井伊家ではようやく直虎が登場する。
直虎は井伊直盛と新野親矩の娘との間に誕生、生年は不明だが、永正18年(1521年)から天文5年(1536年)頃ではないかとみられており、この時期の井伊氏の本拠・井伊谷のある遠江国は今川氏の支配下にあった。
さっそくだが直虎を知るために幼少期の直虎における人物相関を以下に示した。まずは直虎と関わる登場人物をざっと俯瞰してみよう。
井伊直平
井伊家の第12代当主。直虎の曾祖父にあたる。
生年不明だが、永正4年(1507年)に黙宗瑞淵を招き、それまでの自浄院を臨済宗に変え、名称を龍泰寺(龍潭寺)と改め、龍泰寺へ井伊氏の領田三反を寄進している。
永正7-10年(1510-13年)の今川氏親と斯波義達の一連の戦いでは、斯波方として今川軍と戦ったとみられ、敗戦して三岳城は陥落となった。
井伊直宗
井伊家の第13代当主。直虎の祖父にあたる。
家督継承の時期は不明で、直宗発給の文書も全く見つかっておらず、史料に乏しい。
今川氏の三河国田原城攻め(1542, 1551, 1554年のいずれか)で討死したという。
井伊直盛
井伊家の第14代当主で直虎の父。
男児にめぐまれなかったため、家督継承問題で亀之丞を養子、直虎の婿にしようとする。
天文15年(1546年)には地元の百姓に対して禁制をだしており、百姓支配を行なっていたことがわかる(『蜂前神社文書』)。
最期は桶狭間で先鋒を務め、義元と同じ運命をたどる。
新野親矩の娘
直虎の母。新野氏は新野新城(舟ヶ谷城・御前崎市)を本拠とする今川氏の一族で代々、左馬助を名乗った家柄。今川国氏の三男・俊氏を祖とするが、その後の系譜には不明な点が多い。
ちなみに直虎の母方の祖父にあたる新野親矩は生年不詳。
亀之丞
直虎の婚約者。のちの井伊直親。
井伊家の後継者問題が元で今川氏に命を狙われたことで出奔し、直虎とは結ばれぬ運命となった。
最期は父と同じく讒言により、追われて討たれた。徳川四天王の筆頭となった井伊直政の父でもある。
井伊直満・直義兄弟
共に井伊直平の子。
直満は亀之丞の父である。直義は直平の四男だが、詳細は不明。 2人とも最期は家老の小野政直の讒言により、今川義元に自害を命じられる。
南渓和尚
井伊直平の子であり、井伊家の菩提寺・龍潭寺(りょうたんじ)の住職。
井伊一族の重鎮的な存在であり、直虎や亀之丞の力となって井伊氏の危機を救う。
井伊氏は大きく分けて "井伊谷親類衆" と "井伊谷被官衆"の家臣団を持っている。
井伊谷親類衆とは井伊一族の庶流のことであり、宗家からは多くの一族が派生している。
直虎の父で当主となった井伊直盛には、直平・直宗・直満・直義・直虎・亀之丞ら井伊一族に加え、親類衆には中野直由、奥山朝利ら、そして家老に小野政直(道高)、目付に今川家臣で直盛の義兄にあたる新野左馬助親矩がいた。
新野左馬助親矩の正室は奥山朝利の妹であり、新野氏と井伊氏のつながりは強い。しかし、一方で家老の小野氏は井伊氏とそういったつながりもなく、やがて井伊氏と対立していくことになる。
次に直虎誕生後の井伊氏を取り巻く環境をみていきたい。
今川義元が家督争いを制して当主になったのが天文5年(1536年)。これまで今川氏は義元の父・氏親の代から北条氏と姻戚・同盟関係にあった。
しかし、翌天文6年(1537年)にはこれまでの外交方針を一転し、甲斐の武田信虎と同盟を締結して義元が信虎の娘・定恵院を正室に迎えた。
この外交方針の転換は、義元の重臣・太原雪斎の力によるものが大きいという。彼は優れた禅僧であり、義元を養育しながらともに、ひたすら禅の修行・学問の日々を送り、義元の信任厚き師匠であったのである。
そして同年、北条氏とは手切れとなって当主・北条氏綱が駿河国へ攻め込んできた。こうして"河東の乱"と呼ばれる今川 vs 北条の戦いが始まり、天文14年(1545年)まで続く長き戦いとなるのである。
なお、河東の乱が続く間に以下の出来事が起きている。
ちなみに武田氏は武田信玄、北条氏は北条氏康が新たな当主となった。いずれも戦国大名を代表するとんでもない強者である。
これで今川・井伊氏の存亡に関わる主な役者がおおむね出揃うことになった。
こうした情勢の中で井伊氏は今川氏の家臣となったのであるが、実はそれがいつ頃なのかはっきりしていない。
遠江国は今川氏親の代に既に支配されたが、そのときに井伊一族が今川氏に降ったかどうか不明なことは既に記した。では今川氏に臣従したのは一体いつなのか?
この問いにはどうやら2つの見解があるようであり、以下にいくつかのポイントがある。
上記1で考慮すると、直盛が親矩の娘を妻に迎えたことで今川に降ったとも考えられるため、直虎の誕生前、すなわち今川氏親 or 今川氏輝が当主の代に既に今川配下になっていたものと思われる。
しかし一方で、上記2・3をみると、天文6年(1537年)時点では井伊と今川は敵対関係にあったので、それ以降に直平娘を人質に提出したことで成立したと思われる。
いずれにしても、今川氏当主が義元になる前後に今川氏に臣従したとみられる。
また、井伊氏は今川氏家臣となった後もそのまま井伊谷に居住し、それまでの国衆時代の支配領域をほぼそのまま支配したようである。
ちなみにこの直平の娘はのちに義元家臣の関口親永と結婚し、瀬名姫(のちの家康の正室・築山殿)を産んでいる。
河東の乱の最中の天文8年(1539年)に家臣たちの給分について指示した井伊直盛の文書(「蜂前神社文書」)があることから、井伊家ではこの時点で直虎の父・直盛が当主になっていたものとみられる。
このときに祖父・直宗はまだ存命中であったが、なんらかの理由で家督を譲られたのであろうか。
ちなみに直宗は今川義元に従い、天文11年(1542年 *1551、1554年説もあり)の三河国の田原城攻めのときに討死している。
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