上杉謙信の毘沙門天への信仰心はハンパない?軍神の信仰に迫る!
- 2020/08/14
上杉謙信という武将は、軍政家としてだけではなく、非常に信仰心の強い武将であったことでも知られています。もともと戦国時代の諸大名は日本国中の神仏に祈願し、それを自らの力にしようという動きがありました。それゆえに、謙信が神仏を信仰したということ自体は特筆することではありません。
しかし、謙信は他大名に比べ、信仰の度合いが高い、毘沙門天という四天王の一尊を強く信仰していた、という点に特徴があります。実際にこうした信仰の特殊さが影響し、現代でも「義」の武将のイメージが強いと思います。
そこで、この記事では毘沙門天の発祥や謙信の信仰を検証したのち、謙信がどれほど信仰を実践していたのかを考えていきます。
しかし、謙信は他大名に比べ、信仰の度合いが高い、毘沙門天という四天王の一尊を強く信仰していた、という点に特徴があります。実際にこうした信仰の特殊さが影響し、現代でも「義」の武将のイメージが強いと思います。
そこで、この記事では毘沙門天の発祥や謙信の信仰を検証したのち、謙信がどれほど信仰を実践していたのかを考えていきます。
そもそも「毘沙門天」とは何?
謙信を語る際に外せないのが「毘沙門天」というワードです。毘沙門天は、もともと仏教同様インドの財宝神クベーラを発祥とするようです。ただし、当時は現在のような武神としての側面はなかったとされており、それは毘沙門天が中国に伝播した際に生まれた一面であるとされています。
中国では四天王の一尊として信仰されるようになっていき、日本に入ってくる際にはほぼこの中国で形作られた信仰に変化していたようです。
日本では「多聞天」と訳され、中国同様四天王の一尊として信仰されました。また、四天王の一尊として安置する場合には多聞天、独立した尊像として安置する場合には毘沙門天と呼び分けられるようになっていったとされています。
こうした毘沙門天信仰は中世を通じて一般化し、戦国大名にも広く普及していました。
謙信が信仰していたのは毘沙門天の中でも「刀八毘沙門天」と呼ばれる南北朝期以降に出現した毘沙門天の派生像。上杉氏のほかには島津氏・武田氏にも同様の信仰がみられます。
しかし、現代で毘沙門天の信仰イメージが強いのは、島津や武田ではなく、上杉謙信です。どうして彼だけにそうしたイメージが定着したのか、次項ではその理由を探ってみます。
謙信の信仰と「三帰五戒」
謙信は毘沙門天だけでなく、仏道に深く帰依していたことでも知られています。弘治元(1555)年には大徳寺の門を叩き、「宗心」の号を名乗るとともに「三帰五戒」の戒律を授かりました。
「三帰五戒」とは、仏・法・僧の三宝に帰依し、不殺生(殺さず)・不偸盗(奪わず)・不邪淫(犯さず)・不妄語(騙さず)・不飲酒(酒を飲まず)の五戒を誓うことで、正式に仏教徒になる戒律でした。
こうした信仰は後世まで謙信の生涯に影響を与え、「義」を重んじる武将として知られるようになりました。
『白河風土記』などの言い伝えによれば、侵略のための戦争はせず、あくまで他国の救援という目的のみで戦争をしていたとされています。
また、毘沙門天信仰を象徴するものとしては、「毘」一文字を軍旗に採用するなど、毘沙門天信仰が確認できる諸大名よりも強くそれを表出させていました。
しかし、「五戒」の内容やそれを受戒した時期など、個人的にはやや気になる要素があるようにも感じられます。
「五戒」の内容は戦国武将として生きていくには致命的なものであり、謙信がこれを忠実に守っていたとは考えにくい側面があります。
また、受戒したのは第一次川中島合戦も終結し、戦国大名として羽ばたいていく矢先の出来事であり、なぜこの時期を選んだのかも疑問です。
「宗心」出奔騒動
謙信が弘治元(1555)年に突如として「引退宣言」をした理由としては、越後国内における長尾氏と上杉氏の対立が原因であると指摘されています。謙信にしてみればどちらの家にも恩義があり、どちらかに肩入れすることは難しかったと推測できます。そのため、事実上の隠居を選択したのではないかとされています。
しかしながら、同年正月には国内の叛乱という報をうけ、謙信はその緊急性の高さからやむなく出陣を選択します。戦に出陣するということは、すなわち「五戒」に違反することを意味しており、苦渋の決断であったことがわかります。
さらに、第二次川中島合戦の際には国内の統率力が低迷していることが確認でき、それが謙信を大いに失望させたとされています。
こうして我慢の限界に達した謙信は、弘治2(1556)年についに出奔を決意し、天室光育に長文の手紙をしたためています。その中でも上記の家臣に対する不満は言及されており、出奔の大きな理由となっていました。
この出奔は彼なりの「最後通牒」とも解釈でき、事態が変わらなければ本当に隠居するつもりであったと指摘されています。
しかし、隠居直後に大きな騒動が発生。当時劣勢であった上杉方の大物・大熊朝秀が武田氏と協力して大規模な叛乱を起こします。国内は大いに動揺し、謙信に帰国要請を出しました。
説得にあたったのは長尾政景とされ、謙信の重んじた「名誉心」を刺激する発言をしたとされています。「国や家内を見捨て武田から逃げるのか」という誹りを重く受け止めた謙信は、「宗心」という法号を捨て、帰国して乱を鎮圧しました。
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「義」イメージの形成
こうして理想ではなく、現実を生きることを選択した謙信ですが、越後元来の統治者である上杉家が消滅してしまったため、長尾氏出身である謙信は自身の公儀性を主張しなければなりませんでした。また、これは特に宿敵武田氏との戦いで必要とされた要素でもありました。そもそも武田氏は、守護として甲斐を治めてきた由緒ある家柄です。一方の長尾氏は主である越後上杉氏を事実上滅ぼし、家を実効支配している家柄です。
こうなってしまうと、戦の正当性が武田氏優勢となってしまい、公儀の側面で謙信は不利をうけます。そこで考え出されたのが、「我々は神仏の名のもとに、不義の武田氏と戦を構えるのである」という主張でした。
つまり、神仏という権威を背にすることで、自分たちの公儀性を主張したのです。こうして、謙信をとりまく上杉氏の「義」イメージが構築されていったのです。
実際のところ、史料の上でも「五戒」については全く守られていません。しかしながら、神仏を権威として公儀性を主張するという政治的戦略がとられていたことが影響し、その余波が現代までのイメージを形作っていったと考えられます。
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【参考文献】
- 竹下多美「上杉謙信が信仰した異形の神 ―飯縄大明神と刀八毘沙門天について― 」『上杉謙信』(高志書院、2017年)
- 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』(2012年、洋泉社)
- 矢田俊文『上杉謙信』(ミネルヴァ書房、2007年)
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