敗者の明治維新・新選組の実像…凶悪なテロ集団?いいえ、警察っぽい組織です
- 2024/12/06
けれど、創作の数が多くなりすぎて、実際の姿が見えづらくなっている気もします。幕末の世で、彼らは一体どんな存在だったのでしょうか。
幕府の徴募から誕生した新選組
新選組は、その成り立ちは少々複雑です。文久2年(1862)、庄内藩郷士・清河八郎の発案により、江戸幕府は将軍警護のための「浪士隊」を徴募。文久3年(1863)、将軍上洛に先駆けて京都を目指します。ところが先行隊が京都に入ったところで、隠していた清河の目的が発覚。清河は浪士隊を将軍警護ではなく、天皇の兵力として使おうと考えていたのです。
当然、江戸幕府がそんなことを許すはずがありません。幕臣たちの協議の末、浪士隊はそのまま江戸に戻ることに。それをよしとせず、京都に残留して幕府のために働きたいと申し出た人たちの中にいたのが、後に新選組の局長となる近藤勇や芹沢鴨と同士たちでした。
残留組は「壬生浪士隊」を結成。京都守護職の会津藩の預かりとなり、市中警護、特に治安を乱していた不逞浪士(=反社会的活動をする浪士)の取り締まりを任されることになります。そして同年の「八月十八日の政変」での働きを評価され、新選組という名前を与えられるのです。
水戸派 | 試衛館一派 |
---|---|
芹沢鴨(局長) | 近藤勇(局長) |
新見錦(局長) | 土方歳三(副長) |
田中伊織 | 沖田総司 |
平山五郎 | 山南敬助 |
平間重助 | 永倉新八 |
野口健司 | 原田左之助 |
佐伯又三郎 | 斎藤一 |
etc… |
「浪士」とは主家を離れて、禄を失った武士のことをいいます。「浪士隊」の名前からわかるとおり、彼らは幕府に正式に召し抱えられたわけではありません。とはいえ、元は幕府発案の組織ですし、会津藩から正式に市中警護を任されていますので、あやしい非公認団体とは違います。現代で言うなら政府公認の、警察のような仕事をする武装組織と言ったところでしょうか。
もともと「将軍警護」に応じた集団なので、江戸幕府に対する忠誠心もそれなりにはあったでしょうから、幕府としても一定の信頼は置いていたと思います。
ちなみに慶応3年(1867)には新選組隊士全員が幕臣に取り立てられています。
来る者拒まず? 資格問わず試験なしの入隊条件
壬生浪士隊は24名ほどの組織としてスタートしましたが、新選組は最盛期には約230人が所属していたそうです。入隊には特に資格などは必要なく、年齢身分を問わず、体が健康であれば誰でも入れました。重要視されたのは尽忠報国の志があるかどうかで、驚いたことに実技試験すらなかったそうです。ただ、入隊後に一定の試用期間があり、その時に適性などを見極め、相応しくないと判断されると入隊取り消しとなるとか。
そんな来る者拒まず状態ですから、スパイに入り込まれたり、思想や行動に問題がある人が入隊することも。倒幕派の伊東甲子太郎の入隊などが有名ですね。ちなみに伊東の同士で明治まで生存した阿部十郎は、後に沖田総司や大石鍬次郎を「国家朝廷のあるを知らぬようなもの」と彼らが政治的思想を持たないことを批判しています。
けれど、新選組が警察的な組織であったならば、むしろ隊士が強い思想を持つのは危険でした。法や上部組織(会津藩や幕府)の命令に従って動くべき存在が、自分の私情で捕縛したり斬殺する可能性が出てきてしまうからです。それこそ単なる私刑であり、テロリストと変わらないことになってしまいます。大正時代の甘粕事件などがその例ですね。
言葉を飾らず言えば寄せ集めの集団である新選組をまとめるためには、何かしらの拠り所は必要なのだと思います。思想で団結できればきっと楽だったのでしょう。けれど、その道を彼らは選ばなかった…。ではどうしたかというと、厳しい隊規が作られました。
新選組は「局中法度」と呼ばれる5箇条の法度書を作り、隊内を引き締めたと言われてきました。でも、実は同時代の史料には軍中法度という言葉はあっても局中法度は見つかっていません。元隊士の永倉新八が語り遺した『新選組顛末記』で、4箇条の「禁令」(または法令)があったことは確認できますので、5箇条の「局中法度」は後世の創作だろうと言われています。
とはいえ、隊規(禁令)に厳格であったことは確かなようで、新選組は任務での死亡件数より内部粛正の方が数が多いとはよく知られている話です。
特に京都活動中に殉死した隊士はわずか7人。もちろん慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いから続く戊辰戦争での死亡を入れるともっと多くなりますが、市中警護時の斬り合いも相当数あったにもかかわらず、この少なさは驚きに値します。これは、新選組が出動時には相手より多人数で戦闘にあたるという方針をとっていたためだと言われています。(池田屋事件初動のように例外はあります)
この辺りの合理性も、現代の警察組織に通ずるところがあるかもしれません。
「斬り捨て」より「捕縛」が中心の方針だった
新選組というと、どんなイメージがあるでしょうか。やはり水色の「だんだら羽織」を着て、「ご用改である!」と旅籠に押し入る姿でしょうか。それとも、抵抗する浪士を斬り捨てている姿でしょうか。「だんだら羽織」とは死に装束に使われる浅葱色(水色)を基調に、袖に山型を白く染め抜いた羽織で、新選組の隊服として使われていました。でも、着用されていたのはごく短い間だったことは意外に知られていません。実際に使われていたのは、黒一色の隊服が多かったそうです。京都の治安組織という新選組の使命を考えると、水色は目立ちすぎてしまう気がしますから、黒の方が自然かもしれませんね。
口論になった相撲取りを斬り捨てたという話もあり、新選組に対して、なにかあればすぐに斬るような暴力的なイメージを持っている人も少なくないかもしれません。けれど、実際はその場で斬るより捕縛することの方が多かったといいます。前述した多人数での戦闘も、斬り捨てより捕縛を主目的としていたからだとか。ただし抵抗すれば斬ることも躊躇いません。
銃などが身近にない日本にいるとピンとは来ませんが、現代ですら海外ではテロリストや凶悪犯は警察などに即座に射殺されることも珍しくありません。新選組側の視点であれば不逞浪士を斬殺するのも問題ある行動ではないでしょう。もちろん浪士たちの視点に寄れば、また違った感想になると思いますが……。
少し古い話になりますが、大河ドラマ『新選組!』が放映されていた頃、当時の政府内の雑談で「新選組を大河にするのはいかがなものか」というような会話がされたことがありました。「あんなテロリストどもを題材にするなんて」という非難の混じったニュアンスだったようですが、当時の総理が「問題はないでしょう」と応じて話は終わっています。
『新選組!』が放映されたのは2004年のことです。この当時でも、まだこういう認識の人もいたのだなあと驚いてしまいます。
もっとも、発言者はお年でしたので、若かった頃の時代劇では新選組は鞍馬天狗の悪役として登場していて、そのイメージで固定されていたのかもしれません。とはいえ、江戸幕府という当時の行政機関の治安組織だった新選組を、現代の政治家がまったく逆の捉え方をしているというのも皮肉な話です。
明治維新後、新選組の存在は悪として語られてきました。阿部十郎の言葉のように「なんの思想もないただの乱暴者」であり「血塗られた人斬り集団」であると言われ、創作物でもそのように扱われてきました。そこに一石を投じたのが子母澤寛です。1928年に出版された小説『新選組始末記』から始まる新選組三部作は、後の新選組の評価を大きく変えることになります。
それでも、昭和初期ぐらいまではまだまだ新選組は物語の悪役となることが多かったですし、「人斬り集団」のイメージ自体は今でも残っています。
さすがに令和になった今は、テロリストと言われるようなことはないだろう……と思いつつも心配になって、この原稿を書く前に「新選組 テロリスト」と検索してみました。そうすると、ほとんどは「テロリストではない」という否定でしたが、テロリストだという意見もちらほら……。
一度ついたイメージは、払拭するのは難しいものですね。
おわりに
新選組の活動期間は短いものでした。文久3年(1863)に結成された前身の壬生浪士隊を入れ、明治2年(1869)の箱館戦争終結まで、最大限の長さをとっても、わずか6年しかありません。けれど、その期間は政局が大きく動いたこともあり、幕府のために一途に戦った彼らの軌跡は短いながらも歴史に鮮烈に刻まれています。だからこそ、現代になってもなお、彼らの人気は衰えることはないのでしょう。
【主な参考文献】
- 永倉新八『新撰組顛末記』(新人物往来社、2009年)
- 宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)
- 子母澤寛『新選組始末記』(中央公論新社、1996年)
- 子母澤寛『新選組遺聞』(中央公論社、1997年)
- 子母澤寛『新選組物語』(中央公論社、1997年)
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