信長・秀吉・家康が目を付けた鉄砲鍛冶の里 国友村
- 2024/07/05
鉄砲鍛冶の里近江国友村
近江国「国友村(くにともむら)」は泉州「堺」と並んで日本の火縄銃の二大生産地です。 なぜなのか?それは国内最上品と言われる出雲の鉄が対馬海流に乗って来る船で越前敦賀港に陸揚げされ、その鉄を手に入れることができたからです。国友村は琵琶湖を経由して政治経済の中心地であった畿内へ荷物を運ぶ内陸水運ルートの一部に当たっていたのです。
また、湖北一帯には古くから帰化人が住み着き、優れた鋳造・製鉄技術が蓄積しており、室町時代にはすでに鍛冶師の集団が村を作って刀を鍛えたり鉄の打ち物を作ったりしています。
この辺り湖北三郡を領していたのは浅井氏でした。浅井氏は石山本願寺とも関係を持ちながらも当初、鉄砲の重要性を見抜けなかったようです。そこへ行くとやはり織田信長は違いました。天文23年(1554)、美濃国の戦国大名・斎藤道三との会見に臨んだ信長は、大人数の槍隊と共に500挺の鉄砲隊を引き連れていました。鉄砲の重要性をいち早く見抜いた信長は、すでにこれだけの数の鉄砲を手元に揃えていたのですね。
信長は徳川家康と手を組み、姉川の戦い(1570)において浅井・朝倉連合軍を撃破。その翌年に信長は滋賀県長浜市と米原市の境にある横山城に入城した木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に命じて、国友鍛冶に200匁玉筒(九尺)の大筒を2挺作らせています。
これが最初の国産大筒です。大伴宗麟が国崩(くにくずし)と呼ばれたポルトガル製フランキ砲を豊後臼杵城に備えたのが天正4年(1576)ですから、それよりも5年も前のことです。
天正元年(1573)、小谷城の戦いで浅井氏を滅ぼした信長は、その領地である国友村を含む北近江を領しました。そしてこれを藤吉郎に与えて統治させ、抜け目のない藤吉郎は国友村の鍛冶師を優遇し、鉄砲生産に励ませます。
鉄砲造りの実際
鉄砲造りの実際の作業はどのようなものだったのでしょう。まずは最も重要な銃身づくりで、以下は国友村に伝えられた作業工程です。- まずは銃身からです。鉄砲の大きさに合わせて用意された鉄板(瓦金(かわらがね))を、槌で打って鍛えます。
- この瓦金を丸い棒(真金(まがね))に巻き、接合部分がわからなくなるまで熱しながら鍛え、筒状に仕上げます。
- 別に鉄板を打ち延ばし、幅1寸の細長い板(巻板)を作ります。
- 巻板を出来上がった鉄砲筒に巻き付けながらなおも鍛え、一体化させます。この作業を “巻張り” といい、巻板を二重にまいた筒を“二重巻張り”と言います。一重よりは二重、二重よりは三重に巻いた方が良い鉄砲が出来ます。
- 火皿を付け、筒先の部分を整え、銃口の膨らみを形づくります。
- 銃身のひずみを直し、“モミシノ”という錐を使って銃腔内を滑らかに仕上げます。この仕上げには千分の1ミリの精度が求められます。
※瓦金・真金・巻板・巻張り等、なかなかイメージが湧かない方は、以下の外部HPをご参照ください。
ふるさと ながはま「鉄砲の銃身の作り方」
現在のような溶接の技術はなく、土台となる銃身と“巻板”との一体化には幾度も炉の中へ銃身を投じ、叩き締めては鍛接を繰り返さねばなりません。鉄板を鍛えることにより丈夫な銃身が出来るのですが、ここで刀を打つことで磨き上げられた国友刀鍛冶たちの技術が生きてきます。
なにしろ銃身内部で火薬を爆発させてその衝撃で弾を発射するのですから、暴発せぬよう丈夫な傷の無い銃身を造らねばなりません。
このあと、台師が白樫の木で銃床を付け、金具師が引き金・火挟み・火蓋・胴金をつけて完成します。普通、鍛冶師の作業場は住まいに隣接していますが、大筒を作る時は広い作業場を持つ有力鍛冶師のもとに集まり、共同作業を行います。
ネジが問題
最初に国産の火縄銃を作る時、ネックになったのが銃の底をふさぐ方法でした。火縄銃は粉末の火薬を筒先から入れてその後から弾を込める方式ですから、銃底には火薬が燃えた後に残るカスが溜まるので時々掃除をしなければなりません。つまり、銃底は密封できなかったのです。密封せずに弾丸発射時の衝撃に耐える仕組み…これがわかりませんでした。尾栓にネジをねじ込んでとめるのがその方法ですが、日本には金属製のネジに関する技術はありませんでした。そこで種子島で鍛冶屋の棟梁となっていた八板金兵衛清という男が自分の娘をポルトガ人に差し出し、その方法を教わったとの話が伝わっています。
家康は国友村を天領に
国友村の鍛冶師たちの技術に目を付けたのは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。国友鉄砲の優秀性は豊臣秀吉の小田原攻め(1590)や朝鮮出兵(1592~93、97~98)でも遺憾なく発揮されました。 関ケ原の戦い(1600)以降、家康は国友鍛冶を御用鍛冶として我が手に納めます。この橋渡しをしたのは細川忠興の鉄砲術師範の稲富直家一夢(いなとみなおいえいちむ)であったと言われます。家康は江戸幕府を開いて2年後の慶長10年(1605)には国友村を天領とし、鉄砲代官を置きました。
大坂冬・夏の陣(1614~15)でも国友大筒・国友鉄砲は大いに役に立ち、元和元年(1615)大坂夏の陣から凱旋途中の家康は、近江永原の地で勲功のあった国友鍛冶総代を引見しています。国友村石高900石のうち174石を鍛冶師・台師・金具師の扶持とします。そのうち90石を4人の総代の取り分とし、残りを順に総鍛冶や若年寄りが受け取りますが、平鍛冶たちの取り分は極めて少なくなってしまいます。4人の総代は苗字帯刀を許され武家に準ずる待遇を与えられ生活も保障されますが、多くの者はその恩恵に預かれませんでした。
おわりに
銃という強力な武器製造の技術をあっと言う間に自国のものにしてしまった日本人。それは世が戦国時代だったことが背景にあります。諸国の大名が競い合って強力な武器を求め、「そのためには金は惜しまぬ」の姿勢で職人たちの尻を叩いたからです。もちろん刀鍛冶が培ってきた優れた技術があっての事ですが。【主な参考文献】
- 金子務『江戸人物科学史』中央公論新社/2005年
- 霜禮次郎『和銃の歴史』文芸社/2019年
- 宇田川武久『鉄砲伝来の日本史』吉川弘文館/2007年
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