今川義元を再評価…信長に敗れた「公家かぶれの愚将」のイメージを覆す、海道一の弓取りの実像とは?
- 2026/02/13
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戦国武将・今川義元(いまがわ よしもと)と聞いて、皆さんはどのような姿を想像するでしょうか? おそらく、多くの人が「桶狭間の戦いで織田信長に油断して敗れた、白塗りの公家かぶれ」といった、マイナスイメージを抱いているかもしれません。
こうした「弱者」としての描き方は、後世の創作やメディアによる演出の影響が多分にあります。実際、義元が具体的にどのような生涯を歩み、どれほどの偉業を成し遂げたのかを詳しく知る機会は意外と少ないものです。
また、近年の歴史研究において、義元の評価は劇的に塗り替えられています。彼が好んだ公家文化や装束は、単なる趣味ではなく、強大な権威を示すための「高度な政治戦略」であったことが判明しているのです。
本記事では、単なる信長の引き立て役ではない、「海道一の弓取り」と謳われた類まれなる名将としての義元をわかりやすく解説します。
こうした「弱者」としての描き方は、後世の創作やメディアによる演出の影響が多分にあります。実際、義元が具体的にどのような生涯を歩み、どれほどの偉業を成し遂げたのかを詳しく知る機会は意外と少ないものです。
また、近年の歴史研究において、義元の評価は劇的に塗り替えられています。彼が好んだ公家文化や装束は、単なる趣味ではなく、強大な権威を示すための「高度な政治戦略」であったことが判明しているのです。
本記事では、単なる信長の引き立て役ではない、「海道一の弓取り」と謳われた類まれなる名将としての義元をわかりやすく解説します。
そもそも義元って何したの?
今川の最大版図を築く
義元の最大の功績は、駿河(静岡県中部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)の三か国を支配下に置き、戦国今川氏の最大版図を築き上げたことです。当時、三か国以上を実効支配した戦国大名は、織田・豊臣・徳川・武田・北条・毛利など、歴史に名を刻む錚々たる面々に限られます。義元はこのトップクラスの強豪たちと肩を並べる存在でした。彼が「海道一の弓取り」(東海道で最強の武将)と称されたのは、決して誇張ではなかったのです。
ちなみに「海道」は東海道を指し、「弓取り」は武将を示します。つまり「海道一の弓取り」とは "東海道で一番の武将" という意味です。
義元は家督を継承すると、宿敵であった甲斐の武田氏と和睦して婚姻同盟を締結。その後、関東の雄・北条氏との8年に及ぶ抗争を耐え抜き、西へは織田氏を圧倒して三河を制圧。最終的には「今川・武田・北条」という東国三大勢力による対等な同盟関係(三国同盟)を構築しました。この頃の今川家の国力は、あの武田信玄や北条氏康と概ね対等だったと言われています。
先進的な領国経営
また、義元は軍事だけでなく「内政」においても優れた手腕を発揮しました。特筆すべきは、土地の生産力を把握する「検地」の徹底です。父・氏親の代から行われていた検地ですが、歴代当主の中で最も精力的にこれを行い、強固な財政基盤を築きました。
さらに、父が制定した分国法『今川仮名目録』に追加法を加え、法による支配を強化。こうした義元の統治能力は、現代の歴史研究家からも「戦国大名としての完成形の一つ」として高く評価されています。
義元の生い立ち
今川家は、室町幕府の将軍家である足利氏の一門であり、「足利の家督が絶えたときは今川が継ぐ」と言われるほどの超名門です。義元は永正16年(1519)、当主・今川氏親の五男としてこの誇り高き血筋に生を受けました。幼名は方菊丸といいます。五男という立場上、本来であれば家督を継ぐ可能性は極めて低いものでした。そのため、父・氏親は方菊丸に高度な教養を身につけさせ、宗教・学問の世界で家を支えさせようと考えます。
わずか3~4歳で出家した彼は、今川家の重臣出身であり、天才的な知略を持つ僧・太原雪斎(たいげん せっさい)に預けられたといいます。名を栴岳承芳(せんがくしょうほう)と改め、雪斎と共に京都の建仁寺や妙心寺で修行に励みます。
この京都での生活が、義元の人生に大きな影響を与えました。彼は厳しい禅の修行だけでなく、京の公家や文化人、一流の知識人たちと交流し、最高峰の政治感覚と文化素養を吸収していきました。義元が後に「公家風の文化」を好んだのは、単なる虚栄心ではなく、一流の教養を身につけた「文化大名」としてのアイデンティティだったのです。
この時期に培われた雪斎との師弟の絆、そして京での人脈は、後に彼が戦国大名として飛躍する際の大きな武器となりました。
今川家の家督争い
学問の道に生きていた承芳に、突如として運命の転換期が訪れます。天文5年(1536)、当主であった長兄・氏輝と、次兄・彦五郎が同じ日に謎の急死を遂げるという、不可解な事件が起きたのです。偶然にもこの頃の雪斎と承芳は、前年に今川氏と武田氏が不和となったことを理由に氏輝から帰国要請を受けて駿河へ戻っていました。このため、承芳に家督継承権が巡ってきたといいます。
家中をまとめる母・寿桂尼(じゅけいに)や師の雪斎は、承芳を還俗させ、12代将軍・足利義晴から「義」の字を賜り「義元」と名乗らせて家督を継がせようと画策します。しかし、これに猛反発したのが有力家臣の福島氏でした。彼らは義元の異母兄である玄広恵探(げんこう えたん)を擁立。ここに、今川家を二分するお家騒動「花倉の乱」が勃発します。
一時は今川館を襲撃されるほどの危機に陥った義元側ですが、雪斎の外交工作により後北条氏を味方につけることに成功。形勢を逆転させると、恵探が立てこもる花倉城を陥落させ、ついに義元は異母兄を自害に追い込んで当主の座を勝ち取りました。
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外交方針の転換
当主となった義元は、これまでの今川家の外交戦略を根底から覆します。軍師・太原雪斎の進言により、長年敵対していた武田信虎(信玄の父)の娘・定恵院を正室に迎え、武田と同盟を結んだのです。しかし、この方針転換は旧来の同盟者だった北条氏を怒らせることになります。天文6年(1537)、北条氏綱はすぐさま駿河へ侵攻し、義元は領国東部の「河東」と呼ばれる地域を奪われてしまいました。
ここから北条との泥沼の長期戦(河東一乱)となり、ようやく決着がついたのは天文14年(1545)。義元は北条を挟み撃ちにするため、関東山内上杉氏の上杉憲政と同盟。さらに武田信玄の協力も得て、大規模な反攻作戦を展開します。
やがて関東攻めの山内上杉軍が、扇谷上杉氏や古河公方の足利晴氏らとも連合し、8万もの大軍となって河越城を包囲。この窮地に北条氏康は武田晴信(のちの信玄)に仲介を頼み、河東の地を今川氏に返還するという条件で和睦。義元は戦わずして失地回復を成し遂げました。
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三河国を巡る戦い
東の北条との「河東一乱」に区切りをつけた義元は、いよいよ西への拡張、すなわち三河国(愛知県東部)の制圧に専念するようになります。当時の三河は、徳川家康の祖父や父が治める松平氏の本拠地でしたが、一族内の内紛や周辺勢力の圧力を受け、既に今川家の庇護下に置かれるほどに弱体化していました。そこへ牙を向いたのが、尾張(愛知県西部)の「尾張の虎」こと織田信秀(信長の父)です。
天文9年(1540)、織田信秀によって三河の要衝・安祥城が奪われると、危機感を抱いた義元は、松平氏を保護するという名目で軍をたびたび派遣し、三河国は争奪戦の舞台となります。つまり、今川家は前述の河東一乱と並行して三河国への進出も果たしていたということです。
三河支配を盤石にするため、義元は軍事行動とともに、高度な外交・情報戦も展開していました。
天文16年(1547)、松平当主・松平広忠が織田方の攻撃に耐えかねて、今川に援助を求めてきた際、義元は条件として、広忠嫡男の竹千代(後の徳川家康)を人質として駿府へ送ることを約束させているのです。
ただし、竹千代が実際に駿府に来るのは2年後になります。というのも、護送を任された田原城主・戸田康光が裏切り、竹千代を敵方の織田氏へ売り飛ばすという事件が発生するからです。これに激怒した義元は、即座に軍を動かして裏切り者の戸田氏を滅ぼすという苛烈な一面を見せました。
天文17年(1548)には太原雪斎を大将とした今川軍が、侵攻してきた織田軍と「第二次小豆坂の戦い」で激突。この戦いで、義元が鍛え上げた今川の軍勢は、勇猛で知られる織田軍を圧倒。この勝利によって「海道一の弓取り」としての武名を近隣諸国に知らしめました。
そして翌天文18年(1549)に松平広忠が急死すると、義元は間髪入れずに岡崎城へ軍を送り、これを接収します。当主不在となった松平一族を直接支配下に組み込み、三河国衆を自軍の先鋒として組織化しました。この義元の素早い行動の理由は、後継ぎの竹千代が織田方に捕えられていて、松平氏が織田方に寝返る恐れがあったためです。
その後すぐに、雪斎が織田信広の守備する安祥城に攻め込み、同年11月に攻略。信広を捕らえると、義元はすぐさま「信広と竹千代の交換」を提案。この巧妙な人質交換によって竹千代を奪還し、駿府での保護(監視)下に置くことに成功します。
このように義元は松平氏の従属化と安祥城の攻略により、三河国をほぼ掌握するに至ったのです。
内政・外交面を強化
勢力圏を広げた義元が次に取り組んだのは、恒久的な平和と支配の安定でした。まずは外交面ですが、天文19年(1550)に義元夫人が亡くなり、武田との姻戚関係が一時断たれることになると、義元は天文22年(1552)11月に娘の嶺松院を武田義信(信玄の嫡男)に嫁がせることでその同盟関係を保ちます。なお、同年には北条氏康の嫡男・氏政と武田信玄の娘・黄梅院が婚約しています。
さらに今川もこれに倣うようにして、天文23年(1554)には雪斎の尽力で嫡子・今川氏真と氏康の娘・早川殿を縁組しています。
この結果、今川・武田・北条の三家が互いに婚姻を結ぶ「甲相駿三国同盟」が成立。これにより背後の憂いが完全に消えた義元は、軍事面で完全に西側(尾張や美濃)に専念できることになりました。
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一方、内政面では天文10年~弘治3年(1541~57)にかけて、毎年のように検地を繰り返すなど、今川氏の財政基盤を確固たるものとしていきました。
また、天文22年(1553)には父氏親が制定した分国法『今川仮名目録』に追加法(『仮名目録追加21条』)を加えています。ここでは室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府との間に残されていた関係を完全に断ち切っています。つまり、幕府の権威で国を統治しているのではなく、自力で統治していることを宣言したということです。
義元の晩年と桶狭間での最期
三国同盟を成立させた義元は、永禄元年(1558)には氏真に家督を譲っています。以後、今川氏の発給文書をみると、本国の駿河国では今川氏真署名の文書となっており、義元の発給文書は遠江と三河に集中していることがわかります。この頃、義元は次なるターゲットである尾張国の攻略を見据え、新領地の三河国の鎮圧と領地経営に力を注いでいました。 そして永禄3年(1560)5月、満を持して2万とも言われる大軍を率い、尾張へと進軍を開始しました。「桶狭間の戦い」です。
尾張国へと進軍した義元は、決戦の日に一斉攻撃を開始します。緒戦は今川方の圧倒的優位に進み、織田方の防衛線を次々と突破。5月19日には桶狭間にて休息をとり、戦勝気分に浸っていました。
しかし、ここで運命の暗転が起こります。昼過ぎには視界を遮るほどの猛烈な豪雨。その雨が上がった直後、信長率いる精鋭部隊が義元の本隊を強襲したのです。大混乱に陥る中、義元は輿を捨てて退却しますが、信長の馬廻衆に追い付かれ、ついには織田の家臣・毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られてしまったといいます。
あまりにも劇的な、そして予想だにしない名将の最期でした。
まとめ
戦後の今川家は嫡男・今川氏真が後を継ぎますが、桶狭間での敗戦をきっかけに弱体化が徐々に進み、最後には同盟国の武田信玄にも裏切られ、すべての所領を失ってしまいます。義元が「愚将」というネガティブイメージで現代に伝わってしまったのは、桶狭間での討死と、信長・家康という天下統一へ導いた2人を敵に回したゆえのことでしょう。しかし、実際は誰よりも早く近代的な国家経営を目指した先駆者でした。
義元が築き上げた統治システムや三河・遠江の安定があったからこそ、後の家康による天下泰平の礎も築かれたと言えるのではないでしょうか。






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