戦国時代の「天下」の解釈 徳川家康はいつから天下人として認識されていたのか
- 2023/07/04
一般的に「天下」の意味は、日本全国とイメージする人が多いと思います。ところが、近年の研究では、「天下」という言葉には様々な意味があることが明らかになりました。具体的には「京、及びその周辺地域」を指します。
以上をふまえ、今回は近年の研究を参照のうえで家康が生きた戦国時代の「天下」とは何を指すのか考察したいと思います。
以上をふまえ、今回は近年の研究を参照のうえで家康が生きた戦国時代の「天下」とは何を指すのか考察したいと思います。
信長の朱印「天下布武」の解釈をめぐる疑問
織田信長は美濃を平定した頃(1567年)より「天下布武」という朱印を用い、毛利元就や上杉謙信など各地の戦国大名に書状を発給するようになりました。従来、この「天下布武」という文言は「武力をもって日本を統一する」と解釈されてきました。しかし、この朱印を使用し始めた当時の信長は、尾張・美濃の2か国を領有する戦国大名に過ぎません。もし上記の解釈でいけば、書状を受け取った大名の領国をいずれ征服すると表明していることになってしまいます。つまり宣戦布告のようなものです。
尾張と美濃の2か国を領しているだけで、各地の屈強な戦国大名に宣戦布告をするのは無謀といえますし、違和感もあります。さらに書状の内容は、征服を表明するような内容ではなく、対等な大名同士の情報交換、むしろ友好関係にあることが確認できる内容となっていますので、従来の「武力をもって日本を統一する」という解釈では説明ができません。
以上の経緯から、現在の研究では「天下」=「京」と捉え、「天下布武」は武力をもって上洛する意志表明と考えるのが有力視されつつあります。こうした捉え方の背景に、足利義昭からの上洛支援の要請があったことがあげられます。
実は信長の下には、義昭からの上洛支援要請が永禄10年(1567)の美濃平定以前から届いており、信長もこれを受諾する方針を示していました。上洛は美濃斎藤氏との争いで厳しい状況にありましたが、美濃平定によって上洛が可に…。そこで信長は義昭の要請に協力する意志表明として、信長は「天下布武」の朱印を用いたとみられています。
ちなみに信長は上洛以降も「天下布武」の朱印を使用しています。これは引き続き、信長が武力をもって京都を守る意志表明と考えられています。書状の内容も宣戦布告のような内容ではないため、やはり「天下布武」=「武力をもって日本を統一する」という従来の解釈では説明できないでしょう。
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様々な語意が認められる「天下」
ここまで信長の朱印「天下布武」から、「天下」は「京」を指すと指摘してきました。ただし、それ以外にも「天下」には様々な語意があることが近年明らかになりました。具体的には、①将軍、②京都や畿内、③世間の評判もしくは日本全国などになります。以下、史料を提示しながら、それぞれ詳しくみていきましょう。
① 「天下」=将軍の事例
「上意として仰出され候の旨、目出、早速御一味申され候はヾ、天下においては御大忠これに過ぐべからざる候」
史料1は当時の室町将軍側近の大館常興から越後の戦国大名長尾為景(上杉謙信の父)に宛てた書状です。内容は上意(将軍の意向)に従うことが天下(将軍)に忠義を尽くすことになると記されています。上意は室町幕府の将軍の意向になるため、「天下」は将軍を指すと考えられています。
続いて江戸幕府の将軍の事例を紹介します。
「天下に恨みこれあるや、又長門(島原藩主松倉勝家)に一分の恨みこれあるや」
史料2は寛永14年(1637)に勃発した島原の乱に関わる史料で、幕府軍総大将松平信綱が原城に籠城した一揆方に籠城した理由を尋ねた史料になります。信綱は「天下」=徳川将軍に恨みがあるのか、あるいは島原藩主に恨みがあるのかと質問しています。
② 「天下」=京・畿内と呼ぶ事例
「武田晴信退治、氏康・輝虎真実に無事を遂げ、分国中留守気遣ひなく、天下へ上洛せしめ」
史料3は「天下」=「京」の事例となります。上杉輝虎(後の謙信)は武田晴信(後の信玄)を討伐したののち、上洛を目指していたことがわかります。
「日本全土は六十六の国に分かれている。(中略)その中でも最も主要なものは日本の君主国を構成する五畿内の五つの王国である、というのはここに日本全土の首都である都があるからである。そして五畿内の君主となるものを天下の主君、即ち日本の君主国の領主と呼び、(中略)天下の主君である者はその他の国々を従えようとするのである」
当時来日していたイエズス宣教師のルイス=フロイスの書翰から「五畿内の君主となるもの」が「天下の主君」であったことが窺えます。ここから「天下」には「五畿内」という語意もあったことが考えられます。
そして、五畿内を制する者は「日本の君主国の領主」と認識されていたようです。このとき五畿内を治めていたのは関白豊臣秀吉です。史料4の前年に秀吉は九州を平定しており、秀吉に従属していない主な勢力は関東の北条氏や奥州の伊達氏ぐらいでした。
なお「五畿内」とは山城・摂津・和泉・河内・大和の5ヵ国を指し、この地域を「天下」と呼ぶ事例が史料4になります。
③ 世間の評判もしくは日本全国を「天下」と呼ぶ事例
「元亀之年号不吉候者、かいけん然るべきの由(中略)今に遅々候、これは天下の御為
候処、かくのごとく御油断、然る存じべからざる候事」
史料5は織田信長が足利義昭を批判した「十七箇条意見書」の第10条になります。当時「元亀」の年号が不吉であるため、改元が予定されていました。近年の研究によれば、この改元は前年に実施予定でしたが、将軍義昭が改元費用を捻出しなかったため延期となっていたようです。通常、改元の費用は室町幕府が捻出していましたが、これを義昭が怠ったため、信長が将軍義昭を非難したのが史料5の内容です。
史料5では元亀の年号を改元することは「これは天下の御為候処」と記されています。つまり、改元の理由は「天下」のためということです。この場合の「天下」は「将軍」や「京」ではなく、「世間の評判」を指すものと考えられているので、信長は「世間の評判」に配慮して改元を計画していました。
「世間の評判」と解釈するとなると、史料5の「天下」については「日本全体」を指すと考えることもできるかもしれません。
「天下人」徳川家康の誕生はいつ?
さて、近年の研究では「天下」の統治者(この場合は京の統治者)を「天下人」と呼称するようになりました。これに基づけば戦国時代に「天下」を統治していた足利将軍は「天下人」です。その後の「天下人」は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続き、それ以降は歴代の徳川将軍によって継承されていきました。それでは家康が「天下人」と認識された時期はいつ頃になるのでしょうか? 実は『多聞院日記』慶長4年閏3月14日条に、前日伏見城本丸に入った家康を「天下殿になられ候」とする記述があります。
この記述から、関ヶ原合戦の前年にあたる慶長4年(1599)の時点で、家康を「天下人」として認識していた人々がいたことが確認できます。関ヶ原合戦や征夷大将軍補任・大坂の陣を経て家康の「天下人」としての地位は固まっていきましたが、すでに関ヶ原合戦前の段階で家康を「天下人」と認識する傾向があったのです。
おわりに
今回は「天下」には様々な語意があることを解説しました。「天下」の語意をめぐっては、前後の文脈によって様々な解釈ができるため、なかなか難しい側面がありますが、「天下」=「日本全国」では説明が付かない場面もある、ということを本記事からご理解いただければ幸いです。【主な参考文献】
- 神田千里『戦国時代の自力と秩序』(吉川弘文館、2013年)
- 金子拓『織田信長<天下人>の実像』(講談社、2014年)
- 柴裕之『徳川家康-境界の領主から天下人へ ー』(平凡社、2017年)
- 小川雄・柴裕之編『図説徳川家康と家臣団』(戎光祥出版、2022年)
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