大久保利通、実は「超・子煩悩」だった。冷徹な独裁者が家で子供に見せた“意外な素顔”
- 2026/04/21
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しかし近年、大久保の再評価が進んでいます。今回は、大久保の意外な素顔を、父親という一面からご紹介します。読み終える頃には、大久保への印象がガラリと変わっているかもしれません。
2つの家庭を持っていた大久保
大久保には、二人の妻がいました。当時は正妻以外に妾を持つことは珍しくなく、特にある程度社会的地位が高い男性であれば、身の回りの世話をする女性をそばに置くのは当たり前とされていました。【大久保と満寿の間の子供】
大久保が早崎家から正妻の満寿(ます)を迎えたのは安政4年(1857)12月で、満寿との間に4男1女をもうけています。- 長男・利和(としなか)(1859~1945)
大久保家を継ぎ侯爵へ。鉄道事業などに尽力。 - 次男・牧野伸顕(1861~1949)
官僚・政治家として活躍。二・二六事件では襲撃対象に。 - 三男・利武(1865~1943)
鳥取、大分、埼玉県、大阪府知事など歴任。退官後は社会福祉事業に貢献。 - 五男・石原雄熊(1869~1943)
親類の石原家の養子に。 - 長女・芳子(1876~1965)
同じ薩摩出身の外交官・伊集院彦吉の妻となる。
【大久保とおゆうの間の子供】
もう一人の妻、妾の「おゆう」は京都でも有名な料亭「一力」の娘だという話もありますが、おそらく便宜上の養女で、芸妓だったと思われます。大久保はおゆうと慶応2年(1866)3月頃に京都で一緒に暮らし始め、薩摩藩の重役として多忙だった大久保の活躍を支えました。大久保家にも、「おゆう様は大切な仕事をされた方」と伝えられていたようです。大久保との間に、4人の男の子がいました。- 四男・利夫(1867~1894)
海軍に入ったが、少尉の時に病死。 - 六男・駿熊(1870~1912)
農業技術者。父親が創設に関わった駒場農学校で学ぶ。 - 七男・七熊(1872~1943)
農業技術者。 - 八男・利賢(1878~1958)
大久保没後に誕生。横浜正金銀行頭取、義父は高橋是清。
つまり大久保は、8男1女という子宝に恵まれました。子供達はそれぞれに、大久保の遺志を受け継いだ人生を歩んだようです。
妻妾の別なく、等しく注がれた愛情
大久保は地元・鹿児島と単身赴任先だった京都のそれぞれに家庭を持ち、やがて明治政府が東京を新都と定めると、まずおゆうとその子供達を東京に呼び寄せています。満寿とその子供達は明治7年(1874)12月に上京し、おゆうは高輪の別宅に住むようになりました。妾の子も正妻の子として育てることが多かった当時の慣習から、おそらくおゆうの子供達も本宅で大久保と同居したと考えられます。
大久保が鹿児島の家族に手紙を出す際は、差出人としておゆうとの間に生まれた子供達も含めた、その時一緒にいた子供達の名前も書き連ね、あて名には妻と鹿児島の子供達の名前を並べることが多かったようです。大久保にとって、正妻の子も妾の子も関係なく、どちらも愛すべき家族だという意識の現れではないでしょうか。
子煩悩な大久保
大久保は忙しい中でも家族団らんを大事にし、土曜日にはできる限り家族と夕食をともにするように努めました。その際には、鹿児島から呼び寄せた三人の妹も交えてにぎやかに過ごし、家族が自分の冗談などで笑うのを楽しんでいたといいます。そういった父親の愛情を、息子達もひしひしと感じていたようです。特に利武は、「勉強は随分厳しく励まされたが、宅に帰って父に逢うのがなによりの楽しみ」(佐々木克監修『大久保利通』)と回想しています。父親にとって、これほどうれしい言葉はないでしょう。
利武によると、子供達は馬車の音がして大久保が帰ってきたのが分かると、争うように玄関に出て迎え、取り囲んでつきまといながら部屋に入ったそうです。そして椅子に座った大久保の靴を脱がそうとしますが、大久保はいろいろとふざけて脱がせまいとしたといいます。
ある日、靴を強く引っ張りすぎた勢いで後ろに転がってしまい、そんな自分に笑った父親の顔を今もありありと覚えていると、利武は大久保没後30年以上経っても語っています。暗殺により突然父親を喪ったこともあり、ささやかな遊びの思い出が利武の中にいつまでも残り続けたのでしょう。
仕事から疲れて帰ってきた大久保にとっても、自分の帰りを楽しみに待っていてくれる子供達とたわむれるこのひとときは、心がほぐされホッとできる、安らぎの時間だったのだと思います。ただの父親に戻って、子供達に優しいまなざしを向けていたことでしょう。
このように大久保はとにかく子供が大好きで、明治9年(1876)生まれで唯一の娘だった芳子を出勤前のわずかな時間にも抱き上げてかわいがったり、来客などの合間に5分でも暇があると、小さな子供達を書斎へ呼んで遊んでいたそうです。
大久保は明治政府の中心人物として重責を担いましたが、その疲れやプレッシャーを子供達とのふれあいによって癒していたのでしょうね。
大久保の教育方針
一方で、大久保はただ子供をかわいがるだけではなく、非常に教育熱心でした。「年相応の自覚を与え、自修自立をするように平生訓戒して」(『大久保利通』)、教育に関しては進歩主義だったので時勢に先んじて新しい学問をさせるために、兄の利和とともに外国人に預けられた、と次男の牧野伸顕が語っています。
大久保は満寿が心配しないように、手紙で教育の重要さを懇々と諭すように書いており、その中に「子供を甘やかして育てるのは、子供をかわいがって子供に一生の恥を与えることになる」という一節があります。しっかりした教育が親の務めであり、子供の将来のためだという大久保の考えがうかがえますね。
明治4年(1871)、大久保自らが副使となった岩倉使節団に同行する形で利和と伸顕をアメリカへ留学させます。大久保がアメリカでの日程をこなす間にも、息子達が留学先で甘やかされているという噂を聞きつけ、同郷の後輩に「息子達を厳しくしつけてもらいたい」と、監督を依頼する徹底ぶりでした。
子供達を厳しく教育した大久保ですが、自分の理想や考えを息子達に押しつけるようなことはしませんでした。「自修自立」と牧野が語っているように、相談事にも頭から反対したりはせず、自主性を尊重しつつ、よく本人に考えさせて、考えが間違っていれば何度でも考え直させて、よいと思われる結論を出させる、というやり方だったようです。
これには、大久保が受けた薩摩藩独特の制度である郷中教育のうち、「詮議」の影響も多少あるのではないかと思います。「詮議」は答えを出すのが難しいような問いや状況にどう対処するか、といったことをディスカッションし、実践的な思考力や判断力を鍛えるものです。
大久保は、自分のことは自分でしっかりと考えて決断し、納得した上で、責任感を持って取り組むような人間になるように、子供達を導きたかったのではないでしょうか。
おわりに
最近の研究では、大久保は独裁者ではなく、羊飼いのように人々を束ねながらあるべき方向に導く政治家ではなかったか、という見解が出されています。大久保は漸進主義で、かつ最初は強力に政府主導で物事を進め、やがては民間にやらせようという考えを持っていました。導く存在になろうとする大久保のスタンスは、政治家としても父親としても、一貫しているように見えます。
そして、そんな大久保の活力とも支えともなったのが、たくさんの子供達に囲まれたあたたかな家庭だったのだと思います。
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