【豊臣兄弟!】悲しくも美しい…荒木だしの凛然たる最期

  • 2026/06/04
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 大河ドラマ『豊臣兄弟!』第21回放送「風雲!竹田城」で、だし(演:山谷花純)は荒木村重(演:トータス松本)の妻として登場しました。劇中では野心が(それほどでも?)ない夫と仲睦まじい様子が描かれていましたが、それが悲劇のフラグであることは言うまでもありません。

 今回は荒木村重の妻・荒木だしについてご紹介。『豊臣兄弟!』を楽しむ参考になれば幸いです。

楊貴妃のような美女

 荒木だしは永禄元年(1558)ごろ、川那部左衛門尉(かわなべ さゑもんのじょう)と田井源介女(たい げんすけ娘)の間に誕生しました(諸説あり)。

 村重とは20歳ほども年齢差があり、また村重は主家である池田長正(いけだ ながまさ)の娘を正室に迎えています。そのため、だしは側室または継室と考えられているようです。

 ところで、なぜ「だし」という名前なのでしょうか。実は城の出丸(出し)に住んでいたからそう呼ばれたそうで、どうやら本名ではなさそうです。ちなみに本名は「ちよほ(千代穂?ちょぼ?)」または「梶(かじ)」と言われています。

 天正6年(1578)に村重の末子である岩佐又兵衛(いわさ またべゑ)を産んだとも言われますが、はっきりしたことはわかっていません。

 そんなだしは、美人として評判だったそうで、次に記されているように「現代に蘇った楊貴妃(よう きひ)」のような美女と称えられる等、よほどの美女だったのでしょう。

「いまやうきひ(現代に蘇った楊貴妃)」
※『立入左京亮宗継入道隆佐記』より
「一段美人に候」
※『立入左京亮宗継入道隆佐記』より
「きこへ有る美人(聞こえある≒評判の美人)」
※『信長公記』より

 そんなだしには二人の妹がおり、それぞれ村重の郎党に嫁いだと言います。

凛然たる最期

 だしと村重の結婚生活に暗雲が立ち込めたのは天正6年(1578)、村重が有岡城で織田信長(演:小栗旬)に謀叛を起こしたのがきっかけです。

 村重は籠城戦を繰り広げた末、天正7年(1579)9月2日に妻子も家臣も捨てて、有岡城から逃亡してしまいます。後のことを丸投げされた荒木久左衛門(きゅうざゑもん)は抗戦を続けるも武運拙く、11月19日に開城しました。だし達は織田軍の捕虜となってしまいます。

信長:「捕虜たちを助けてやる代わりに、尼崎城へ逃げ込んだ村重に降伏するよう説得せよ」

 信長は久左衛門に対してこう命じますが、村重は説得に応じずに抗戦。久左衛門は信長からの叱責を恐れて逃亡してしまいます。村重や久左衛門の態度に激怒した信長は、甥にあたる津田信澄(演:緒形敦)に命じて、だしや荒木一族を処刑させたのでした。

 まず12月13日に人質122名を尼崎城外で磔(見せしめ)とし、512名を四軒の家に押し込めて焼き殺します。そして天正7年(1579)12月16日。だしは刑場に引き出されると、帯を締め直して髪を結い上げ、小袖の襟を開いて首を差し出したといいます。

 これはいずれも斬首しやすくするため、首を斬られた後の身体が乱れぬための配慮でした。「同じ殺されるなら、少しでも見苦しい振る舞いはすまい…」そんな武家の女性らしい凛然たる覚悟が表れています。

だしの辞世

 最期に臨んで、だしは多くの辞世を詠みました。我が子に対する愛情と未練を詠んだものが目立ちます。それでは、一首ずつ見ていきましょう。

きゆる身は おしむべきにも 無き物を 母のおもひぞ さはりとはなる

(【歌意】私の命は惜しくもありませんが、母親としては子供への想いが未練となります。)
※『信長公記』より

残しをく そのみどり子の 心こそ おもひやられて かなしかりけり

(【歌意】まだ幼い我が子の気持ちを思うと、悲しくてなりません。)
※『信長公記』より

木末(こずえ。梢)より あだ(徒)にちりにし 桜花(さくらばな) さかりもなくて あらしこそふけ

(【歌意】季節外れの桜が咲いているが、実もならぬのだから、早く嵐に吹き散らされてしまえ。)
(【解釈】処刑するなら早くしなさい。我が夫も、謀叛など成功せぬのだから、もう観念なさい。)
※『信長公記』より

のこし置 そのみどり子の 心こそ すて置し身の さはりともなれ

(【歌意】遺される幼子の心を思うと、旅立ちの差し障りとなってしまいます。)
※『左京亮宗継入道隆佐記』より

書置も 袖やぬれけん もしほ(藻塩)草 きえはてし身の かたみ共なれ

(【歌意】涙に濡れた袖を荼毘に付せば、塩がとれるでしょうから、これが形見になるでしょうか。)
※『左京亮宗継入道隆佐記』より

みがくべき 心の月の くもらねば ひかりとともに にし(西)へこそ行

(【歌意】私の心にある鏡は曇りなく磨かれているので、輝く光とともに西方浄土へ旅立ちましょう。)
※『信長公記』『左京亮宗継入道隆佐記』より

 最後に紹介した辞世は仏教の浄土思想を表したもので、だしがキリシタンであったとする説を否定する根拠となっています。

 『信長公記』と『左京亮宗継入道隆佐記』のいずれにも記録されていることから、これが実際に詠んだ辞世で、他は脚色や伝聞を加筆したのかも知れません。

終わりに

 かくして、だし達は刑場の露と消えてしまいました。

 それでも抵抗を続けた村重ですが、天正8年(1580)3月になると、ついに城を捨てて毛利領へ逃亡。かくして荒木村重の謀叛は終結しました。その後も村重は生き延びるのですが、それはまた別のお話。

 果たして大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、だしと村重の夫婦がどのように描かれるのか、注目して参りましょう。

【参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』(東京堂出版 2000年)
  • 天野忠幸『シリーズ・実像に迫る010 荒木村重』(戎光祥出版 2017年)
  • 阿部猛・西村圭子(編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社 1990年)
  • 瓦田昇『戦国の将村重の軌跡とその時代 荒木村重研究序説』(海鳥社 1998年)
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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