「織田信長が信康を殺させた」は本当か?通説を覆す“徳川家の内情”とは?
- 2026/05/14
渡邊大門
:歴史学者
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天正七年(1579)九月、徳川家康は嫡子・信康と妻・築山殿を死に追いやった。この事件は、長く「織田信長の命令によるもの」と語られてきた。家康は信長の威光の前に、泣く泣く実の子を殺さざるを得なかった――そんな悲劇的な物語が、今日まで広く信じられてきたのである。
しかし、近年の研究は、この通説に大きな疑問を投げかけている。果たして、本当に信長が信康殺害を命じたのだろうか。それとも、この事件は徳川家内部の事情によるものだったのだろうか。信康事件の経緯をたどりながら、その実像に迫ってみたい。
しかし、近年の研究は、この通説に大きな疑問を投げかけている。果たして、本当に信長が信康殺害を命じたのだろうか。それとも、この事件は徳川家内部の事情によるものだったのだろうか。信康事件の経緯をたどりながら、その実像に迫ってみたい。
【目次】
信康事件はどのように起きたのか――緊迫する徳川家
信長にとって家康は、最も信頼できる同盟者の一人だった。しかし、その両者の関係に影を落とした出来事が、家康の子・信康が死に追いやられた事件である。まず最初に、事件の経過を整理しておこう。天正七年八月三日、家康は信康のいる岡崎城(愛知県岡崎市)を訪れた。その翌日、信康は岡崎城を退去し、大浜城(愛知県碧南市)へ移ることとなる。さらに同年八月二十九日、信康の母・築山殿は自害に追い込まれた。築山殿と家康の夫婦関係は不和であったと伝えられている。
その後、信康は堀江城(静岡県浜松市)、二俣城(同上)へと移され、同年九月十五日、ついに切腹を命じられた。この間、家康は家臣たちに対し、今後は信康と関係を持たない旨の起請文を書かせている。信康の首は一度信長のもとへ送られた後、返却され、若宮八幡宮(愛知県岡崎市)に葬られた。
通説――信長の命令が悲劇を生んだとされた理由
従来、この事件は「信長の命令」によるものと理解されてきた。元亀元年(1570)、家康の領国が遠江国にまで広がったことにより、信康は岡崎城主となり、三河国の統治を任された。家康は広大な領国を単独で統治するのではなく、嫡子に一部を担当させたのである。築山殿は家康との不和もあり、浜松城ではなく岡崎城に留まり続けた。
信康の妻は、信長の娘・五徳であった。しかし、五徳と築山殿の関係は悪く、また生まれた子が女子ばかりであったこともあり、信康夫妻の関係も次第に冷え込んでいったといわれている。
一方、信康は天正三年から武田氏との戦いに参加していたが、大きな軍功は挙げられなかった。武芸には励んでいたが、些細な理由で人を殺すなど、粗暴な性格であったとも『松平記』には記されている。
こうした情報はやがて五徳を通じて信長に伝えられた。五徳が信長に送ったとされる十二ヵ条の書状には、信康との不仲や築山殿の武田氏との内通などが記されていたという。これを受け、信長は家康に対して信康と築山殿の処分を求め、家康はこれに従った――これが通説の骨子である。
最新研究が示す新視点――家康が下した「自らの決断」
しかし、近年の柴裕之氏の研究は、この通説に対して疑問を投げかけている。信康事件は、単なる信長の命令ではなく、徳川家内部の政治路線を巡る対立の結果として起きたというのである。天正三年以降、家康は織田方の最前線として武田氏と激しく戦っていた。戦争は長期化し、その負担は領国の財政や家臣団にも重くのしかかっていたので、家康は苦しかったと考えられる。
一方、武田氏は上杉謙信死後の御館の乱の影響もあり、北条氏とも対立していた。危機を感じた武田氏は、信長との和睦を模索するとともに、対徳川政策の見直しにも動き出したと考えられている。信康や築山殿への接近も、その一環であった可能性がある。
さらに、武田氏と敵対していた北条氏は、逆に家康の方へ急接近していた(「静嘉堂文庫集古文書」)。こうした外交状況の変化が、家康と信康の間に政治的対立を生むことになったのである。
家康は武田氏との戦争継続を主張したのに対し、信康は政策転換を考え、武田氏への接近を模索した可能性がある。こうして徳川家中は、対武田政策を巡って二つの陣営に分裂していったのである。
なぜ家康は実の子を切ったのか――徳川家存続のための決断
やがて五徳の書状問題が表面化すると、天正七年七月、家康は家臣の酒井忠次らを信長のもとへ派遣した。家康の意向は、これまで通り信長と歩調を合わせ、武田氏との戦いを継続することにあった。そのうえで家康自身が信康の真意を問いただし、最終的に自害を命じたとみられている。この処分は築山殿にも及んだ。つまり、信康の処分は信長の命令ではなく、家康自身の判断による可能性が高いのである。
信康の存在は、徳川家内部の分裂を招きかねない危険要因となっていた。家康は家の存続を最優先に考え、そのためにあえて嫡子を切るという苛烈な決断を下した――近年の研究は、そうした姿を浮かび上がらせている。
「信長黒幕説」は本当に正しいのか――見直される歴史像
信康事件は、信長の命令によって引き起こされた悲劇だった――そのような理解は、長く語り継がれてきた。しかし実際には、徳川家内部の政治的対立こそが事件の核心だった可能性が高い。戦国時代において、家中の統一を守るために一族を処断する例は珍しくない。武田信玄が子の義信を死に追いやる事件もあった。信康事件もまた、その一例として理解すべき事案なのかもしれない。
家康による信康殺害は、決して信長の威圧による単純な命令の結果ではなく、徳川家の存亡を賭けた政治的決断だった可能性がある。信長の強烈な個性に注目が集まりがちなこの事件だが、その背後には、より複雑で冷徹な戦国政治の現実が潜んでいたのである。
【主要参考文献】
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017年)など
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