信長の「天下布武」はどんな意味? 戦国大名の印判の深読みは危険
- 2025/01/10
信長の「天下布武」
永禄10年(1567)、美濃国稲葉山城を制圧した織田信長は、この城の名前を岐阜城に改めるとともに、その印文を「天下布武」にすることにした。かつての通説はこの印文を「日本全土に武を行き渡らせる」つまり「武力で日本を平定する」と解釈されていたのである。
ところが20年ほど前の論考だろうか。
信長は「天下布武」の印文を押した書状を、足利幕府再興に熱心な上杉謙信に送っている。これがもし「日本を武力で統一します」という意味なら失礼なのではないかという指摘がなされた。
それ以降「天下布武」の解釈が揺れ動き、「天下とは畿内を意味することがある、布武も武家再興(公家は幕府をそう呼んでいた)の意味だ」とする説が流行り始めた。
つまり「(私は)畿内に幕府を再興します」と読むのが妥当だという解釈である。
当時の信長にそうした志があったのは事実である。だが、これが「天下布武」の意味を示すかというと、そうではない。
そもそも論争初期に新解釈の可能性を示した歴史学者は、ここまで突飛なことは言っていなかった。ところが歴史愛好家たちの間で、なんとなく「畿内の幕府再興」論が新しい通説と化していった。
しかしここ数年、論争が落ち着いてきたらしく、歴史学者の解釈は最初の通説に戻りつつあるようである。
私も前々から述べているように、「天下」はやはり「天下」である。これを「畿内」や「京都」の意味で読む必要がない。もし本当に信長がそう主張したいなら、「公方再興」と書けばいいではないか。
これを漢文で表現したかったのだと思えるかもしれないが、漢語に「天下布武」という言葉は存在しない。文法としてもまずありえない。
単なるキラキラ文字の羅列
まず思い出してもらいたい。この時代の印判や印文に、大名が具体的な戦略方針やスローガンを刻んだものがあるだろうか?
少なくとも一般的ではない。
大名たちは、自分の下の実名(武田晴信の「晴信」、今川義元の「義元」など)や、縁起のいい神様の呼び名(上杉謙信なら「帝釈天」など)やその心意気を示す言葉(謙信は宝は心に在りという「宝在心」の印判を使った)を使っていた。
小田原城で有名な相模北条家の印判「禄寿応穏」は「平和な世の中を約束する言葉」と解釈されることが多い。
だが、漢語として正確な読み方だろうか?
これは、直江兼続の兜前立ての「愛」を、「ラブ」と解釈するのに似ているように思う。明確な先例が検出されないまま、現在人に希望的観測でそのように読まれている恐れがある。
実際には「福禄寿」(道教の神)に因むスピリチュアルな印文の可能性が高いだろう。
織田信長だけ特別視はできない
大名の印判は、自身の心意気や座右の銘を示すぐらいが普通で、具体的に「こうするぞ」と主張するものとして使われてはいない。たとえば、謙信はその意匠に獅子、北条氏康は虎、武田信玄は龍を施していて、このうち信玄の龍を「皇帝になりたい」という意思表示だと読む人はいないだろう。
これをもって「信玄は日本支配をスローガンにしていた」とは言わないように、信長の「天下布武」もそれぐらいの感覚で選ばれた字面と響きのいい造語程度のものと考えるべきだろう。
例証として、信長の息子たちは「一剣平天下」「威加海内」の印文を選んで使っている。
どちらも明らかに旧説の「天下布武」と同じ意味で読むべき印文だ。息子たちが「武力で天下をまとめます!」という印文を使っているんだから、信長の「天下布武」も、文字通り「天下に我が武を行き渡らせる」の意味で読むのが妥当である。
戦国時代の「天下」
最後に「天下」という言葉の意味について補足する。戦国時代初期の明応4年(1495)7月5日、下総西願寺(千葉県市原市)で阿弥陀堂が造営された際、その堂内に「鎌倉の住人二郎三郎」の職人ぶりを「天下の名人 」と銘記する墨書が挿入された。この「天下」は関東または日本を示すと思われる。
天文16年(1547)に甲斐(今の山梨県)の武田信玄が分国法『甲州法度之次第』を定めたときも、その第20条目に「天下は戦国の世である以上、何を置いても武具を備えることが重要だ」という一文がある。
この天下が「畿内」のことは考えにくい。
天正6年(1578)5月の吉川元長自筆書状に、播磨(今の兵庫県付近)で奮闘した山中幸盛の働きを、「天下無双」と評する一文がある。
やはり「畿内」と関係がない。
信長の「天下布武」は前田慶次の「ふへん者」の旗印と同種で、公約を示すものではなかった。
龍の朱印を用いるような大名たちも信長の印文を見て「こやつ、不遜な!」と不快感を持つことなく、「ああ、信長さんも意識の高い人だなあ」とぐらいに受け止めていただろう。
戦国大名の印判を、深読みすると危険である。
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