「大久保利賢」二大巨頭、大久保利通と高橋是清を父にもつバンカーの生涯

  • 2026/05/29
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 大久保利賢(としかた)(1878~1958)という人物がいます。 横浜正金銀行第13代頭取で、明治から昭和にかけてバンカーとして生きた人です。

 その名前で、ピンと来た方もいるかも知れません。利賢は維新の三傑・大久保利通の八男で、ダルマ宰相と呼ばれて親しまれた、高橋是清の娘婿に当たります。

 今回は、父・利通が暗殺で亡くなった後に生まれ、義父・是清も二・二六事件で亡くすという悲劇に見舞われながら、激動の時代を生きた利賢についてご紹介します。

※大久保利通の全体像を知る→「大久保利通」総合解説ページへ

父・利通没後の子供

 大久保利賢は、明治11年(1878)10月16日に、大久保利通と妾のおゆうの子として生まれました。8男1女の末っ子です。

 父の利通は同じ年の5月14日に暗殺によって亡くなっており、利賢は20歳ほど年の離れた長男・利和(としなか)や、次男でのちに牧野家の養子となった牧野伸顕(のぶあき)などを父親代わりとして育ったことでしょう。

 利賢は旧制の第一高等学校を卒業後、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に入学。法律を学び、明治36年(1903)に卒業しました。当時、旧制の一高から帝大と言えば、日本トップクラスのエリートコースです。

 「末は博士か大臣か」と言われ、官僚を志す卒業生が多い中、利賢は横浜正金銀行に入行します。官僚としてではなく、「金融」という別の角度から国を支えようと考えたのかも知れません。

横浜正金銀行員としてロンドンへ赴任

 横浜正金銀行(三菱UFJ銀行の前身)は、横浜に本店を構え、世界各地に支店を持つ、貿易決済のための外国為替銀行でした。本店の建物は、神奈川県立歴史博物館として現存しています。

 利賢本人の回想によれば、最初の辞令は「八等手代」で月給は31円、ヒラ行員としてのスタートでした。

 さすがは大久保利通を父に持つ一家と言うべきか、大久保家は長男・利和、次男・牧野伸顕が10代でアメリカに留学。三男・利武もアメリカ・ドイツ等に留学しており、六男・駿熊も利賢とほぼ同時期に海外実業実習生として渡航と、当時としてはかなり国際的な一家でした。

 利賢は入行して1年ぐらいで、当時の国際金融の中心地・ロンドン支店勤務に。帝大出のエリートとして、期待されていたのでしょう。約7年ロンドンに駐在、明治44年(1911)に帰国しました。

高橋是清の娘と結婚

 帰国した利賢は東京支店の副支配人となり、12月に高橋是清(1854~1936)の娘・和喜子(わきこ)(1891~1964)と結婚します。すでに33歳。そろそろ身を固めさせようということだったのでしょう。

 義父の是清は、日本銀行副総裁を務めていた時に日露戦争の戦費調達のため、欧米で外債募集を成功させた、日露戦争の経済面における立役者です。実は是清も、日銀を経て明治28年(1895)に横浜正金銀行本店支配人となったのを皮切りに、日銀副総裁兼務のまま、39年(1906)に頭取となり、44年まで在任しました。

 つまり是清は利賢の上司に当たり、利賢の人柄や仕事ぶりが是清のお眼鏡にかなったということもあっての、縁談だったのかも知れません。

高橋是清の肖像(出典:近代日本人の肖像)
高橋是清の肖像(出典:近代日本人の肖像)

 ちなみに仲人となったのは、是清の親しい友人で、利和や伸顕のアメリカ留学中に2人の面倒を見た、高橋新吉(1843~1918)です。利通にかわいがられた恩からか、利通没後も大久保家の面倒を見続けたようです。

 もし利通が暗殺されず長生きしていれば、結婚記念写真には大久保利通と高橋是清の2人が新郎新婦の父親として並ぶこともありえたのです。

利賢が見た、関東大震災発生時の山本権兵衛

 結婚のためだけの一時帰国だったかのように、利賢はまたすぐ海外へ。ニューヨーク支店からロンドン支店に転任、やがて支配人となり、大正12年(1923)3月まで在任しました。

 帰国して横浜の本店支配人となってしばらくした、関東大震災当日の9月1日。利賢は朝から薩摩藩出身の山本権兵衛に呼び出され、横浜から東京へ。山本は海軍大将で、当時組閣を命じられていました。

 面会のため、利賢が建物の1階で待っていた時に地震が起こります。あわてて外に出た利賢が2階を見上げたときのことを、のちに次のように語っています。

「山本元帥が眼光鋭く窓際に仁王立ちで、それこそ艦橋の豪傑そのままの姿は、今でもわたくしの目に焼きついているよう」
『横浜正金銀行全史 第6巻』

 地震がおさまった後、山本から、大蔵大臣になるよう井上準之助を説得してくれと頼まれ、苦労して横浜に帰った利賢が見たのは、一面焼け野原の横浜と、ドームが焼け落ちてめちゃくちゃになった本店でした。

ヒラ行員から頭取にまで出世

 利賢は本店支配人として、関東大震災後の復興に経済面で尽力。その後昭和8年(1933)に副頭取、11年(1936)9月には頭取に就任しました。「八等手代」のヒラ行員からたたき上げ、ついに頭取にまで出世したのです。

 父の利通が、薩摩藩の記録所書役助という書記見習いからキャリアをスタートさせ、維新後は「事実上の日本の宰相」とも呼ばれる初代・内務卿にまで出世したことを、ほうふつとさせます。

 利賢は次のように言われ、とても人望があったといいます。

「どちらかといえば大まかな人物で瑣事には拘泥しない」

「部下などには頗る(すこぶる)懇切」
『実業の世界』30巻第5号より

 これらは、父・利通に対する周りの評価とよく似ています。父親を直接知らない利賢も、間違いなくその血を受け継ぎ、風貌だけでなく性格も父親譲りだったようです。父の教えを受けた兄達や周囲が、しっかりその教えを弟にも伝えて育てた、ということではないでしょうか。

義父・是清、二・二六事件で暗殺される

 昭和11年2月26日、有名な二・二六事件が起こります。「昭和維新」と称し、青年将校達が決起、政府首脳や元政府高官などを襲って暗殺し、世の中を変えようとした事件です。

 この事件で、当時大蔵大臣だった高橋是清も暗殺されました。2階の寝室に躍りこんできた襲撃者達は、襲撃の物音で目を覚まして布団の上に起き上がっていた是清を、いきなり拳銃で何発も撃ち、さらに斬りつけて殺害。決起した将校達は、81歳で老い先短い是清まで殺してしまったのです。

 利賢は当時赤坂の是清邸に比較的近い、青山に住んでいました。前日から是清邸に泊まっていたという証言もありますが、いずれにせよ、襲撃直後ほぼ一番に是清邸に駆けつけたと考えられます。この時の利賢のショックは、とてもはかり知れません。

 つまり利賢は、実の父・利通と義父・是清、2人の父を暗殺により喪ったのです。その上、この事件では兄・牧野伸顕も襲撃対象で、あやうく難を逃れています。政治家一族なら覚悟しておくべきことだ、などと、とても簡単に片づけられるものではなかったでしょう。

おわりに

 その後の利賢は、昭和18年(1943)まで頭取を務め、戦後には顧問となり、昭和33年(1958)に亡くなりました。

 明治から昭和までの激動の時代、財界から日本を見つめ続けた利賢。利賢は偉大な2人の父を持ち、時にはその人脈により陰ながら政治的な役割も果たしました。日本が無謀な戦争に突入し、敗戦から劇的な復興を遂げる中、どんな思いで生きたのでしょうか。

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【参考文献】
  • 大久保利謙監修『旧皇族・華族秘蔵アルバム 日本の肖像 第10巻』(毎日新聞社 1990年)
  • 上塚司(編『高橋是清自伝 上』(中央公論社 1976年)
  • 上塚司(編『高橋是清自伝 下』(中央公論社 1976年)
  • 津島寿一『芳塘随想 第9集』(芳塘刊行会 1962年)
  • 東京銀行編『横浜正金銀行全史 第6巻』(東京銀行 1984年)
  • 『実業の世界 30巻第5号』(実業之世界社 1933年)
  • 『華族畫報』(華族畫報社 1913年)
  • 歴史読本編集部『歴史読本 2010年10月号』(新人物往来社 2010年)
  • 大蔵省大臣官房調査企画課編『大蔵大臣回顧録:昭和財政史史談会記録』(大蔵財務協会 1977年)
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  この記事を書いた人
物心ついた時には歴史好きでした。 2018年に歴史新書『村田新八』(洋泉社)を共著で出版。 日本史や中国史など歴史は幅広く好きですが、特に幕末維新の薩摩藩を専門にしています。

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