食い詰め者も真摯な人もいた! 開国日本のお雇い外国人たち

 日本人は古来、稲作や漢字など外国の技術・文化を柔軟に受け入れてきました。優れたものは優れたものとして受け入れる、この下地もあって幕末明治に多くのお雇い外国人がやって来て、日本の近代化に一役買います。

攘夷は無理。ここは頭を切り替えて

 江戸時代も終わりに近づき、日本の近海にも欧米の船が頻繁に現れるようになります。

 文政8年(1825)、幕府は異国船打払令を出してみたものの、その後、眠れる獅子・清国がアヘン戦争に惨敗した有様といい、自国の湾岸警備の貧弱さといい、とてもじゃないけど ”攘夷は無理” と認識を改めます。そうなればここは優れた知識を大いに取り入れ、彼らに追いつき追い越せへと舵を切り替えました。

 「どうすれば手っ取り早く追いつけるか?」

 一番良いのは専門知識を持った外国人を招き、直接教えを乞う事です。初期に日本人の教師となったのは鎖国時代も交易を行なっていたのはオランダ人たちですが、世界の趨勢を知るにつれ「これからは英語」と幕府も認識を改めます。

外国人雇用の実際

 王政復古後の明治政府が初めて雇い入れた外国人は、明治元年(1868)6月に招聘したフランス人土質学者・コワニエだと言われます。コワニエは薩摩藩に雇われていたところを明治政府に請われて招きに応じ、生野鉱山の再開発に活躍します。

 明治3年(1870)10月、ヨーロッパの近代的産業技術の導入を目的に工部省が設けられ、翌年には今度は近代的国民教育を目指し文部省が開設されると、お雇い外国人の需要は急激に増加します。

 それにしても外国人を雇い入れるのに人選はどのようにしていたのでしょう?政府にお雇い外国人枠などと言う雇用枠があったわけではありません。

 安政6年(1859)、オランダ系アメリカ人のグイド・フルベッキと言う男が宣教師として来日しています。彼は長崎で英語を教えたり佐賀藩に招かれて政治・経済・理学を教えるなどして信用を得ます。フルベッキは後に明治政府に雇われ、自身が所属するアメリカの改革派教会を通じて何人かの外国人教師を政府に紹介しています。

左の人物がグイド・フルベッキ(出典:wikipedia)
左の人物がグイド・フルベッキ(出典:wikipedia)

 明治4年(1871)から明治6年(1873)にかけて、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国に派遣された岩倉使節団がありました。全権大使は岩倉具視ですが、副使の1人に工部大輔・伊藤博文が加わっています。伊藤はロンドン滞在中に以前から交友のあるマジソンと言う男を通じてグラスゴー大学のランキン教授に連絡を取り、その紹介で数人の技師を招いています。

 このように外国人雇い入れに不案内な政府は、信頼できる外国人の私的なつながりを通したり、公使館や現地の事情に詳しい機関を通じて一本釣りのような形で招聘する外国人を選びました。宣教師として日本に派遣された者が教師となることもありました。

 一括して大々的に雇い入れたのではありませんが、それでも最も多かった明治7、8年ごろには、その数は年間500人を超えています。国籍では英・仏・米・独と、当時の対外関係で重要な地位を占めていた国から選ばれました。

高給与で招く

 彼らにはどんな待遇が与えられたのか?明治政府が招いた公傭のお雇い外国人は大いに優遇されました。

 当時日本人としては最高給の、太政大臣の月給800円を上回る給与を支給されていた外国人も10人ほどいます。右大臣の給与600円と同程度の者が15人前後、参議または卿相クラスの500円台の者が10人ほどです。

 財政にゆとりのない明治政府がここまでの給与を与えたのは「先進諸国に追いつくまではすべての犠牲を払わねばならぬ。結果として日本の殖産興業や文化が発達し国益が増進すればそれで良い」と決断したからです。イギリスのインド植民地の給与も同程度でそれも参考にしました。

 対して個人や民間組織が招いた私傭の外国人は給与水準が下がり、500円を超える者はほとんど居ません。50円未満が半数を占めています。しかし当時の地方公務員の給与は5円余りで、最も薄給の者だと1円未満もありました。米一升が8銭8厘、工場の職工が日給18銭のころの話です。外国人たちは充分に優遇されました。

彼らはどんな暮らしをしていたのか?

 ほとんどのお雇い外国人には充分な暮らしが保障されました。大森貝塚を発掘した事で有名なエドワード・S・モースは、350円の俸給を得ていましたが、その半分を貯蓄に回しても残りの金で充分な暮らしが出来たと言っています。

大森貝塚にあるモース博士像
大森貝塚にあるモース博士像

 さらにモースは上野公園の教育博物館で開かれた外国人教師の招待宴の様子を書き残していますが、

モース:「この招待宴には客が100人近くいた。大きな部屋にはピラミッド型のアイスクリーム・菓子・サンドウィッチ・果物やその他のご馳走が並んでいた。部屋には如何に植物を取り扱うかを世界一知っている国民の手で飾られた美しい花々が飾られている。これらは我が国一流の宴会請負人が見ても賞賛するだろう」

だそうです。

 彼は東京帝国大学の教授を務め、その官舎に住んでいましたが、それは

モース:「高い塀に囲まれた広い敷地の中に建っている。夜になると出入り口はしっかり閉められる。ここは封建時代の加賀の大名が持っていた土地で、加賀屋敷と呼ばれている。家の中の部屋はみな広く、私が書斎としている部屋は長さ30フィート(9m)、幅18フィート(5.4m)、高さは14フィート(4.2m)もある。頭の上では鼠が走り回っているが、強盗や押し込みの心配のないこの国の方が、故郷セーラムの街より安心して居られる」

だそうです。

どんな人がやって来たのか?

 やって来た外国人たちは故国で自分の才能が充分に認められず、失意の中新天地を求めてやって来た人も多くいました。

 彼らは日本で自分の居場所を見つけて概ね真面目に職務をこなし、日本人妻を娶り、日本に永住した者も居ます。しかし中には祖国で喰い詰めて、東洋の島国で一旗揚げようとやってくる者も紛れ込んで居ました。政府も明治3年(1870)『外国人雇入方心得』を作り、各省・府・藩・県その他へ配布して不良外国人の流入を防ごうとします。

おわりに

 明治5年(1872)に『御雇外国人(姓名・給料・期限・職務)一覧』と言う小型折り本が発行されています。“お雇い外国人”と言う言葉は、明治文明開化の頃の新鮮な流行語でした。


【主な参考文献】
  • 梅溪昇『お雇い外国人』講談社/2007年
  • 片野勧『明治お雇い外国人とその弟子たち』新人物往来社/2011年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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