることは日常茶飯事で、能に費やした額は年間3万石以上とも言われています。寛永11年(1634)に『関寺小町』を舞った喜多七太夫長能が、嫉妬に駆られた同輩の策略で閉門騒動に巻き込まれた際は、政宗自ら将軍・徳川家光を接待し、処分を取り下げさせています。
観世十郎大夫に能の稽古を受けた徳川家康
最後に挙げるのは、徳川幕府を開いた徳川家康です。彼もまた能好きで知られる戦国武将の一人で、初代将軍になって以降、能役者たちに配当米を与えて手厚く庇護しました。家康が能に魅了されたきっかけは、竹千代と呼ばれていた幼少期にまで遡ります。当時の竹千代は今川氏の人質として駿府城に預けられていましたが、そこで能に触れる機会に恵まれ、世阿弥の子孫にあたる観世十郎太夫に直接稽古を付けてもらっていました。
観世十郎太夫と家康の縁は長く続き、浜松城時代には観世十郎大夫の弟、七世観世大夫元忠宗節に学びます。元亀3年(1572)に三方ヶ原の戦いで武田信玄軍に攻め込まれ、命からがら浜松城に退いた家康は、自軍の兵も逃げ込めるように城門を閉ざさぬまま、「もはやこれまで」と覚悟を決め、宗節に舞を乞いました。
家康を追ってきた武田軍はその光景に驚愕し、「何かの罠では?」と撤退。思いがけず勝利を手にした家康は大いに喜び、これ以降、新年最初の伝統行事「謡初(うたいぞめ)」に、『弓矢立合(ゆみやたちあい)』なる戦勝祈願の曲を盛り込みました。この成功体験を引き継ぎ、能は徳川幕府の式楽に採用されたのです。
家康のお気に入りは「幸若舞(こうわかまい)」で、『平家物語』『義経記』『曽我物語』などの軍記を下敷きにした能を、家族揃って鑑賞していました。駿府城三の丸に立派な能楽堂を設け、諸国の大名や公家をもてなした逸話も特筆すべきです。
秀吉主宰の能楽会で『船弁慶』を舞った時は、見苦しい肥満体を押して容姿端麗な若武者・源義経を演じ、一同の笑いを誘いました。これは家康の老獪さをほのめかすエピソードとも言われており、あえて滑稽な役回りを演じることで秀吉の油断を誘い、下剋上を狙っていたと指摘する研究者もいます。
おわりに
以上、能を愛した戦国武将たちのエピソードを紹介しました。『豊公能』や『実盛』に共通する要素として、能にはしばしば神仏の化身や死霊が現れ、生者と対話を繰り広げます。普段から戦場に身を置いていた武将たちは、生と死の「あわい(間)」や「ゆらぎ」を体現する能を通して、諸行無常な世界観を垣間見ていたのかもしれません。
【参考文献】
- 原田香織『戦国武将と能楽 ―信長・秀吉・家康―』(新典社、2018年)
- 今岡謙太郎『日本古典芸能史』(武蔵野美術大学出版局、2008年)
- 大倉源次郎『能から紐解く日本史』(扶桑社、2021年)
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
 
                   
     
                        
     
                
     
                                
 
        
     
     
     
         
                 
                
コメント欄