江戸時代の漁村に漂着した虚舟 正体はUFOだった?

『弘賢随筆』「うつろ舟の蛮女」(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)
『弘賢随筆』「うつろ舟の蛮女」(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)
 皆さんは江戸時代に日本各地で目撃談が相次いだ、虚舟(うつろぶね)の話をご存じですか?当時は謎の漂着物として瓦版で盛んに書き立てられ、海で難破した異国の乗り物ではないか、空から墜落した天女の乗り物ではないかなど、虚実取り混ぜた様々な憶測が飛び交いました。

 窓や扉の他、一切の継ぎ目が存在しない特異な外観から、UFO(未確認飛行物体)ないしUSO(未確認潜水物体)と見なす説も有力です。今回は江戸の人々の好奇心をそそった、虚舟の正体に迫っていきたいと思います。

最古の記録は『風姿花伝』 秦河勝が乗り込んだ神の入れ物

 虚舟の初出は室町時代の能楽師、世阿弥(ぜあみ)が著した『風姿花伝(ふうしかでん)』。これは虚舟が歴史に登場する最古の記録でもあります。

 同書で触れられている「秦河勝(はた の かわかつ)」は、聖徳太子に強い影響を与えた官人で、迹見赤檮に協力し、朝敵の物部守屋を追討したことで知られています。後世には神格化され、芸能を司る大避大明神(大荒大明神)として祀られました。聖徳太子の要請で六十六番の物まねを作り、紫宸殿で舞った経緯から能楽の始祖と崇められているそうです。

秦河勝像(出典:ColBase)
秦河勝像(出典:ColBase)

 世阿弥いわく、官職を辞した河勝は摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦へ漂着したそうです。この時に河勝が乗り込んだのが虚舟(空穂舟)と呼ばれる奇妙な乗り物。その後、河勝は大避大明神として当地に祀られ、人々の信仰を集めました。

 一説によると、坂越の沖合で沈没したと言われており、この説が正しければ「河勝は一度死んで神となった」とも解釈できますね。能楽に読みが同じ『空舟』の演目があるのも面白い符号です。

 虚舟の伝説は気仙沼にも残っています。

 室町時代、地方に落ち延びた源義経と恋仲になった皆鶴姫。彼女の父は鬼一法眼の秘術に通じる剣の達人でしたが、皆鶴姫はその極意をうっかり義経に漏らしてしまいます。娘の裏切りに怒った父は、罪人を隔離する空舟に姫を押し込み、遠くへ流してしまいました。その後姫が乗った舟は気仙沼に漂着し、義経に救出され大団円を迎えます。

 和歌山県の淡島には僅か7歳で天皇の子を孕んだ大比留女に罰が下り、空舟で流された伝説が語り継がれています。いたいけな幼女を罰するより、子供に手を出した天皇を裁いてほしいところですが……。

 イザナギとイザナミがヒルコを乗せて流した葦舟が虚舟のルーツなら、聖なる神の入れ物と罪人の流刑船、相反する性質を兼ねているのも頷けます。

曲亭馬琴が本に取り上げた「虚舟の蛮女」

 虚舟の目撃談が急増したのは江戸時代。中でも有名なのが享和3年(1803年)に常陸国の漁村の浜に漂着した事例で、瓦版を介して江戸市中に噂が広まり、江戸の文人や好事家が集まる兎園会で語られました。それを参加者の一人・曲亭馬琴が『虚舟の蛮女』と題し、日本の異聞奇談を纏めた『兎園小説』で発表したのです。国学者の屋代弘賢も自著『弘賢随筆』に、虚舟の全体像を描き起こしています。

曲亭馬琴の『兎園小説』で描かれた、虚舟の蛮女(『百家説林 : 10巻 巻9』より一部編集。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
曲亭馬琴の『兎園小説』で描かれた、虚舟の蛮女(『百家説林 : 10巻 巻9』より一部編集。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 その虚舟は香盒に似た球状をし、上部には松脂で塗りこめられたガラス障子が張られ、底部には鉄の板金の階段が設けられていました。飛行機や船のステップを想像すればわかりやすいかもしれません。内部の壁や天井には解読不能の蛮字や記号が犇めき、眉と髪が赤く、長い白髪をたらした異装の女が乗っていたと言います。

 女は2尺ほどの箱を抱き締めて離そうとせず、周囲には水や菓子、干し肉のようなものが貯蔵されていました。言葉は全く通じず、会話は成立しません。村人たちが謎の船と女の正体を議論している最中、長老が口を開きました。

長老:「アレは姦通の咎を犯し、追放された蛮国の姫。後生大事に抱えた箱の中には、恋人の首が入っているに違いない」

 実際に数十年前にも船が漂着し、異様な風体の女が乗っていたそうです。話し合いの末、厄介事に巻き込まれるのを恐れた村人たちは、中の女ごと舟を海に返してしまいました。

 馬琴は髪の毛に白い粉をはたくロシアの風習に言及し、蛮女の正体はロシア国の貴族の夫人ではないかと推理しました。不思議と閉じ込められているのは妙齢の美女ばかりで、男性が出てきた例は報告されていません。仮に長老の発言が真実だとして、女子供に直接手を下すのを躊躇うのは、万国共通の心理なのでしょうか?

 同地の金色姫伝説と虚舟を同一視する向きも強く、物語の類型である、貴人流離譚の派生に位置付けることもできそうです。学者の佐藤秀樹は船の内部に見られた言語と錬金術の記号の酷似を指摘しており、謎は深まるばかりです。

対馬の虚舟伝説 地元漁師に財宝を奪われた花宮御前の悲劇

 虚舟の伝説は全国各地に存在し、寛政8年(1796)の加賀国、元禄12年(1699)の尾張国熱田沖・越後国今町・正徳年間伊予国日振島、明治16年(1883)神戸沖からも報告が上がっています。

 朝日文左衛門重章の『鸚鵡籠中記』は、熱田の虚舟を次のように描写しました。

「窓有びいどろにて張レ之。内に宮女あり。甚美也。其側に坊主の首、大釘に貫て有。干菓子を以て食とす。」

 「甚美也」の一言が想像をかきたてます。干菓子は乾パンやカロリーメイトのような携行保存食でしょうか。

 また、九州の玄界灘に面する対馬にも、虚舟の伝説は多く残っています。

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 その昔、上対馬町の三宇田に沢山の財宝と絶世の美女を積んだ虚舟が漂着しました。美女は花宮御前(はなみごぜ)と名乗って村人たちに助けを求めたものの、欲に目が眩んだ彼らは女を殺して財宝を奪い、証拠隠滅を図ったそうです。されど御前の怨念は凄まじく、祟りのせいで村人は死に絶え、村はすっかり滅んでしまいました。
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 御前の正体は諸説ありますが、切支丹となった咎で黒田藩を追い出された女性ではないかと言われています。対馬市の久原にも似たような伝承があるものの、こちらに流れ着いたのは朝鮮王族の姫君。久原に程近い佐奈豊では、朝鮮出兵時に某武将に見初められ、無理矢理連れてこられた宣祖の娘が流れ着いたと信じられています。

 虚舟に乗っているのは必ず高貴な身分の女性であり、財宝が積まれている筋立ても同じ。褒美目当てに匿っても良さそうなものですが、何故かそうはなりません。豊玉町貝口の伝承では、珍しく数人の侍女を伴っていたものの、ここでもまた村人たちに惨殺され、根こそぎ宝を奪い去られる悲劇が起きています。漂流先で神となった『古事記』の蛭子や秦河勝とは、随分な待遇差を感じざるを得ません。

おわりに

 以上、虚舟の解説でした。その正体は今だ謎に包まれたまま、再び海に流された「虚舟の蛮女」の素性も定かではありません。彼女が抱いた箱の中には一体何が入っていたのでしょうか?

 それが最愛の人の首ならサロメさながらロマンチックで、猟奇的な美しさを感じないではありませんが……もしかしたらオーパーツが隠されていたのではないかと、妄想を逞しくしてしまいました。


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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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