【敗者の明治維新】幕末ミステリー…能吏・小栗忠順は何故殺されたのか?
- 2025/02/28

この埋蔵金に関わっていたとされたのが、幕末の勘定奉行・小栗忠順(おぐり ただまさ)です。官位である小栗上野介の名前でも知られていますね。今回は、彼の死にまつわるミステリーを考えたいと思います。
浪漫あふれる徳川埋蔵金、でも当事者にしたら……
徳川埋蔵金とは、徳川幕府が幕末に隠したとされる約400万両(現代の価値で言うと20兆円とも)のこと。官軍に江戸城が明け渡されたとき、幕府御用金が入っているはずの蔵が空っぽだったことから、幕府が秘かに持ち出して隠したのだと当時から噂されていました。ちなみに400万両あったという根拠は勝海舟の日記に「軍用金として360万両あるが、これは兵の給料だから使うわけにはいかない」というような内容が書かれていたからだとか。
でも、給料なら兵たちに支払われるでしょうし、400万両まるっと蔵に残っていた根拠としてはちょっと薄い気もします。個人的には幕府の財源が困窮を極めていた頃ですし、給料や銃などの新設備に使われて、たいして残ってはなかったのではないかと思っています。それが開城のどさくさで誰かに渡されたか、盗まれたかしたのでは……という推測をしていますが、真実は謎です。
でも、埋蔵金は歴史浪漫あふれる話題ですし、いまだに追い求める人がいたり、テレビ特集されるのもわかります。ただ、当時、心当たりもないのに「お前が隠しただろう?」と疑われた人にとっては、たまったものではなかったでしょうね。
それが勘定奉行の小栗忠順でした。江戸幕府において主戦派だった榎本武揚や大鳥圭介が戊辰戦争後に許されて新政府要職に就いているのに、なぜか戦わずに隠遁していた彼だけが斬首されたという、埋蔵金伝説と相まって謎多き最期を遂げた人物です。
明治政府の近代化政策をすでに幕末に考えていた男
小栗忠順は万延元年(1860)、遣米使節に目付として同行し、江戸町奉行、外国奉行や勘定奉行などを歴任。幕府の財政立て直しをしつつ、横須賀製鉄所や近代ホテルの建設、兵器・装備品の国産化を推進、商社や日本初のフランス語学校の設立……などなど、幕末期の内政・外政で大きく活躍した人です。
少年の頃から文武の才に優れていたそうですが、少々性格に難ありで、歯に衣着せぬ物言いをすることから、何回か役職を変えられたり辞したりしています。しかし、その都度、呼び戻されたり新しい役職を与えられたりしていたというのですから、どれだけ有能だったかわかろうというもの。
慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が始まると、1月12日からの江戸評定では強硬に徹底抗戦を唱えます。この時、小栗が唱えた「箱根で敵を迎撃する」という作戦は、後に官軍の大村益次郎が恐れたほど的確な作戦だったといいます。もっとも、この時の評定では小栗だけでなく多数の人が別々の作戦を主張していて、仮に主戦派の意見が通っていたとしても、作戦がまとまったかは怪しいところです。
議論百出する中、将軍・徳川慶喜は1月14日(15日とも)に小栗を勘定奉行から解任。当時、幕臣のほとんどは抗戦派だったと言いますから、急先鋒だった小栗を解任することで彼らの勢いを削ごうとしたのでしょうか。あるいは、小栗は恭順と決めた慶喜の袴の裾を掴んで再考を迫ったそうなので、単に主君に疎まれただけかも知れません。
幕府でのすべての役職を解任された小栗は、彰義隊や会津の誘いや米国亡命も断り、知行地である上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁を決めます。
慶喜が恭順を決めた以上は大義名分のない戦いをせず、新政府の動向を見守る。本当に民が困らない世の中が作れればそのまま、もしも混乱が生じて外国につけ込まれるようなら自分にも役目が出来るだろう――
そんな心持ちであったようです。
誰が小栗忠順を殺したかったのか?
2月28日、小栗一行は江戸を出発。3月1日に権田村に到着します。大身旗本だった小栗は奉公人や荷物も多く、かなり目立った存在だったのではないでしょうか。その中には、銃や弾薬を入れた千両箱などもあったとか。元・勘定奉行の小栗上野介が大荷物を運んでいる、しかも千両箱もいくつもある。何度も勘定奉行を勤めたヤツだ、たんまりため込んでいるに違いない。もしかしたら、御用金を運んでいるのかも知れない……。
そんな噂が、瞬く間に庶民の間を駆け巡り、権田村に到着のわずか3日後の3月4日に、小栗は2000人ともいわれる暴徒に襲われます。もっとも、ほとんどは博徒に脅されて周辺の村からかき集められた烏合の衆だったので、小栗は最新式の武器で彼らを蹴散らします。
周辺の村と和解し、一応の平和を得た小栗は、住居建設など土着の準備を進めます。しかし、それが今度は政府軍と交戦するため砦を作っているという誤解を生んでしまいます。
4月22日、東山道総督府は高崎・安中・吉井の三藩に小栗捕縛の命令を下しました。小栗は閏4月1日(この年は旧暦の閏年で4月が2回ありました)に三藩と談合し、彼らの顔を立てて、大砲をはじめとする武器弾薬をすべて引き渡し、さらには養嗣子の又一を出頭させて恭順の意を示します。
理路整然とした小栗の主張に三藩は納得し、いったんは引き上げます。ところが、東山道総督府はこれに激怒。長州の原保太郎と土佐の豊永貫一郎を監察使として派遣し、閏4月5日に小栗を捕縛。一切の取り調べをせずに閏4月6日に斬首してしまうのです。小栗、享年42。
斬首は言うまでもなくもっとも重い刑罰です。士分であれば、通常なら切腹になるところ。それをあえて斬首としたということは、武士として扱わず、罪人として扱うということです。
戊辰戦争で斬首の刑を受けたのは、有名どころでは近藤勇がいますが、彼の場合は元の身分が農民であったことや、新選組が坂本龍馬暗殺の犯人として疑われていて、土佐から逆恨みをかっていたという理由があります。
また、戊辰戦争を戦った各藩の家老も斬首刑を受けてはいますが、いずれにしても最初に取り調べは受けています。そもそも罪人が武士ではなく一般庶民であっても取り調べはあるものです。
では何故、東山道総督府は小栗の取り調べをしなかったのか?逆に言えば、彼らは小栗を処刑に出来るほどの証拠がなかったため、取り調べが出来なかったのではないでしょうか。
小栗の処刑理由は、朝廷に対し大逆を企てたというもの。けれど小栗は官軍と戦ってすらおらず、武器弾薬も差し出して、ずっと恭順の姿勢を貫いています。彰義隊への参加も断っていますし、各地に反乱の檄文を飛ばしたなどの事実もなし。普通に取り調べをしたら、小栗を罪人にすることは出来ないのです。
江戸幕府のみならず、外国人や官軍などにも顔が利いた小栗のこと、取り調べで時間を置けば、証拠もないのに拘束されている小栗を釈放せよという声が必ず上がります。だからこそ、捕縛の翌日に処刑という拙速な処分を選んだのではないでしょうか。そこまでして小栗を殺したかった東山道総督府――あるいは官軍の強い意志を感じます。
観察使の原保太郎(22歳)と豊永貫一郎(16歳)は年齢も若いですし、小栗とのトラブルも特になし。単なる総督府のお使いでしかないと思います。(若いからこその暴発の可能性も一応あります)
当時の東山道総督は岩倉具定、副総督は岩倉具経、参謀は乾退助(後の板垣退助)、伊知地正治だったそうです。この中の誰かが法や秩序を曲げてでも小栗を殺したかったのか、それともさらにその上に誰かがいたのか……。
そもそも小栗が金を持っているという噂にしても、広がり方が不自然ではあります。2月28日に江戸を出発して3月4日の暴動まで一週間もありません。その間に江戸からの噂が群馬まで届くのでしょうか?本当に博徒由来の自然発生的な暴動なら、博徒が噂を知ってから計画を立て、人を集めるわけで、もう少し時間が経ってから起きそうなものです。
ここにも、何らかの意図を感じてしまいます。
おわりに
「そんなに費用をかけても、完成しているときに幕府がどうなっているかわからない」上記は、幕府財政が逼迫するなか、巨費を投じて製鉄所(造船所)を建設しようとする小栗に向けられた批判ですが、これに対して小栗は名言を放ちます。
「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない」
彼は幕臣なので幕府に尽くす存在ですが、それでいて日本の将来も見据えた人物でした。幕府が作った造船所が、必ず未来の日本の役に立つと確信していたのです。
その言葉通り、明治38年(1905)に日本艦隊は日本海海戦で勝利。連合艦隊司令長官東郷平八郎は、小栗の子孫に「日本が勝利できたのは、製鉄所・造船所を建設した小栗氏のおかげ」と感謝したそうです。
【主な参考文献】
- 高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新』(岩波書店、2013年)
- 村上泰賢『小栗忠順のすべて』(新人物往来社、2008年)
- 佐藤雅美『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』(岩波書店、2007年)
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