大阪冬の陣(1614年)の戦いは徳川方が大阪城を完全包囲し、砲撃戦とともに水面下で和睦交渉を進めるなど終盤を迎えていた。これは家康がその和睦条件に大阪城の堀の埋め立てを要求し、和平を成立させたときの話である。(『名将言行録』より)
─ 慶長19年(1614年)─
【大阪城周辺 徳川陣営】
こたびの戦、ともかく豊臣を攻め滅ぼさねばならぬ。
ふう・・。殿がそうは申しましても大御所様(=家康のこと)は強く和平をお望みのようでござりまするぞ。
家康は冬の陣で豊臣方との和睦による終結を考えていたが、秀忠は和睦に否定的でしきりに豊臣家を滅ぼすことを主張していた。
しかし、父の命に背くこともできない秀忠はやむを得ず、ついに折れて和睦の意向を示した。
・・・和談としてもかまいませぬ。
しかしながら、秀頼が拙者にたてつくので父上のご意見によって和平となっても、何かその証拠がなければ帰陣するわけにも参りませんし、秀頼もよく考えて拙者も面目がたつようであれば、父上におまかせします。
こうした秀忠の意を伝え聞いた家康はぼやいた。
ううむ・・・。秀忠はわしと違っていらぬところに意地をはるところがある。それが事のほか大きな欠点じゃ。
しかし、そのことを悪いといっても持って生まれたものであるから、今すぐに変えられるものでもない。
ああだこうだと言っているうちに、また秀忠が和談しないなどと言い出しては、これまでの苦労が無駄となろう。
かくなる上は秀頼公にもわしの意見を申し上げるとしよう。
そして家康は秀頼に以下のような旨を伝えた
こうしてついには徳川と豊臣との和平が成立したのであった。
-- 大阪城 --
和睦が成立すると、徳川方はさっそく本多正純(=本多正信の長男)や安藤直次らを普請奉行として埋め立てに取り掛かった。やがて埋立工事は外曲輪の堀だけではなく、二の丸の堀も始められてしまった。
これに豊臣方は"約束が違う"と言ってきたので、本多正純は普請を行なう年配の物頭(=足軽大将)に外曲輪の堀以外の堀は埋め立てないように下知した。
はっ!かしこまりました。
しかし、正純がいなくなると・・・
・・・・
ふんっ!無礼者めが!!
おもしろくない物頭たちは悪口を言いながら、大阪城の堀を埋めたいように埋めてしまった。
これを知った淀殿や秀頼は阿玉(おたま)という女房頭を使者として本多正純らに状況を伝えて抗議。
しかし、正純は生まれつき口が悪く、阿玉に対して「いい女だ」などと乱暴な事を言う始末であり、もう一人の普請奉行の安藤直次も何の返答もしなかった。
らちのあかない豊臣方は家康に談判するしかないという事になり、阿玉に大野治房を付けて京に上らせたのであった。
-- 京都二条城 --
阿玉ら豊臣方の使者に対し、家康に代わって本多正信が応対した。
拙者のたわけ者のせがれは下知する術も知らずに残念です。すぐに事の起こりを家康公にお伝えします。
しかし殿はここ2、3日少し風邪を患っていらっしゃるのでご回復したらお伝えいたします。
このように返答した徳川方であったが、そのまま時が立ち、正信もまた、体調不良を理由に出仕せず、しまいには京都所司代の板倉勝重に再び豊臣からの催促が来たが、勝重は本多正信の病気がよくなり次第、お伝えすると答えたままであった。
そうこうするうちに時は過ぎていき、ついに大阪城の堀は本丸まで埋まってしまった。
再び豊臣の使者がやってきて家康は大阪城の現状を伝え聞いた。
仰せはごもっともでございます。なぜこのように埋めてしまったのか合点がいきぬのですが、さっそく佐渡守(=本多正信)を差し出して下知させましょう。
こう言うと家康は本多正信を使者として大阪に派遣。そして正信が大阪城へ赴くと、堀はすでに本丸まで埋め立てられており、工事の者は一人もいないという状況であった。
これを知った正信はあわてて家康に報告した。
これまで堀を埋めぬようにとのお使いで参りましたが、無分別者どもが早くも全部埋めてしまい、面目なき次第でございます。
こうなってはもはやどうしようもありませぬ。
きっと拙者のせがれをはじめ、不調法者どもは殿のお叱りを受けることでござりましょう。ともかく拙者は帰ります。
正信はそう言って帰ってしまった。その後、家康は・・・
フフフ。秀忠もこれで和平することじゃろう。。
と言って関東へ下向したのであった。