アーネスト・サトウ──天皇を「Emperor」と呼ぶきっかけを作った男が変えた日本の形

  • 2026/04/30
1869年のアーネスト・サトウ(『維新日本外交秘録』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
1869年のアーネスト・サトウ(『維新日本外交秘録』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 アーネスト・サトウは、幕末明治に通訳として来日したイギリス外交官で、幕末の歴史ファンには、お馴染みの人物です。

 彼は幕末の動乱における重要な事件の多くに立ち会い、著名な志士たちと親しく交流。その多大な影響力から、まさに「青い目の維新の志士」と呼ぶにふさわしい活躍を見せました。明治後も外交官として勤務する傍ら、日本研究に情熱を注いだ著作を書いた功績も見逃せませんし、日本人が見向きもしなくなった江戸時代以前の古書を収集・保存し、後世に伝えた文化的な貢献は計り知れません。

 キャリア面でも異色です。日本駐在イギリス公使になっただけでなく、19世紀のイギリス外交官で、たった2人という、ノンキャリアから駐清イギリス公使というトップまで上り詰めたキャリアを誇っています。現代の日本語ペラペラの外国人ユーチューバーさんたちが束になってもかなわない、最初で究極の「日本通」と言っていいでしょう。

 そんなサトウはいかなる生涯を送ったのでしょうか。その軌跡を辿ります。

サトウのプロフィール

 アーネスト・メイソン・サトウは、1843年6月、ロンドン北部に生まれました。父は当時スウェーデン領だったドイツ東部出身のデーヴィッド、母はイギリス人のマーガレット。11人兄弟の4男という大家族でした。

 子供の頃から優秀だったサトウですが、プロテスタント信徒ゆえに、オックスフォード大学やケンブリッジ大学に進学できなかったので、信仰を問わないユニバーシティ・カレッジに16歳で入学、19歳で卒業しています。

 日本に憧れを抱いたきっかけは、兄が借りてきたローレンス・オリファント卿著、『エルギン卿遣日使節録』を読んだことでした。その後、『ペリー日本遠征記』を読み、ますます未知の国である日本への興味を募らせていきます。そして在学中の1861年にイギリス外務省の日本と中国への通訳生募集の張り紙を見て応募。試験を首席で合格したサトウは、迷わず赴任先に日本を選びました。

 サトウは文久2年(1862)8月15日、弱冠19歳で来日。幕末の動乱期で6年半を過ごし、明治2年(1869)、休暇のために一時帰国。翌年再来日してからは明治16年(1883)まで日本で勤務。その後、シャム王国(現タイ)、ウルグアイ、モロッコ領事を経て、明治28年(1895)5月には日本駐在イギリス公使に任命。これを5年務め、日本在任は通算で25年にも及びました。

 1900年には駐清公使に転じ、1906年まで務めた後、イギリス南西部デヴォン州で引退、著述生活を送っています。1929年に86歳でその生涯を閉じました。

次々と重大事件に遭遇

 サトウが来日後に遭遇した幕末の重大事件を挙げてみましょう。

生麦事件

 来日してわずか6日後に起こったのがこの事件です。これは島津久光の大名行列をイギリス人一行が馬で横切り、無礼討ちにされた事件ですが、着任早々のサトウは、当時の公使館や横浜の外国人たちの様子を生々しく書き残しています。

 いきなりこんな事件に出会い、どんなに驚いたかと思いますが、サトウは、イギリスにいた頃から日本ではこういう事件が起こりがちだと新聞で読んでいたため、これが普通だと思っていたそうで、周りの喧騒をよそに冷静に勉強していたのでした。

 やはり大物は違いますね。

薩英戦争

 生麦事件の翌文久3年(1863)、賠償交渉が暗礁に乗り上げ、薩摩藩との交渉のため、ニール代理公使と護衛の7隻のイギリス艦隊が鹿児島へと向かいます。このときサトウも同行しましたが、交渉が決裂して薩英戦争となったのです。サトウは鹿児島城下の大火を目撃し、薩摩藩船の拿捕や略奪に加わっています。

フランスの雑誌に掲載された薩英戦争の様子(出典:Wikimedia Commons)
フランスの雑誌に掲載された薩英戦争の様子(出典:Wikimedia Commons)

 この戦いを機に、180度意識を変えて親英となった薩摩藩は、イギリスに留学生を送っており、藩士たちはサトウらイギリス公使館員たちとも親しく交流して情報交換するようになったのです。

下関戦争

 元治元年(1864)8月の「四国艦隊下関砲撃事件」または「下関戦争」です。

 これは長州藩が「孝明天皇の攘夷の実行」という口実で、関門海峡を通行する外国船を航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃。これを受けて、アメリカ・フランス・オランダにイギリスを加えた4か国が連合艦隊を組み、報復攻撃した事件です。

 サトウは司令官のキューパー提督付きの通訳として、英仏蘭の陸戦隊による砲台の破壊に同行。そして長州藩との講和交渉では、高杉晋作(当時は家老の息子として宍戸刑馬と変名)ら長州藩代表を相手に通訳を務めています。

 なお、サトウはこの半年前、イギリス留学から半年で舞い戻った伊藤博文と井上馨を横浜から長州へ送り届け、その後は伊藤と文通する仲になっていました。

神戸事件

 慶応4年(1868)1月、兵庫開港準備でパークス公使に同行したサトウは、岡山の備前藩兵が外交団を銃撃した神戸事件に遭遇。その後、責任者とされた備前藩士・滝善三郎が切腹したときに、同僚のミットフォードと共に立会人を務めています。

 なお、この事件の直前、鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂城から江戸へ向けて脱出する途上の徳川慶喜、会津藩主・松平容保らの一行にも遭遇。彼らが去った後、焼け落ちた大坂城の跡も訪れ、焼け跡の様子を書き残しています。

パークス襲撃事件

 慶応4年(1868)2月、明治天皇との謁見のため、サトウはパークス公使らと京都御所に向かう途中、2人の男に襲撃されています。

パークス襲撃事件を描いた当時の英国新聞の挿絵(出典:Wikimedia Commons)
パークス襲撃事件を描いた当時の英国新聞の挿絵(出典:Wikimedia Commons)

 サトウらにケガはなく、乗っていた馬が鼻先にけがを負った程度で、付き添っていた土佐藩士・後藤象二郎らの反撃で救われました。

サトウの功績

 サトウは来日後、1年も経たずに日本語をマスターし、「薩道愛之助(さとう あいのすけ)」という日本名まで名乗りました。当時は漢文交じりの候文で、しかも草書であったこと、英和、和英辞典などもなかったことを考えると、驚異的な早さです。

 サトウが、日本人に日本語が上手だと褒められると、「おだてともっこには乗りたくねえ」と江戸弁で啖呵を切ったと、「竜馬がゆく」にある挿話は、実話だということです。日本文化にも精通して事情通となった彼はどんな功績を残したのでしょうか。

英国策論を発表

 サトウは、徳川将軍が日本国王ではなく、京都の天皇に任命されて政治を司る幕府の長にすぎないことに、最初に気が付いた外国人です。また、実際に接してみて、やる気のない幕府の役人たちと、有能で勢いのある薩摩・長州藩士との違いも感じたはずです。

 そこでサトウは、慶応2年(1866)3月から5月に、横浜で発行されていた英字新聞『ジャパン・タイムズ』に匿名で論文を掲載しました。この匿名論文は、サトウの日本語教師による日本語訳で『英国策論』という題で出版され、志士たちの間ではイギリス政府の方針のように受け取られて、大変な話題になっただけでなく、倒幕の指針にもなったのです。

 宇和島藩主(当時は隠居)の伊達宗城も読んだと言い、阿波藩主は「作者に会いたがった」とサトウ本人が書いています。日本語力の確かさと「サトウ」という日本人に多い姓も幸いし、志士たちは「サトウさん」に、イギリス議会や憲法などについても聞きたがったと言うことです。

天皇の訳語を「Emperor」にした

 1854年の日米和親条約締結以降、江戸幕府は欧米諸国に対して徳川将軍を「大君」という呼び名にしていました。しかし当初の欧米諸国は、将軍が日本のトップと誤認していたことなどから、各国によって訳語が違い、一定していませんでした。

 そんな中、サトウは将軍より高位の天皇の存在に気づきます。また、当時のイギリスはヴィクトリア女王の時代でしたが、日本語の「女王」は「天皇の曾孫」という低い位置づけで、敬称も一段低い「Highness」になってしまいます。これでは敬称が「Majesty」の天皇と対等な扱いにならないと考えたのです。

 そこで、ヴィクトリア女王が「インド皇帝」でもあったことから、女王と天皇の訳語を「Emperor」に統一することにしました。これが、後に定着したといわれています。

 現在、天皇は世界で唯一の「エンペラー」と呼ばれています。しかし、それは書類上の敬称をヴィクトリア女王と同一にする目的で呼ばれ始めたものであり、必ずしも「ヨーロッパの国王たちよりも尊敬されていたから」という理由ではなかったことがわかりますね。

日本の古書のコレクションを残した

 明治以後、近代国家の建設に邁進(まいしん)した日本人は、江戸時代以前の歴史を忘れがちになりました。しかし、パークス公使が若い公使館員たちに日本文化を学ぶことを奨励したこともあり、サトウをはじめ日本研究にはまる人が続出しました。

 サトウは、当時の日本人が無用として手放した古書などを集め、イギリスに持ち帰ってしっかりと保管しました。数万冊にも及ぶ希少な古本コレクションは、サトウの没後、大英図書館やロンドン大学などに寄贈され、現在に伝えられています。

 林望氏は、著書の中で、「サトウのコレクションは、どの分野だけという偏向がなくそろっていた」と書いておられます。

日本研究の先鞭をつけた

 サトウは幕末の日本在任中、「浦上4番崩れ」による潜伏キリシタンの逮捕を目の当たりにしたためか、キリシタン研究の先駆けとして研究書を刊行しました。

 また、日本中を旅して旅行記に著したり、神道に関する著作を残したりするなど、最初の日本研究者の一人としても記憶されるべき人物といえるでしょう。

親交を持った人々

 サトウは、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀ら薩摩藩士をはじめ、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、井上馨ら、さらに勝海舟、伊達宗城、山内容堂といった大名や、岩倉具視ら新政府の要人となる公家とも親交を結びました。

 彼らに対する印象やエピソードの数々は、今となっては得難い貴重な史料です。なかでも前述のように、回想録では西郷隆盛のファンと言っても差し支えないほどの記述を残しています。

「黒ダイヤのような目をしていて、笑うと何とも言えない親しみを感じる」などと、写真を残さなかった西郷の魅力を今に伝えているのは、サトウの描写だけと言っていいでしょう。

 西南戦争の直前にも、パークス公使の命で鹿児島を訪れて西郷と面会したことが知られています。また、謁見に通訳として立ち会った将軍・徳川慶喜や、即位したばかりの14歳の明治天皇についても、その風貌や衣服などを細やかに描写し記録にとどめています。

 また、イギリス公使館のオールコックやパークスら歴代公使のほか、同僚のウィリス医師、貴族出身のミットフォード、シーボルトの息子のアレクサンダー、日本研究で知られるアストン、バジル・ホール・チェンバレン、風刺漫画で有名なチャールズ・ワーグマン、そしてジェームズ・カーティス・ヘボン博士など、多彩な人物とも交流がありました。

 この中でサトウと特に親しかったウィリスは、後に鹿児島大学医学部の礎を築きました。またミットフォードは、後の英国王エドワード7世の友人であり、その孫娘たちも著名人として知られています。

 なお、サトウは1881年に海軍の艦船による世界一周の途中で来日し、1カ月滞在したヴィクトリア女王の嫡孫、アルバート・ヴィクター王子(早世)とジョージ王子(後のジョージ5世)に付き添い、日本国内の案内役を務めています。

おわりに

 サトウは外交官引退後の1921年に、回想録『一外交官の見た明治維新』を出版しました。戦前の日本では「禁書」扱いでしたが、1960年に全編が翻訳出版されて以降は重版を重ね、今に至るまでロングセラーとなっています。幕末維新の著名人たちが生き生きと登場するうえに、とても分かりやすく、明治維新を理解するうえで欠かせない名著です。

 また、各地を旅行した様子や、特に暴漢に斬り込まれて逃れた様子などは、小説でそっくりそのまま流用されたのを見たことがあるくらいで、この回想録のおかげで当時の様子が手に取るようにわかるのです。

 サトウは非常に賢い人物だと言うことは、文章からも明白ですが、それに加え、江戸時代の日本を「文明が遅れた野蛮な国」と蔑んだり、人種差別的偏見を感じるような箇所は一つもありません。サトウは刀を振り回す侍に襲撃され命の危険を感じたこともあり、凄惨な切腹にも立ち会っているのですが、それでも彼は侍や日本の慣習に対して敬意を払っているのです。

 これはサトウの日本愛ゆえなのか、あるいは本物のインテリは偏見を持たないものだからなのでしょうか。現在に至るまで、歴代の日本駐在イギリス大使は、ほぼ全員が日本を愛し、日本語に堪能で日本文化に深い理解を示し、日英友好関係の架け橋になろうとする方ばかりなのは、まさにサトウ以来の伝統が生きている証拠でしょう。

 もっとサトウの功績や存在が大きく取り上げられて、広く知られてもいいのではないか、ぜひ「大河ドラマの主役」として取り上げてほしいとさえ思うくらい、日本の歴史におけるサトウの存在は大きい忘れてはいけないと思うのです。

【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
子供の頃からの歴史好きです。 特に、女性史と外国人から見た日本史に興味を持っています。 最近は、ネット検索でどこまでも系図をたどったり、 再評価された人物とか、新しい発見とかを見つけて 学び直すなど、改めて歴史を楽しんでいます。

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