豊臣秀吉は、なぜ家臣を弄(もてあそ)ぶようなことをしたのだろうか?
- 2025/05/14

下馬の礼を取った秀吉
豊臣秀吉は関白まで昇進し天下人になったが、若い頃は貧農の子に過ぎなかった。後年、秀吉は家臣を弄ぶようなことをするが、そこには出自にまつわるコンプレックスがあったと考えられる。秀吉の貧しい生活ぶりの姿は、多くの二次史料に書かれており、薪拾いで生活していたなどのエピソードには事欠かない。秀吉は織田信長に登用されて以降、順調に出世をしたものの、しょせんは貧農の子に過ぎず、屈辱的なこともあった。次に、『日本史』第一六章に書かれている、秀吉が主だった武将に下馬の礼を取った記録を掲出しておこう。
しかし彼(秀吉)は、がんらい下賤の生まれであったから、主立った武将たちと騎行する際には馬から降り、他の貴族たちは馬上に留まることを常とした。
秀吉は信長から高く評価されて、加増されたのは事実であるが、賤しい出自を変えることは決してできなかった。いくら秀吉が軍功を挙げても、その出自ゆえにほかの武将と馬を並べることはなく、下馬の礼を取らなくてはならなかったのである。身分の低い者が高い者に会った際、馬から降りるのが当時の慣習だった。
若き秀吉にとって、これほど屈辱的なことはなかったに違いない。いくら戦場で活躍しても、秀吉は身分的には彼らより下だった。おそらく秀吉は大きなコンプレックスを抱くことになり、人格が大きく歪んでしまったのかもしれない。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死すると、秀吉は天下人の道を歩みはじめた。その際、敵対する武将に対しては、恫喝するような文言で書状を送りつけたり、虚偽の内容を記したりすることもあった。
後者の例で言えば、中国大返しの行程が有名であり、たった一昼夜で備中高松城(岡山市)から姫路(兵庫県姫路市)に行ったというのは、まったくの嘘である。秀吉は虚勢を張って、敵対勢力をビビらせようとしたのだ。
家臣を翻弄する秀吉
こうした秀吉の歪んだ人格は、海外の史料にも書かれている。姜沆の『看羊録』では、慶長3年(1598)における日本と朝鮮との和睦交渉に際して、秀吉が諸将を厳しく叱責している姿について、「(秀吉の)容貌や言辞の、思い上がった傲慢さは、想見するに思わず心が痛み、骨が削られるようである」
と述べている。
姜沆は敵方でありながらも、気分が不快になるほどの言葉を秀吉は吐いていたことを見逃さなかった。ちなみに、秀吉は朝鮮出兵の際、大友吉統ら諸将を改易にしたが、すべて見せしめにするための言い掛かりに過ぎない。
続いて姜沆が指摘するのは、家臣らを翻弄する秀吉の姿であった。次に、その場面を描いた箇所を掲出することにしよう。
(秀吉の)性質は、実に悪賢い。専ら下らぬおどけごとで部下をもてあそび、(徳川)家康らを侮弄するのは、まるで赤子を弄ぶような具合であった。また、喜んで水売りや餅売りのまねをし、家康らを通行人に仕立てて何か買わせる様子をさせたり、一文一鐺の下らないいたずらごときの腕くらべをさせたりした。
秀吉は自らが権力者であるのをよいことにして、家康らの上級家臣に命じて、「○○ごっこ」のような遊びに興じていた。いかに家康が関八州を治めていたとはいえ、報復を恐れて従わざるを得なかったのだろう。
秀吉は自らも商売人を演じて見せ、諸大名に客を演じさせていた。こうした下らない遊びに付き合わされた諸大名は、相当な迷惑だったに違いないが、従わざるを得なかったのである。なお、残念ながら、「一文一鐺」の意味は不明である。
このように秀吉が自分の遊びや趣味に諸大名を巻き込んだ例は、いくつか知られている。たとえば、秀吉が能に傾倒していたことは、よく知られた事実である。彼は能を鑑賞するにとどまらず、諸大名に命じて演じさせていた。自らの手柄話を能として上演したこともあったという(「豊公能(ほうこうのう)」という作品群)。
茶道といい、能といい、秀吉は自身の趣味を諸大名に押し付ける性癖があった。たしかに、茶道や能は社交の場でもあり、諸大名にとって意味があったかもしれないが、秀吉の場合はかなり異常だったように思える。
死んだふりをする秀吉
秀吉の常軌を逸脱した行動は、次第にエスカレートするところとなった。姜沆の『看羊録』の言葉を借りるならば、「専ら権謀術数で諸将を制御する」という方法である。次に、その具体的な例を同書から引用しておこう。ある時などは、「(秀吉が)今夜は東に泊まる」などと命令を出しておいて、夕方には西にいたりした。まるで曹操の疑塚の亜流である。ある時は、猟に出て、(秀吉が)死んだふりをしばらく続けた。従者らは、あわてふためき、なすすべを知らなかった。その大臣(大名)らは、平然としたままで動きもしなかった。すでに、それが偽りであることを知っていたのである。
秀吉は死んだふりをしたあと、生き返った所作をしたという。秀吉は家臣をからかったくらいにしか思っていなかったかもしれないが、事情を知らない家臣は、心臓が止まるような思いをしたのである。ただ、主要な大名らはそれが演技だと知っていた。
現実に秀吉のイタズラ好きは世に知られており、上層に位置する家臣らは慣れっこになっていた。心中ではきっと呆れていたことだろうが、気を遣って驚いたふりをすることもあっただろう。秀吉は、実に面倒な存在だった。
ちなみに曹操の疑塚とは、曹操があらかじめ72基の墓を作り、亡くなったあとに埋葬しても、どれが本当の墓かわからないようにしたという故事である。ずいぶんと手の込んだイタズラであるが、秀吉は真似したのである。
秀吉自身にとっては単なる悪ふざけであったかもしれないが、姜沆から見れば諸将を愚弄する行為にしか見えなかった。秀吉は家臣を弄ぶことを常としており、自分より高い出自の大名らをからかうことに、大きな快感を感じていたのである。
まとめ
秀吉が自分の出自に大きなコンプレックスを抱いていたのは、間違いないと考えられる。関白になっても、そのコンプレックスは決して解消されなかった。それゆえ、諸大名をからかってみたり、自分の趣味にむりやり付き合わせたと考えられる。そんな秀吉を諌める者はいなかった。というよりも、できなかったというほうが正しいだろう。秀吉の態度はだんだん尊大になり、暴走しはじめた。文禄・慶長の役もその一つであり、出兵時における諸大名の改易も同様なのである。
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