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  • 上杉謙信
 2019/03/11

上杉謙信に子孫は?長尾上杉家のその後について。

上杉謙信と歴代米沢藩主を祀る国指定史跡「米沢藩主上杉家廟所」
上杉謙信と歴代米沢藩主を祀る国指定史跡「米沢藩主上杉家廟所」

上杉謙信という武将は生涯不犯の誓いを立てていたことがよく知られているように、生涯にわたって妻帯を良しとしませんでした。そのため謙信に実子はおらず、養子が長尾上杉家を継いでいくことになりました。

しかし、謙信が突然死したことにより後継者の序列があいまいになっていたことで、上杉景勝と上杉景虎による家督争い「御館の乱」が勃発し、長尾上杉家の勢力を大きく衰退させる結果となってしまいます。この争いはいくつもの悲劇的局面を迎えた末、景勝の勝利で幕を閉じました。

その後、景勝を後継者として戦国時代を終え、米沢藩の大名として江戸時代を迎えることになりました。関ヶ原の戦いで徳川方に敵対したことから30万石に減封されていることからもわかるように、上杉家は江戸時代を通じて冷遇され、時代を下るごとに勢力を縮小していくことになります。

この記事では、そうした謙信以後の米沢藩主・長尾上杉氏の動向に注目し、江戸時代以降の上杉氏について検証していきます。
(文=とーじん)

非常に多くの分家筋をもつ名門・上杉氏

上杉氏は戦国大名の中でもトップクラスの名家筋であり、その出自は摂関家の藤原氏までさかのぼることができます。室町期にも主に関東で勢力を維持し続けましたが、その後は後北条氏の勢力拡大に伴い関東を放棄し、家臣筋の越後長尾氏に山内上杉氏の名跡と関東管領の職を譲りました。ここから、我々の良く知る長尾上杉氏の歴史が始まります。

このように、上杉には非常に多くの分家が存在します。ただ、ここでは先ほども触れたように長尾上杉氏の米沢藩主としての姿に注目していくため、他の上杉家については扱いません。

歴代米沢藩主としての上杉氏

さて、ここからは初代米沢藩主景勝から、現上杉家当主邦憲までの歩みをみていきます。なお、上杉家としては初代を謙信とするのが一般的ですが、米沢藩主としては初代を景勝とするのが一般的なので、ここでは後者に基づいています。

初代景勝(1556~1623)

謙信に養子として迎えられた景勝は御館の乱に勝利したことで上杉家の後継者となりましたが、騒乱続きのため領内はかなり疲弊していたとされています。転機となったのは、豊臣政権下で重用されたことでした。最終的に五大老と称され、一時は会津120万石の大大名にまで上り詰めました。ところが、関ヶ原の戦いに敗れたことで米沢30万石に減封され、晩年は藩政の確立に注力することになったとされています。

二代定勝(1604~1645)

景勝の長男として誕生した定勝は、生後間もなく母が亡くなったことで直江兼続夫婦によって養育されました。そして、元和9年(1623)に景勝が急死したことをうけ、家督を相続しました。藩政の特徴としては、総検地や支配体制の確立につとめ、藩直属の支配体制を構築しました。また、キリシタン狩りにも積極的であったとされています。人物としては、質素倹約や礼節を重んじることを掲げた大名としても知られています。

三代綱勝(1639~1664)

正保2年(1639)に定勝が亡くなったことで藩主となりましたが、綱勝の在任中に藩政は悪化の一途を辿ることになります。これは、江戸城石垣の普請工事を命じられたことも原因とされています。そのため、貢租制度の整備を推進し、財政の改善を目指しました。しかしながら、かねてより病弱であった綱勝は寛文4年(1664)に後継ぎがなく、さらに後継者の氏名もしない状態で急死してしまいました。

四代綱憲(1663~1704)

綱勝が後継を残さずに亡くなったため、上杉家は改易の危機に瀕していました。しかしながら、保科正之の計らいもあり、生まれたばかりの綱憲を末期養子という扱いで後継に据えることで改易を逃れました。ただし、その代償として15万石に減封されたため、米沢藩は恒常的な財政難に悩まされるようになりました。加えて文化的資産への過剰な投資もあり、彼の治世で藩政はかなり悪化したとされています。しかし、藩学振興や歴史編纂といった文治政治は後世でも評価されており、彼によって創設された学問所は後に興譲館という形で整備されることになります。

五代吉憲(1684~1722)

元禄16年(1703)に綱憲の隠居を受け、家督を相続しました。家督相続後すぐに江戸城の普請工事を命じられ、かねてより厳しかった財政はさらに困窮していくことになりました。吉憲治世下でも有効な解決策を見出すことはできず、参勤交代の費用も満足に捻出できないほどだったといわれています。

六代宗憲(1714~1734)

享保7年(1722)に吉憲の死によって家督を相続しました。享保18年にはかねてより財政を苦しめてきた普請工事に直面し、財政を立て直すことは叶いませんでした。こうして財政難に苦しめられるさなか、享保19年(1734)に病に倒れ、わずか22歳でこの世を去ることになりました。

七代宗房(1718~1746)

宗憲の早逝により、末期養子として家督を相続しました。彼の在任中には財政難だけでなく、年貢の未納なども深刻な問題となりました。そのため、未納分の延期許可や倹約令などで財政の改善を図りましたが、あまり効果が上がらなかったとされています。

八代重定(1720~1798)

宗房も嗣子を残さず亡くなったため、四男ながら延喜3年(1746)に家督を相続しました。減封が相次ぎ、さらには幕府の工事に駆り出されていたため、財政状況は最悪と言っても過言ではありませんでした。凶作も相まって打ちこわしが発生し、さらに藩政の苦しさから青苧騒動という粛清騒ぎが勃発するなど、危機的状況に瀕してしまいました。

九代治憲(膺山)(1751~1822)

危機的状況にあった米沢藩を立て直した、江戸時代屈指の名君との呼び名も高いのが治憲です。治憲は深刻な藩政を立て直すべく、積極的に民政家を登用するという大胆な策に出ました。他藩では天明の大飢饉によって餓死者が多発していましたが、徹底した質素倹約と非常食の普及などでこの危機を乗り切りました。また、先ほども触れた興譲館を復興させ、藩士・農民問わず学問を学ばせるという功績もありました。

十代治広(1764~1822)

天明5年(1785)に治憲が鷹山と称して隠居したことをうけ、家督を相続しました。ただ、政治の実権は依然として鷹山が握っていたとされ、彼独自の政策はほとんどなかったとされています。実質的には鷹山の改革でしたが、政治そのものは着実に成果を上げ、藩政の改革は人口の増加という結果をみることになります。

十一代斉定(1788~1839)

文化9年(1812)に治広の死去に伴い、家督を相続しました。鷹山の政治改革によって藩政は大きく改善されており、それまで蓄積していた借財も償還されていました。こうした背景もあり、斉定は藩政基盤を確立させることに成功しました。天保の飢饉に際しても、鷹山の教えを教訓として餓死者を出さなかったといわれています。

十二代斉憲(1820~1889)

天保10年(1839)に斉定の死去に伴い、家督を相続しました。藩政改革に努め、特に洋式訓練などを取り入れたことも影響して大きな成功を収めました。その甲斐もあって3万石の加増を受けており、減封される一方だった米沢藩では名君として称えられました。しかし、戊辰戦争に際しては奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍に敗れ、やむなく新政府側に寝返るという立ち回りに終始しました。

ここまでが、歴代米沢藩主としての上杉氏です。その後は、政治家として活躍した十三代茂憲や、現当主で宇宙工学の権威としても知られる邦憲がおり、上杉の血は現代でも脈々と生き続けています。


【主な参考文献】
  • 小関悠一郎『上杉鷹山と米沢』(吉川弘文館、2016年)
  • 藩政史研究会編『藩政成立史の綜合研究:米沢藩』(吉川弘文館、1983年)
【参考HP】
  • 「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」、講談社、2015年。




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