丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

「荒木村重」突如として信長に謀反を起こし、妻子すべてを裏切った

  • 織田信長
 2017/11/20
荒木村重の肖像画(落合芳幾 作)

戦国でも屈指の人気を誇る織田信長ですが、明智光秀をはじめとして家臣や同盟者から絶えず謀反を起こされてきたという側面もあります。そんな彼の生涯でも、おそらく非常に大きなインパクトを残したのが、摂津を中心に活躍した家臣・荒木村重の謀反でしょう。

本記事では村重の出自や出世に触れ、彼の謀反とその動機に迫ってみます。
(文=とーじん)

池田氏に従うも、三好三人衆と結んで家を乗っ取る

村重は、天文4年(1535年)に摂津の有力者・池田勝正に仕える荒木義村の息子として生まれました。彼もまた父と同様に池田家に仕え、家臣としてお家の所領を押し広げ、摂津に名をとどろかせたといいます。一説には将軍奉公職に取りたてられたとも言われるほどで、仮にそれが事実なら京都においても知名度の高い人物であったのでしょう。

摂津で勢力を広げていた池田家と村重に転機が訪れたのは永禄11年(1568年)のこと。

尾張国を手中に収めた信長が、足利義昭を奉じて上洛してきたのです。現代では「信長の家臣」として知られる村重ですが、当時の彼らはまだ敵同士。主君の勝正は畿内の実力者である三好三人衆と組み、信長に抵抗します。

ところが、信長の実力を前に籠城した池田城は陥落してしまい、勝正は降伏を余儀なくされました。ただし、信長は池田氏を摂津の守護として認め、とくに処分を下すことはしませんでした。

永禄12年(1569年)、村重は義昭が三好三人衆に襲われる「本圀寺の変」に際して、勝正に従って出陣します。戦では将軍方の将として活躍を見せ、将軍の危機を見事に救ったと言われています。

信長のもとで順調に地位を築いていた池田家ですが、ここで彼らを「お家騒動」が襲いました。首謀者は村重本人。主君であるはずの勝正を追い詰め、彼は家臣二人を殺害したうえで大坂への出奔を余儀なくされてしまいます。

その後継者として勝正の弟である池田知正が当主になりましたが、もはや池田一族に家を統率する力は残されていませんでした。結果、村重が池田一族に列せられ、家の実質的な支配者に成り上がったのです。

なお、一連のお家騒動には、信長によって権力の座を追われた三好三人衆の存在が関係しており、村重は彼らに肩入れしていたと考えられています。

信長と義昭の対立で上手く立ち回り、摂津での立場を強める

ほぼ池田家を乗っ取った村重は、同じく摂津の有力者であった和田惟政と対立。郡山の戦いを引き起こし、惟政を討ち取ることでさらに力を伸ばしました。

加えて、惟政の子である和田惟長が家臣の高山飛騨守・右近親子に攻められ、城を追われるという事件が発生します。この反乱を裏で演出していたのが村重であり、かねてから親しかった高山親子を扇動して対立構造を生み出したと言われます。

したたかに力を伸ばしていく村重ですが、この時期には信長と将軍・義昭の対立が表面化し、どちらに従うかを判断しなければなりませんでした。彼は天正元年(1573年)の早々には信長支持を表明。軍勢を率いてくる信長を京都で迎えると、彼への恭順を表明します。

その一方、実権を奪われて「傀儡君主」となっていた知正は、村重とたもとを分かって義昭が中心となって組織された「信長包囲網」に加わり、お家再興の機会をうかがいました。

両者の対決は終始信長優位に進行していき、同年に勃発した槙島城の戦いで信長が勝利すると、義昭は都を追放されました。村重も織田軍の一員として戦に参加し、戦勝に貢献。形式上の主家である池田家は義昭の敗北によって没落が決定的なものとなり、知正は村重の家臣として位置づけられるという逆転現状が発生します。

こうした村重の働きに着目した信長は、摂津の支配を村重に委ねようと考えるようになりました。結果、義昭追放後は摂津における大部分の支配権を保証され、信頼を勝ち得ていくのです。

信長家臣として絶大な信頼を勝ち取る

信長の家臣となった村重は、早くから信長の絶大な信頼を勝ち得ていたようです。天正2年(1574年)の3月時点で彼の名前は佐久間氏・柴田氏・丹羽氏ら古くからの家臣と並ぶ格があると考えられており、ここに信長からの深い信頼を見ることができます。

村重もその信頼に違わぬ働きを見せ、信長がかねてより苦しんでいた本願寺派との戦で戦勝を収めると、最後に摂津で勢力を維持していた伊丹忠親を攻め落とすなど、信長の意に沿う貢献を果たしました。

また、伊丹氏を打倒したことで摂津の支配がほぼ完了し、村重は抵抗がやまない本願寺派の勢力地を除く摂津の全域を委ねられました。

摂津の平定を済ませてからはさらに西方の作戦にも関与し、石山本願寺を中心に信長を苦しめ続けてきた本願寺勢力との戦にも従事。細川藤孝明智光秀塙直政といった実力派の指揮官と並んで大坂攻略を進めました。ただ、三津寺砦の攻略戦で塙直政が戦死するなど、本願寺の攻略は一筋縄ではいきません。以後、村重は直接的に大坂攻めを担当したわけではないものの、摂津支配者として信長に作戦を進言していました。

大坂攻めに続いて雑賀攻めなどにも従軍し、宣教師ルイス・フロイスをして「収入および所領が多く、かなり強力な異教徒」と称されるなど、織田家臣団の中でも際立つ存在でありました。

次に、秀吉が本格的に中国地方の攻略に着手するまでの間、播磨国を中心に中国方面の司令官としても活躍。毛利氏との対決にも参加し、上月城に籠る尼子勝久や山中鹿之助の勢力を支援します。もっとも、最終的に彼らを救うことはできず、二人は敗北を余儀なくされましたが。

中国地方の攻略においても重要な役割を果たしましたが、この時期に中国地方の司令官が秀吉へと引き継がれている点は注目しなければなりません。秀吉が入って以降は彼の補佐に甘んじていた節があると指摘され、摂津で絶大な信頼を得ていた時期と比較すると地位に陰りが見えてきていました。

信長に謀反を起こすも、失敗に終わってしまい…

天正6年(1578年)の十月。信長のもとに「村重が裏切った」という知らせが届きます。しかし、彼にしてみれば村重を重用してきましたし、「何かの間違いだ」と思ったのでしょう。松井友閑・明智光秀・万見重元の三名を派遣して村重の意向を尋ねました。

村重は「そんなつもりはない」と釈明しましたが、「疑いを晴らすために安土へ出仕せよ」という命令には従わず、信長も謀反と判断。続いて友閑・光秀に加えて羽柴秀吉を遣わして彼の説得にあたりましたが、家臣らの強固な意見もありその意思は変わりませんでした。

村重は有岡城に籠りましたが、高山右近の高槻城と中川清秀の茨木城がすぐさま落とされ、彼らは信長に降伏。有岡城も即座に落とされるかに思われましたが、村重を中心に実に一年近くも籠城戦に耐え抜きました。

信長も電撃戦を諦めて兵糧攻めの構えに入ったものの、肝心の村重側に現状の打開策が見出せていませんでした。彼は毛利氏の救援を頼みにしていましたが、当時の毛利氏にそのような余裕はなかったのです。

「このままでは死ぬしかない…」そう考えた村重は、ひそかに有岡城を脱出して尼崎城に入り、反撃の機会をうかがいました。なお、この時点で「村重は妻子すべてを見捨てて逃げ出した」と言われることもありますが、彼はあくまで尼崎の地で毛利氏との交渉を進める意向であったと考えられており、まだ抵抗の意思を有していました。

ところが、有岡城が落ちた際「村重の降伏」を条件に城内の人命を保証するという約束が信長と交わされたものの、村重は妻子までもを見捨てる形でこの降伏案を拒否。結果、村重の妻を含む一族37人・家臣500名余りが見せしめとして惨殺されてしまったのです。

その後も抵抗を続けましたが、最終的にはかねてから内通していた毛利氏のもとへと逃れました。毛利の庇護下でひっそりと暮らしていた村重は、本能寺の変が起こると畿内へと舞い戻り、晩年は秀吉や千利休と交流して茶人としての生涯を送りました。

戦に出陣することはなく、天正14年(1586年)に52歳で生涯を終えています。

村重はなぜ謀反を起こしてしまったのか

「村重の謀反」に関する動機は、古くから議論の対象でした。信長に絶大な信頼を得ていたハズなのになぜ…、という疑問は、時代を越えて共有されているのでしょう。

まず、古くから唱えられているのは「村重に過失があり、それを責められた」という説。しかし、村重が過失を疑われているとするならば、彼の謀反に信長が驚く様子は説明できません。

次に考えたいのは、「明智光秀が謀反計画の邪魔者を排除した」という説。村重同様に謀反を起こすことになる光秀にとって、村重が邪魔になったというのです。ただし、この説も具体的な証拠があるわけではなく、単なる陰謀説の一つにすぎません。

近年、有力であると考えられているのが「出世の見込みがなくなり、毛利氏と結ぶことでチャンスをつかみたかった」という説です。村重はかなり早い段階で毛利氏と内通していた様子が確認でき、秀吉の台頭によって地位を下げていたことも裏付けがなされています。

これまでも「反逆や乗っ取り」など手段を選ばずのし上がってきた村重にとって、野心のために謀反を起こすことはそう抵抗がなかったのでしょう。そう考えれば、謀反の動機としては十分に成立し得ます。

しかし、今回ばかりは運が悪かった…。彼が頼みにしていた毛利氏の援軍を得られないのが決定的な敗因となり、妻子をすべて見捨てるという「非道者」の烙印を押されることになってしまったのです。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、2010年)
  • 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)


  • このエントリーをはてなブックマークに追加


関連タグ



おすすめの記事


 PAGE TOP