「関口氏純」今川重臣として大きな功績を残した築山殿の父。その血脈は高貴なるものとして現代にも!?
- 2023/01/10
今度の大河ドラマ「どうする家康」の配役が次々発表されましたが、その中にはあまり目にしたことのない歴史上の人物がいます。その1人が渡部篤郎さんが演じる関口氏純(せきぐち うじずみ)です。
大河ドラマの公式サイトでは「今川義元を支える、気品と強さを兼ね備えた筆頭家老。愛娘・瀬名にめっぽう弱く、人質に過ぎない元信との婚姻を後押しすることに……」と紹介されています。氏純は瀬名姫こと築山殿の父親であり、家康にとって義理の父親でもあります。
氏純は今川氏の傍流にあたる血筋であり、代々重臣として活躍してきた関口氏の出身です。そのため、徳川家康に嫁ぐ際は築山殿が今川義元の義娘として嫁ぐなど、その地位は非常に高いことで知られています。
調べていくと、驚くべきことに 一説には井伊直虎が関口氏純の孫の可能性も浮上していたり、氏純の子孫が現在の天皇家や『広辞苑』の編纂者にも繋がっています。今回はそんな関口氏純について考察していきたいと思います。
大河ドラマの公式サイトでは「今川義元を支える、気品と強さを兼ね備えた筆頭家老。愛娘・瀬名にめっぽう弱く、人質に過ぎない元信との婚姻を後押しすることに……」と紹介されています。氏純は瀬名姫こと築山殿の父親であり、家康にとって義理の父親でもあります。
氏純は今川氏の傍流にあたる血筋であり、代々重臣として活躍してきた関口氏の出身です。そのため、徳川家康に嫁ぐ際は築山殿が今川義元の義娘として嫁ぐなど、その地位は非常に高いことで知られています。
調べていくと、驚くべきことに 一説には井伊直虎が関口氏純の孫の可能性も浮上していたり、氏純の子孫が現在の天皇家や『広辞苑』の編纂者にも繋がっています。今回はそんな関口氏純について考察していきたいと思います。
関口氏とはどんな一族なのか
そもそも関口氏とはどんな一族なのでしょうか。関口氏は今川氏の分家と言える刑部大輔家の子孫です。代々越後守か刑部大輔を名乗っており、関口氏純も刑部大輔を名乗っています。今川氏初代・国氏の子が今川惣領の基氏と刑部大輔家の初代となる経国の2人であり、経国から関口氏を名乗るようになりました。関口の由来は地名の関口(現在の愛知県豊川市長沢)を領有したことからです。
また、関口氏は今川氏の外交を担当しており、上京して将軍の近習として側で活躍していました。『大武鑑』に収録されている「文安年中御番帳」には、結衆の一番最初に「今川関口刑部大輔」の名前が記されています。これは応仁の乱以前の史料ではありますが、その後も関口氏が担当したことは間違いないでしょう。永正(1504〜1521)の頃に駿河に下向した公家冷泉為広は、家中の家格として「関口刑部少輔」を家臣で3番目にあげています。
関口経国から7代または8代後にあたるのが氏純と言われています。父は瀬名氏貞で、関口氏ではありません。しかし、瀬名氏も今川氏の傍流であり、関口氏先代当主の関口氏縁の後を次男の氏純が継いだと考えられます。家康に嫁ぐ瀬名姫が瀬名を名乗っていたことから、これは正しいとみて良いでしょう。
氏純は永正15年(1518)に誕生したとされています。名前については親永・義広・氏広なども伝わっていますが、一次史料上では氏純のみが確認されています。
関口氏純の今川家中での立ち位置
関口氏純は今川家臣の中でもその血縁から「家中」と呼ばれる重臣の1人だったと考えられています。この「家中」には義元の軍事・外交の師である太原雪斎や懸川の朝比奈泰朝、引間こと浜松城主の飯尾乗連、甲駿国境の領主である葛山氏元といった面々が名を連ねていました。今川氏はこの「家中」の合議に当主が参加して意思決定を行っていたことが大石泰史氏の研究によって指摘されています。重臣として意思決定に関わった氏純は、三河に領地を持っていたこともあって西方の外交における要石となっていたことが伺えます。その最たる証拠が瀬名姫と家康の結婚でしょう。婚姻によって三河の有力者松平氏を身内に取りこみ、今川氏による三河支配を確固たるものにしようとしたと判断されます。実際、永禄元年(1558)に家康が発給した手紙でも、今川氏の取次役として関口氏純の名前が記されています。
家康と瀬名姫こと築山殿の婚姻については、三河での今川氏の支配を強化しつつ、松平氏を今川氏の血縁に取りこむことが目的だったと考えられます。そのために、三河取次の関口氏との婚姻を進めたのは間違いないでしょう。
桶狭間で暗転!氏純の最期
築山殿は今川義元の養女となって弘治3年(1557)5月に家康に嫁ぎました。家康と築山殿の間には嫡男である信康が永禄2年(1559)に生まれています。信康の誕生時期は今川氏による三河支配も安定しており、氏純にとっても桶狭間の戦いまでは家中の立場も安定していました。氏純は弘治3年(1557)正月には上洛し、山科言継と会っています。また、堺にある天王寺屋の津田宗達の茶会にも参加しています。こうした外交面の活躍は今川氏の外交担当の最重要任務といえるでしょう。
なお、氏純は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いにおける義元の出発前には、伊勢神宮に手紙を出しており、その中で義元の尾張遠征が近いことを伝えています。彼の活動範囲が広いこと、桶狭間の戦いにも関わっていたことが伺えますね。
しかし、桶狭間で今川義元が死亡すると、今川氏は大きく揺らぐことになります。重臣にも多数の死者が出たことで、今川氏の支配体制にも問題が発生するようになり、家督継承者の今川氏真も難しい状況で当主の座を継ぐことになりました。
主家同様、氏純も桶狭間の後は窮地に陥ります。義元の死を知った家康は永禄4年(1561)4月に牛久保城を攻撃。この時点で家康は今川氏の支配から独立を図ったといえ、その舅である氏純の立場は難しくなったのでしょう。
そして永禄5年(1562)には家康が上之郷城を攻め、鵜殿氏の子ども2人を生け捕りにし、彼らと、妻子である築山殿・信康との人質交換をするように今川氏と交渉したと言われています。仮に人質交換があったとすればその時点で氏純は娘と孫が敵になってしまうわけで、氏純が三河以西の外交担当を務めることは不可能でしょう。
その後、同年中に氏純は今川氏真の不信によって切腹を命じられたと言われています。重臣を多く失った後の氏真は三浦氏など、一部の家臣頼りになっていきます。
氏純の死によって、関口氏の今川家中での立場は大きく失墜しました。北条氏規に嫁いだ(または嫁ぐ予定だった)娘は離縁されています。一方で今川氏も関口氏という重臣を処罰したことで、家臣団の結束が弱まり、のちの戦国大名としての滅亡に繋がっていくのです。
ただ、氏純が本当に切腹をさせられたのか疑問を呈する新史料も近年発見されています。今川氏の菩提寺である臨済寺で発見された文書の中に、氏純が所領の一部を天沢寺に寄進する内容のものが発見されました。その年号が永禄6年(1563)だったため、没年が通説とは違う可能性も出てきています。
子孫は現代につながり、錚々たる人々が?
さて、ここからは関口氏純の子孫についてもみていきましょう。氏純の子・関口正長は父の領地だった持舟4万2千石を今川氏真に没収されました。『寛政重修諸家譜』によると、天正18年(1590)に亡くなり、その跡を継いだ関口正明が寛永15年(1638)になって跡継ぎを認められています。
彼らは鳥見役と呼ばれる徳川将軍家の鷹狩り地の準備役を任されていました。その鷹狩地は杉浦陣屋(埼玉県北葛飾郡松伏町)付近であり、この近くには関口氏代々が祀られている宰住山正明寺(埼玉県北葛飾郡杉戸町)があります。この寺院が開かれたのが正保年間(1644〜1648)と言われており、関口長文とされています。時期的に正明と長文は同一人物の可能性もあります。
その後も正勝・正知と代々徳川将軍家の旗本として関口氏は続いていきました。その家系は明治時代まで続き、初代静岡県知事である関口隆吉につながっています。隆吉の次男は新村出氏で、『広辞苑』の編纂を行っています。関口氏は現在の日本人にとって一度はお世話になったことのある一族であるといえるでしょう。
また、近江彦根城の藩主井伊氏に代々仕えた関口氏経も越後守を名乗っていたことから氏純の子ではないかと黒田基樹氏が指摘しています。『雑秘説写記』によれば、関口氏経の子・井伊次郎が一時井伊氏を継いだとされており、井伊直虎が男性ではという説とともに、井伊直虎は関口氏の子という説が現在検証されています。
このほか、築山殿の息子である徳川信康の娘・登久姫(とくひめ)は信康切腹後も生き延びています。彼女は信濃松本藩の譜代大名となる小笠原秀政に嫁ぎ、その娘・敬台院が阿波徳島藩の初代である蜂須賀至鎮に嫁ぎました。
至鎮の娘が岡山藩の池田氏に嫁ぎ、5代後の池田数計子が藤原北家の勧修寺家に嫁ぎました。その娘である勧修寺婧子が光格天皇に嫁いだ後、その子どもが天皇位を継いで仁孝天皇となっています。つまり、驚くべきことに関口氏純の血は現在の天皇家につながっていることになるのです。
おわりに
関口氏純は今川氏でも随一の重臣であり、今川氏の西の外交担当だったことがわかりました。だからこそ三河の松平氏との婚姻政策を兼ねて家康に娘を嫁がせたのでしょう。しかし、桶狭間の戦いによって関口氏の運命は大きく変わり、今川家とともに没落していった感は否めません。このため、家康も生き残った子孫には役職を与えて無下にはできなかったのではないでしょうか。晩年を駿府で過ごした家康は駿府時代(今川人質時代)を懐かしく思う部分もあったのでしょう。今川氏とは決別しても築山殿のことは無下にせず、彼女の死後も新しい正室をとることはありませんでした。関口氏の子孫に役職を与えていることを考えると、もしかしたら家康も義父である氏純には申し訳なさを感じていたのかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 『雑秘説写記』(1735年)
- 大石泰史『今川氏滅亡』(2018年、角川書店)
- 黒田基樹『家康の正妻 築山殿: 悲劇の生涯をたどる』(2022年、平凡社)
- 橋本博『大武鑑』(1965年)
- 堀田正敦『寛政重脩諸家譜 第7巻』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 菊川市教育委員会 初代静岡県知事 関口隆吉
- 東京文化財研究所 新村出 日本美術年鑑所載物故者記事
- 朝日新聞DIGITAL 関口氏純替地証文
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄