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  • 今川義元
 2019/10/20

【入門】5分でわかる今川義元

今川義元イラスト

戦国武将の今川義元といえば、どのようなイメージを思い浮かべますでしょうか?桶狭間で織田信長にあっけなく敗れた "弱者"というマイナスのイメージが強いのではないでしょうか。

その背景にはテレビや映画等のメディアの影響があるようですね。そもそも義元の歴史を詳しく知っている、という方は少ないようにも思えます。

本記事では弱者義元というマイナスイメージだけではない、「海道一の弓取り」とも称された名将としての義元にもスポットライトをあてて、その生涯をわかりやすく解説していきます。
(文=戦ヒス編集部)

そもそも義元って何したの?

今川の最大版図を築く

義元の偉業としてまずあげていいのは、東海3か国(駿河・遠江・三河)を支配し、戦国今川氏の最大版図を築いたということでしょう。

義元の三河国掌握時の勢力図(1549年頃)
義元の三河国掌握時の勢力図(1549年頃)

3か国以上を支配したことがある戦国大名となると、実はかなり限定されます。
伊達・織田・豊臣・徳川・武田・北条・三好・長宗我部・尼子・毛利・大内・大友・島津・・・、その他にもいそうですが、数えられるくらいしかいません。これこそが「海道一の弓取り」と称された所以です。

「海道」は東海道を指し、「弓取り」は武将を示します。つまり「海道一の弓取り」とはは "東海道で一番の武将" という意味になります。

義元は当主に就いてまもなく、武田氏と婚姻同盟を結びました。これがきっかけで関東の北条氏が攻め込んできて8年間ほど争いましたが、最終的に自領の駿河国を守り抜いています。

その後、西の三河国の覇権をめぐって尾張の織田氏と戦い、これに勝利して三河国を制圧します。やがて再び北条氏と同盟を結んで「今川=武田=北条」の3氏が対等な同盟関係を構築。しかも、今川の領国とその兵力は、あの武田信玄北条氏康と概ね対等だったとも言われているんです。

領国経営

次に、地味だけど見逃せないのが義元の積極的な領国経営でしょう。

今川氏の検地は父・今川氏親の代から行なわれていました。「検地」といえば領国支配の基本ですが、実は歴代当主の中で義元が最も多く検地をこなしています。

この他、父が制定した分国法に追加する形で「かな目録追加」も制定しました。実際、義元のこうした領国経営は歴史研究家からも評価されているのです。

いかがですか?実はそんなに愚将ではない事がわかってきたのではないでしょうか。

…ということで、次節から義元の生涯を具体的にみていきたいと思います!

義元の生い立ち

今川氏といえば将軍足利一門の分家という名家中の名家です。将軍家を支え、またバックアップとして足利家の世継ぎが絶えたときに将軍継承順位に名を連ねるほどの家柄であったといわれています。

そんな今川家において永正16(1519)年、義元は当主・今川氏親の五男として誕生しました。幼名は方菊丸です。

このとき今川家は既に跡継ぎとして長兄の氏輝がいたので、父氏親は義元を仏門に入れて修行をさせ、学問を身につけさせようと考え、義元が3、4歳のときに駿河国善徳寺に出家して今川氏重臣出身の僧・太原雪斎に預けられたといいます。

そして栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称してのちに雪斎と共に京都に上って指導を受け、学識を深めていくという幼少期を過ごしていきました。なお、この修行中には歌会などを通じて京都の公家や文化人とも深く交わっています。

今川家の家督争い

こうした中、天文5年(1536年)になんとも不可解な出来事が起きます。当主の長兄・氏輝と、継承権のある次兄・彦五郎の2人が同日に死亡したのです。しかも死因は謎らしいです。

偶然にもこの頃の雪斎と承芳は、前年に今川氏と武田氏が不和となったことを理由に氏輝から帰国要請を受けて駿河へ戻っていました。このため承芳に家督継承権が巡ってきたといいます。

家中での影響力が強かった母の寿桂尼や雪斎は、承芳を後継者にしようと還俗させて室町幕府第12代将軍・足利義晴より偏諱を賜り、"義元"と名乗らせますが、有力家臣の福島(くしま)氏がこれに反対。最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探(げんこう えたん)を擁立して対抗してきました。

女戦国大名の異名をもつ寿桂尼
女戦国大名の異名をもつ寿桂尼。雪斎とともに当主義元の誕生をサポートした。

これに母寿桂尼が恵探派と面会をして説得を試みるも失敗となり、恵探派はついに挙兵して駿河府中の今川館を襲撃。ここに今川氏のお家騒動がはじまります。(花倉の乱)

この争いで義元側は奮戦し、恵探側も方ノ上城や花倉城を拠点として抵抗します。しかし、義元側に後北条氏が加勢したことで形勢は義元側に一気にかたむき、家臣・岡部親綱(おかべ ちかつな)が方ノ上城を陥落させると、ついで恵探が籠城する花倉城もいっせいに攻め立てて陥落。最終的に恵探を自害に追い込んでいます。

こうして当主・今川義元が誕生し、僧としてともに修行を積んだ太原雪斎が重用されることになるのです。

外交方針の転換

新体制となった今川氏は軍師・太原雪斎の手引きで外交方針の大きな転換を行ないました。

義元は天文6(1537)年に甲斐・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎えることで武田氏と同盟を締結、しかし、これまで長きにわたって同盟関係にあった北条氏とは手切れとなり、北条氏綱はまもなく駿河国へ攻め込んでくることになります。

河東一乱

北条方による侵攻により、義元は駿河国の河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまいます。これにより、河東付近で今川と北条による長期の戦いが続き、ようやく決着がついたのは天文14(1545)年でした。

同年、河東を奪還すべく義元は北条氏と敵対する山内上杉氏の上杉憲政と同盟を締結し、北条氏を挟み撃ちにする策を立てます。そして同盟国の武田氏にも出陣を要請して侵攻を開始。つまり、駿河国=今川・武田連合軍、関東=上杉憲政軍という形で同時に軍事行動に出たのです。

関東攻めの山内上杉軍は、扇谷上杉氏や古河公方の足利晴氏らとも連合し、8万もの大軍となって河越城を包囲。この窮地に立った氏康は武田晴信(のちの信玄)に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川氏に返還するという条件で和睦し、ようやく河東一乱が終結するに至りました。

三河国を巡る戦い

一方で義元は河東一乱と並行して三河国への進出もしています。

三河国は元々、松平家がほぼ支配していましたが、一族の内訌などを経て、このころは既に今川家の庇護下に置かれるほど弱体化していました。

尾張・織田氏との戦い

天文9(1540)年には尾張の織田信秀(=信長の父)によって松平氏の支城・安祥城(現愛知県安城市)が奪われてしまいます。

これに危機感を抱いた義元はたびたび三河に兵を出しており、安祥城付近を舞台に「織田氏 vs 松平・今川連合」という構図で抗争が繰り広げられたのです。

こうした中、前述したように天文14(1545)年には今川と北条の戦いが終結したことで、三河国の制圧に専念できるようになります。

天文16(1547)年には岡崎城を居城とする松平当主・松平広忠(=家康の父)が織田方の攻撃に耐えかね、義元に援助を求めてきましたが、義元は代わりに広忠の嫡男竹千代(のちの徳川家康)を人質として差し出すよう約束を取り交わしました。

しかし、ここでトラブルが…。竹千代は岡崎から駿府へ送られることになるはずでしたが、義元から竹千代の護送の命を受けた戸田康光が護送途中で裏切り、敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こります。

これは前年に義元が戸田一族の戸田宣成・吉光を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたというものでした。これに激怒した義元はまもなく康光を攻め滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れています。

天文17(1548)年には再び三河国内で侵攻してきた織田軍を迎え討つため、雪斎や朝比奈泰能らを大将として派遣。安祥城の東の小豆坂という地で両軍激突となりましたが、このときは最終的に今川軍は織田軍に大勝しています。(第二次小豆坂の戦い)

天文18(1549)年には突如、松平当主の広忠が死去。このため当主不在となった岡崎城の松平氏は織田方に寝返る恐れがありました。というのも、後継ぎの竹千代は織田方に捕えられており、さらに西三河の岡崎城はすぐ隣が織田の領地だったからです。

しかし、この危機を察知した義元の動きは早いものでした。まもなく、太原雪斎ら率いる軍勢を岡崎へ向かわせて同城を接収、事実上松平一族とその配下の三河国人らを従属下に収めます。さらには続けて織田信広の守備する安祥城を雪斎に攻めさせて、同年11月にはこれを奪取。敵将の信広を捕えたことで人質交換による竹千代の奪還も果たしたのです。

笠寺観音にある竹千代と織田信広の人質交換の地の石碑
笠寺観音にある竹千代と織田信広の人質交換の地の石碑(出所:ニッポン旅マガジン

このように義元は松平氏の従属化と安祥城の攻略により、三河国をほぼ掌握するに至りました。

内政・外交面を強化

天文19(1550)年になると義元夫人が亡くなり、武田と姻戚関係が一時断たれることに。このため、義元は天文22(1552)年11月に娘の嶺松院を武田義信(信玄の嫡男)に嫁がせることでその同盟関係を保ちました。

甲相駿三国同盟の略系図
甲相駿三国同盟の略系図

さらに同年には北条氏康の嫡男・氏政と武田信玄の娘・黄梅院が婚約をしましたが、今川もこれに倣うように翌天文23(1554)年に太原雪斎の尽力で嫡子・今川氏真と氏康の娘・早川殿を縁組しています。

この結果、今川・武田・北条の三者が互いに婚姻関係となったため、ここにいわゆる甲相駿三国同盟が成立したのです。

一方で内政面においては、天文10-弘治3(1541-57)年に毎年のように検地を繰り返す等、今川氏の財政基盤を確固たるものとしていきました。 また、天文22(1553)年には「今川仮名目録追加」という分国法を公布。ここにおいて室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府との間に残されていた関係を完全に断ち切っています。

晩年と桶狭間での死

家督を譲る

三国同盟を成立させた義元は翌永禄元(1558)年には氏真に家督を譲っています。以後、今川氏の発給文書をみると、本国の駿河国では今川氏真署名の文書となっており、義元の発給文書は遠江と三河に集中していることがわかります。

義元はこのころには次なるターゲットである尾張国の攻略を見据え、新領地の三河国の鎮圧と領地経営に力を注いでいました。順調に領国経営と勢力拡大をしていましたが、やがて思わぬ戦いに直面することになります。それがあの「桶狭間の戦い」です。

この頃の織田氏は織田信長の代となり、信長はほぼ尾張を統一していました。一方で東部方面が安定したとみた義元は、永禄3(1560)年5月に西へ進軍を開始。尾張国まで侵入します。

今川行軍と桶狭間合戦マップ。色塗部分は尾張国

尾張に入った義元は決戦の日に一斉攻撃を開始します。織田氏の防衛線である丸根砦や鷲津砦を攻略した後の正午頃には桶狭間に陣を敷いており、戦勝気分に浸っていました。しかし、まもなくして状況は一変します。

13時頃になると視界を妨げるほどの豪雨が降りはじめ、これに乗じて織田軍は兵を動かし、雨が止んだ直後の14時頃に義元の本隊に奇襲をかけてきたのです。

今川軍の総勢は2万人であったとされますが、義元を守る兵力は5,000~6,000人に過ぎず、このときに双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となったといいます。

そして義元はついに輿を捨ててわずか300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしますが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、信長の馬廻に追いつかれてしまうのです。

服部一忠を返り討ちにする気力を見せますが、最期は毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られてしまったといいます。

まとめ

このあとの今川家は嫡男の今川氏真が後を継ぎますが、桶狭間での敗戦が響いて松平元康(=家康のこと)をはじめとする、家臣らの離反が相次いで弱体化。終いには同盟国の武田信玄にも裏切られて、すべての所領を失ってしまうのです。

かつては北条や織田家と互角以上にわたり合い、家康を人質にして今川家の最大版図も築きあげた義元。彼が「愚将」というネガティブイメージで現代に伝わってしまったのは、信長・家康という天下統一へ導いた2人を敵に回した代償ともいえそうです。


【参考文献】
  • 小島 広次『日本の武将31 今川義元』(人物往来社、1966年)
  • 小和田 哲男『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
  • 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年)



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