「荒木村重」晩年は道糞を名乗る?信長に背いて地位や妻子すべてを失った生涯とは
- 2020/04/02
戦国でも屈指の人気を誇る織田信長ですが、明智光秀をはじめとして家臣や同盟者から絶えず謀反を起こされてきたという側面もあります。そんな彼の生涯でも、おそらく非常に大きなインパクトを残したのが、摂津を中心に活躍した家臣・荒木村重(あらき むらしげ)の謀反でしょう。
本記事では村重の出自や出世に触れ、彼の謀反とその動機に迫ってみます。
本記事では村重の出自や出世に触れ、彼の謀反とその動機に迫ってみます。
摂津・池田氏の有力家臣として
村重の出自
荒木村重の出自についてははっきりしていません。『荒木略図』や『寛永諸家系図伝』など、荒木一族は藤原秀郷の末裔で丹波国の波多野氏の一門であることを示す系図が多く、やがて摂津に移り住んだといわれています。
村重は天文4(1535)年に摂津の有力者・池田氏に仕える荒木義村の息子として生まれたといいます。ただし、父義村は一次史料で確認できていませんので、丹波から摂津に移り住んだかどうかもハッキリしていないのです。
池田家中で重臣に
池田氏は当時畿内と四国を支配していた三好長慶から三好一門の扱いを受けるほどの家柄でした。摂津で最有力の国衆へと変貌を遂げた池田家中で、荒木一族も台頭していきます。村重もまた父と同様に池田家に仕え、家臣としてお家の所領を押し広げ、摂津に名をとどろかせたといいます。一説には将軍奉公職に取りたてられたとも言われるほどで、仮にそれが事実なら京都においても知名度の高い人物であったのでしょう。
摂津で勢力を広げていた池田家と村重に転機が訪れたのは永禄11(1568)年のこと。尾張と美濃を手中に収めた信長が足利義昭を奉じて上洛してきたのです。
現代では「信長の家臣」として知られる村重ですが、当時の彼らはまだ敵同士。主君の池田勝正は畿内の実力者である三好三人衆と組んで信長に抵抗します。
しかし、信長の実力を前に籠城した池田城は陥落してしまい、勝正は降伏を余儀なくされました。ただし、信長は池田氏を摂津の守護として認め、とくに処分を下すことはしませんでした。
永禄12(1569)年、将軍義昭の仮御所が三好三人衆に襲撃された「本圀寺の変」の際、村重は勝正に従って出陣。将軍方の将として活躍を見せ、将軍の危機を見事に救ったと言われています。
池田家のお家騒動
信長のもとで順調に地位を築いていた池田家ですが、翌元亀元(1570)年には「お家騒動」が襲います。主君の勝正が追放されて大坂への出奔を余儀なくされ、その後継者として勝正の弟である池田知正が当主につくことに…。もはや池田一族に家を統率する力は残されていませんでした。結果、村重が池田一族に列せられ、家の実質的な支配者に成り上がったのです。
なお、一連のお家騒動には、信長によって権力の座を追われた三好三人衆の存在が関係していたようです。
池田家中で「将軍義昭方につくのか、三好方につくのか」の意見が対立し、村重は三好方に肩入れしたと考えられています。
義昭方の和田惟政を討ち取る
ほぼ池田家を乗っ取り、再び反義昭派となった村重は、同じく摂津の有力者であった和田惟政と対立。郡山の戦いを引き起こし、惟政を討ち取ることでさらに力を伸ばします。なお、天正元(1573)年3月には、和田惟政の子である和田惟長が家臣の高山飛騨守・右近親子に攻められ、城を追われるという事件が発生しています。
この反乱を裏で演出していたのが村重であり、かねてから親しかった高山親子を扇動して対立構造を生み出したと言われています。
信長家臣となり、出世の道へ
信長と義昭の対立で上手く立ち回り、摂津での立場を強める
したたかに力を伸ばしていった村重ですが、この頃には信長と将軍・義昭の対立が表面化しており、いち早く信長に味方する意思を固め、軍勢を率いてくる信長を京都で迎えて恭順を表明しています。一方、実権を奪われて「傀儡君主」となっていた池田知正は、村重と袂を分かって義昭が中心となって組織された「信長包囲網」に加わり、お家再興の機会をうかがうことに。つまり、池田家中ではまたもや織田方と義昭方とに分裂してしまったのです。
参考までに以下、この時期の信長と義昭の対立構図です。
◆ 織田方
- 織田信長(織田氏)
- 徳川家康(徳川氏)
- 細川藤孝
- 荒木村重
VS
◆ 義昭方
- 武田信玄(甲斐武田氏)
- 顕如(本願寺勢力)
- 三好三人衆
- 松永久秀
- 朝倉義景(越前朝倉氏)
- 浅井長政(近江浅井氏)
- 池田知正
信長と義昭の対決は終始信長に進行していき、同年7月に勃発した槙島城の戦いで信長が勝利すると、義昭は都を追放されました。事実上の室町幕府滅亡です。このとき村重も織田軍の一員として戦に参加し、戦勝に貢献しています。
形式上の主家である池田家は義昭の敗北によって没落が決定的なものとなり、知正は村重の家臣として位置づけられるという逆転現状が発生します。
こうした村重の働きに着目した信長は、摂津の支配を村重に委ねようと考えるようになりました。結果、義昭追放後は摂津における大部分の支配権を保証され、信頼を勝ち得ていくのです。
摂津を平定
信長の家臣となった村重は、早くから信長の絶大な信頼を勝ち得ていたようです。天正2(1574)年の3月時点で彼の名前は佐久間氏・柴田氏・丹羽氏ら古くからの家臣と並ぶ格があると考えられており、ここに信長からの深い信頼を見ることができます。
村重もその信頼に違わぬ働きを見せ、信長がかねてより苦しんでいた本願寺派との戦で戦勝を収めると、最後に摂津で勢力を維持していた伊丹忠親を攻め落とすなど、信長の意に沿う貢献を果たしました。
また、伊丹氏を打倒したことで摂津の支配がほぼ完了し、村重は抵抗がやまない本願寺派の勢力地を除く摂津の全域を委ねられました。
播磨出兵・本願寺・雑賀攻め
摂津の平定を済ませてからはさらに中国方面での作戦にも関与します。まずは信長の命で天正3(1575)年には播磨に出兵し、山名豊国、赤松広貞、小寺政職、別所長治といった諸将らを調略で味方につけるのに貢献。秀吉が本格的に中国地方の攻略に着手するまでの間、播磨国を中心に中国方面の司令官として活躍しました。
次に石山本願寺を中心に信長を苦しめ続けてきた本願寺勢力との戦にも従事。細川藤孝・明智光秀・塙直政といった実力派の指揮官と並んで大坂攻略を進めます。
ただ、天正4(1576)年には三津寺砦の攻略戦で塙直政が戦死するなど、本願寺の攻略は一筋縄ではいきませんでした。以後、村重は直接的に大坂攻めを担当したわけではないものの、摂津支配者として信長に作戦を進言していきます。
大坂攻めに続き、雑賀攻めなどにも従軍し、宣教師ルイス・フロイスをして「収入および所領が多く、かなり強力な異教徒」と称されるなど、織田家臣団の中でも際立つ存在でありました。
秀吉の指揮下に入り、不満を募らせる
翌天正5(1577)年に入り、羽柴秀吉が中国方面の司令官に任命されると、村重はその指揮下に入ります。毛利氏との対決にも参加し、上月城に籠る尼子勝久や山中鹿之助の勢力を支援しました。もっとも、最終的に彼らを救うことはできず、二人は敗北を余儀なくされましたが…。
中国地方の攻略において重要な役割を果たした村重ですが、中国地方の司令官が秀吉へと引き継がれている点は注目しなければなりません。この処置は播磨を担当した村重の功績を無視するものだと考えられています。
この頃は秀吉の補佐に甘んじていた節があると指摘され、摂津で絶大な信頼を得ていた時期と比較すると地位に陰りが出てきたのです。
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信長への謀反
有岡城の戦い
こうした中、天正6(1578)年の10月に突如、信長のもとに「村重が裏切った」という知らせが届きます。しかし、信長にしてみれば村重を重用してきましたし、「何かの間違いだ」と思ったのでしょう。松井友閑・明智光秀・万見重元の三名を派遣して村重の意向を尋ねました。
村重は「そんなつもりはない」と釈明しましたが、「疑いを晴らすために安土へ出仕せよ」という命令には従わなかったため、信長も謀反と判断。続いて友閑・光秀に加えて羽柴秀吉を遣わして彼の説得にあたりましたが、家臣らの強固な意見もあり、その意思は変わりませんでした。
村重は有岡城に籠りましたが、高山右近の高槻城と中川清秀の茨木城がすぐさま落とされ、彼らは信長に降伏。有岡城も即座に落とされるかに思われましたが、村重を中心に実に一年近くも籠城戦に耐え抜きました。
信長も電撃戦を諦めて兵糧攻めの構えに入ったものの、肝心の村重側に現状の打開策が見出せていませんでした。彼は毛利氏の救援を頼みにしていましたが、当時の毛利氏にそのような余裕はなかったのです。
尼崎城・花隈城の戦い
「このままでは死ぬしかない…」そう考えた村重は、ひそかに有岡城を脱出して尼崎城に入り、反撃の機会をうかがいました。なお、この時点で「村重は妻子すべてを見捨てて逃げ出した」と言われることもありますが、彼はあくまで尼崎の地で毛利氏との交渉を進める意向であったと考えられており、まだ抵抗の意思を有していました。
ところが、有岡城が落ちた際「村重の降伏」を条件に城内の人命を保証するという約束が信長と交わされたものの、村重は妻子までもを見捨てる形でこの降伏案を拒否。結果、村重の妻を含む一族37人・家臣500名余りが見せしめとして惨殺されてしまったのです。
その後も抵抗を続けましたが、最終的にはかねてから内通していた毛利氏のもとへと逃れています。
茶人として復活
毛利の庇護下でひっそりと暮らしていた村重は、天正10(1582)年の本能寺の変で信長が横死すると、畿内へと舞い戻ったようです。実際、天正11(1583)年には「道薫(どうくん)」を名乗り、堺や大阪城で開かれた茶会などに参加しています。
村重は一人で生き延びたことを恥じ、世捨て人として「道糞(どうふん)」と称したが、秀吉の命で「道薫」に改名した、とのエピソードがよく知られていますが、「道薫」の名は一次史料にでてこないので俗説と考えられています。
意外なことに、史料からは、信長に背いた謀反人、妻子らを見捨てた卑怯者といったネガティブな評価はありません。羽柴や毛利、堺の茶人や京都の寺社などに顔が利く重要な存在だったようです。
晩年は秀吉や千利休らと交流し、茶人としての生涯を送りました。戦に出陣することはなく、天正14(1586)年に52歳で生涯を終えています。
あとがき:村重はなぜ謀反を起こしたのか
「村重の謀反」に関する動機は、古くから議論の対象でした。信長に絶大な信頼を得ていたハズなのになぜ…、という疑問は、時代を越えて共有されているのでしょう。まず、古くから唱えられているのは「村重に過失があり、それを責められた」という説。しかし、村重が過失を疑われているとするならば、彼の謀反に信長が驚く様子は説明できません。
次に考えたいのは、「明智光秀が謀反計画の邪魔者を排除した」という説。村重同様に謀反を起こすことになる光秀にとって、村重が邪魔になったというのです。ただし、この説も具体的な証拠があるわけではなく、単なる陰謀説の一つにすぎません。
近年、有力であると考えられているのが「出世の見込みがなくなり、毛利氏と結ぶことでチャンスをつかみたかった」という説です。
村重はかなり早い段階で毛利氏と内通していた様子が確認でき、秀吉の台頭によって地位を下げていたことも裏付けがなされていますね。
これまでも「反逆や乗っ取り」など手段を選ばずのし上がってきた村重にとって、野心のために謀反を起こすことはそう抵抗がなかったのでしょう。そう考えれば、謀反の動機としては十分に成立し得ます。
しかし、今回ばかりは運が悪かった…。彼が頼みにしていた毛利氏の援軍を得られないのが決定的な敗因となり、妻子をすべて見捨てるという「非道者」の烙印を押されることになってしまったのです。
【参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 天野忠幸『荒木村重 (シリーズ・実像に迫る10) 』(戎光祥出版、2017年)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、2010年)
- 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)
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