これは毛利勝永が慶長19年の大阪冬の陣において、大阪城に入城する以前の話である(『明良洪範』『常山紀談』ほか
毛利勝永は関ヶ原合戦のときに徳川と敵対し、戦後は領地を没収されて土佐国の山内家へ預けられていた。やがて豊臣vs徳川の決戦の機運が高まると、豊臣秀頼から密使を通じて大阪入城を求められた。
勝永はかつての主君・豊臣家に味方するのは望むところだったが、前回の敗戦(=関ヶ原)で妻子を辛い目に遭わせていたため、
秀頼の誘いを受けて大阪へ行くべきかどうか迷っていた・・・。
── 土佐国 ──
(果たして今回はどうなるか。我が意をうち明けてもよいものなのか・・・・。)
こうした様子の夫をみて妻は言った。
女は妻となれば、夫に従って浮沈をともにするのが道でございます。あとのことはご心配遊ばさず、御望みのことをお聞かせくださいませ。
・・・・。
今度こそ先年の汚名をそそぐため、秀頼公に味方したいと思うておる。しかし、わしがここを出ればそなたたちに災いが及ぶであろう。それが気がかりなのだ。
これに妻は微笑みながら答えた。
なんと情けないお言葉・・・。
そのようなことを何で嫌がるのでしょうか。夜明けにでも船を出して武名をあげてくださいませ。
それは家の喜びでございます。
このように妻は臆するどころか、武名を汚すことは恥だと、そして先祖の家名を興してほしいことを勝永に訴えたのである。
私どものことは御心配なく。もし討ち死になされるようなことがございますれば、私どもも後を追って土佐の海に沈みましょう。ご運があればまたお会いできましょう。
これに喜んだ勝永は大阪入城を決断。勝永は山内家から1000石をもらうなど厚遇されていたが、監視されている立場でもあったために、秀頼に味方するとして出国することは当然のことながら認められない。
そこで勝永は一計を案じた。
勝永は2代目土佐藩主・山内忠義と衆道の関係にあった。そして、忠義は徳川と豊臣の戦いがはじまろうとしているまさに今、父の山内康豊に勝永の監視を依頼して自らは兵を率いて京へ向かっていた。
勝永はこれを利用して、山内康豊に土佐を出る申し出をした。
・・・お願いがございます。
それがしは忠義殿と衆道の契りを交わしている間柄ゆえ、どうしても忠義殿を助けたいのです。これはその証でございます。
勝永は康豊に忠義との義兄弟の誓紙をみせ、さらに自らの妻子を人質に置くことも約束し、土佐を出る許可をもらった。
こうして勝永は徳川方に味方すると偽って長男を連れて土佐を脱出し、大阪入城を果たしたのである。
── その後 ──
勝永の脱出の件はすぐに忠義の知るところとなり、怒った忠義は勝永の妻子を捕えて城内に幽閉すると、ただちに家康に報告して土佐に残る勝永妻子の処分を求めた。
これに対して家康は・・
忠義。そう憤慨するでない。
勝永のそれはまさに真の武士たる志といえよう。誉めるべきことであり、妻子を罰してはならぬぞ。
こうして勝永の妻子は助命されたのである。
大阪城に入った勝永はのち、大阪の陣で真田幸村に引けをとらない戦功をあげ、最期は豊臣滅亡とともに潔く自害して果てた。
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