戦国大名「武田信玄」と「上杉謙信」が激突した「川中島の戦い」は映画化されるなど、戦国時代を代表するとても有名な戦いですが、定説としては5回に分けられ、12年間も続いたとされています。
一方、小競り合いに終始していない、2回目の天文24年(1555年)と4回目の永禄4年(1561年)の2回だけを川中島とする説もあります。とりわけ4回目は主力同士の大激戦となったため、これのみを川中島の戦いとみなす見方もあるようです。
信玄と謙信はなぜ戦うことになったのでしょうか? 今回は両陣営が初めて衝突した「第一次川中島の戦い」の背景にあるものや合戦経過の詳細についてお伝えしていきます。
甲斐国を支配し、隣国の信濃国にも大きく勢力を拡大していた武田信玄。天文22年(1553年)に入り、隣国である今川氏や北条氏と甲相駿三国同盟も事実上成立。信濃制圧で残るは北信濃のみという状況でした。
北信濃には二度も信玄の侵攻を撃退した宿敵の村上義清がおり、最大の障害になっていましたが、同年4月9日には義清の拠点である葛尾城を攻略し、義清を埴科郡から追い出すことに成功しています。
この戦いの過程で、屋代城の屋代氏、塩崎城の塩崎氏、坂城の大須賀氏らが相次いで武田方に寝返り、義清敗走後には新たに室賀氏、小泉氏、高坂氏などの諸士が武田方に帰属しました。
葛尾城を追われた義清が頼った先は越後の上杉謙信(このときの名は長尾景虎)でした。北信濃には、謙信の父親である長尾為景の妹を娶った高梨政頼もおり、義清や縁戚関係にある政頼の頼みもあって、謙信は信玄打倒に協力することを決意します。
謙信の協力を得た義清は4月12日には、川中島方面に進軍してきた武田方の先鋒隊を八幡付近で撃退し、4月23日には葛尾城を奪回しました。
この動きを警戒した信玄は、一端深志城へ撤退し、5月には甲府に戻ります。この隙に義清は小県郡に侵攻し、塩田城に入っています。おそらく謙信の将兵も力を貸していたと考えられますが、確かな記録は残されていません。
謙信は動いたものの、この時点ではあくまでも信玄と義清率いる北信濃国衆との戦いという様相です。
信玄は軍勢を整えて7月には再び小県郡へ侵攻を開始しました。義清はほとんど抵抗できず、16の諸城を次々と攻略され、ついに8月5日には本拠地である塩田城も陥落。義清は再び越後へと亡命しました。
信玄は塩田城の守備を飯富虎昌に任せ、制圧した小県郡の所領を真田氏、室賀氏、小泉氏、浦野氏、禰津氏に与えました。信玄はさらに北上し、川中島南部へと兵を進めていきます。
こうなると謙信としても本腰を入れて信玄討伐を進めていかなければ、北信濃のみならず越後国まで信玄の侵攻を許すことになってします。
このとき24歳の謙信は混乱する越後国を2年前に統一しており、信玄と正面から戦えるだけの勢力を誇っていたのです。
こうして8月中旬から下旬ごろに、川中島布施の地(長野市南部、旧篠ノ井市布施)で両軍が激突したといい、武田方は上杉方に押され気味であったようです。(布施の戦い)
川中島エリアでの戦いはこれのみであり、以後はその南方での駆け引きや小競り合いが続く展開となります。
9月1日には、謙信は布施の南方に位置する八幡で武田勢を撃破し、埴科郡の荒砥城を陥落させることに成功します。さらに9月3日には筑摩郡の青柳まで侵攻し、放火しました。翌9月4日には虚空蔵山城を攻略しています。
どうやら信玄は塩田城を拠点として、自らの勢力の奥地まで攻め込ませておいて背後を襲おうと考えていたようです。荒砥城や東筑摩郡の麻績城に夜襲をかけています。不利を悟った謙信は八幡まで兵を退かせた後、塩田城を攻めますが堅守されて攻略はできませんでした。
9月17日には謙信は葛尾城下の坂木南条に放火し、信玄はこれに対して出撃しますが、謙信は越後の春日山城に撤退しており、9月20日には信玄も兵を退くことを決めています。10月17日には信玄は甲府に帰還しました。
このように第一次川中島の戦いは、武田方の進出は川中島まで及んでおらず、埴科郡や小県郡の局地戦に終始しています。両者の主力同士がぶつかったわけではありません。まさに前哨戦といえるでしょう。
用意周到な信玄としてみれば、まずは謙信の用兵を見ておきたいということだったのではないでしょうか。ここからさらに越後国に調略を仕掛け、形勢を見極めた後に決戦を行う予定だったに違いありません。
謙信としては局地戦ながら武田勢を破っており、この成果で北信濃の国衆が武田方になびくことを防ぐことができましたので、緒戦としては満足いく内容だったでしょう。信玄としても宿敵である義清を追い出し、埴科郡や小県郡に拠点を築けたことは大きな前進でした。
両者納得の前哨戦はこうして終了し、翌年以降も信玄と謙信の交戦は継続されていきます。
この第一次川中島の戦いの後、信玄は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めて信濃国への支配力を強化していきます。
一方で謙信は上洛し、後奈良天皇に拝謁して謙信の敵は逆賊であるという私敵治罰の綸旨を得ました。互いに決戦に向けて着実に準備を進めていくのです。
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