「日明貿易、日朝貿易、勘合貿易」とは? それぞれの特徴、違いがスッキリ分かる!
- 2023/12/21
”勘合” という合い札が使われた「勘合貿易」として認識している方も多いかと思います。幕府は大きな利益を上げ、書画や工芸品なども輸入され、室町時代の文化に大きな影響をもたらしています。また、室町幕府はこの時代、明と同じころに建国された李氏朝鮮とも交易しました。
「日明貿易」「日朝貿易」「勘合貿易」をそれぞれ分かりやすく解説していきます。
日明貿易=勘合貿易か?
室町時代の15~16世紀、室町幕府は建国したばかりの中国の王朝・明や李氏朝鮮などと国交を開き、交易します。外交使節を送り、互いの国の品々を交換しました。日明貿易は応永11年(1404)から天文18年(1549)まで19回、日本から明に使者を送って取引された貿易です。「勘合貿易」とも呼ばれます。明に向かう使節団は ”勘合” が必要不可欠だったためです。
ですので「日明貿易」イコール「勘合貿易」で、基本的には問題ありません。厳密にはやや細かい論点もあるので後ほど説明します。
割符式ビザ「勘合」
”勘合” とは、割符式の渡航査証です。使節の身分証明書、外交官ビザのようなものです。”勘合符” とも呼ばれますが、正しくは ”勘合” です。この勘合を明が外交関係のある国に発行し、使節に携帯させました。割符式というと、木札のようなものを想像するかもしれませんが、日明貿易の勘合は紙製です。2枚の紙をずらして重ね、またがるように割印、墨書し、日本側と明側が片方ずつを持ち、渡航の際にそれを合わせて正式の使節かどうかの確認をします。
具体的には、一方が使節携帯の ”勘合”、もう一方は照合するための ”底簿”です。日明貿易では「日」と「本」の文字が縦に分かれるように勘合と底簿を作ります。
日本の使節確認用が本字勘合と本字底簿、明の使節用が日字勘合と日字底簿ですが、日明貿易は日本の使節が明に渡航する形で進み、使われたのはもっぱら本字勘合と本字底簿です。
勘合は表面に「本字壹號」の文字の縦半分があります。「壹」は漢数字の「壱」(1)。同じように100枚目まで1~100号の漢数字が振られていたようですが、現物は残っていません。遣明船1隻に勘合1枚が必要で、これを明の寧波(ニンポー)と北京で照合します。寧波は現在の中国・浙江省の港湾都市です。
明の皇帝の代替わりで新しい勘合が交付され、余った勘合は返却しました。
勘合が使われた背景とは?
勘合が使われたのは、渡航した者が正式な外交使節かどうかを確認するためです。明は外交官としか交易しないという政策をとり、民間の商人による貿易や中国人が勝手に海外に渡ることを禁止しました。これを「海禁政策」といいます。
なぜ、海禁政策をとったかといえば、倭寇の取り締まりのためです。倭寇は海賊であり、密貿易集団。13~16世紀、朝鮮半島、中国沿岸部で活発に活動しました。前期倭寇(14世紀前後)と後期倭寇(16世紀ごろ)に分けられます。
倭寇は「日本の海賊」という意味ですが、実際には日本人ばかりではありません。海賊といっても、略奪行為だけでなく密貿易をする武装海商でもあります。中には日本人が交じっていない倭寇もいました。
明を建国した初代皇帝・洪武帝は日本に使者を派遣して倭寇の取り締まりを要請します。一方で倭寇に力をつけさせないため私的な貿易を制限する海禁政策をとったのです。
朝貢を求める明の外交政策
また、明が正式な使節以外を貿易から締め出したのは朝貢外交を基本にしていたからです。これは中国・漢民族の中華思想が関係しています。過去の漢民族の王朝同様、明は中国大陸の中央を支配する漢民族国家が世界の中心で、周辺の国は劣等な国として見下します。そのため、周辺国の王には中国の皇帝に臣下の礼をとり、貢物(みつぎもの)を献上する「朝貢」を求め、朝貢してきた国の王に対し、属国としてその立場を認めます。
これを「冊封(さくほう)」といいます。
そして、朝貢してきた国に返礼品を贈ります。明は上位の立場を示し、国力を誇示する必要もあって、献上品をはるかに上回る返礼品を贈ります。対等な関係での外交、貿易ではなく、現在の国家間の外交とはまったく違います。
また、国家を離れた立場の商人の取引を禁止し、国家の使節、外交官が貿易をする官製貿易である点も日明貿易の特徴です。これも現代の感覚とは随分違うものです。
勘合貿易は、日明に限った話ではない
さて、「日明貿易」イコール「勘合貿易」か、という問題です。専門的には、勘合はあくまでも外交使節を確認するもので、直接、貿易で使用するものではないので「勘合貿易」という言い方は適切でないという意見があります。理屈としてはその通りですが、日明貿易の特徴を捉えた言い方として「勘合貿易」という理解で基本的に問題ないと思います。
なお、明は勘合を日本だけに交付したわけではなく、東アジアの周辺諸国にも勘合を交付しています。朝貢外交歴が長く、信用度の高い朝鮮、琉球を除き、勘合で使節の往来を管理しました。ですから、明側の視点でいえば、例えばシャム(タイ)との貿易も勘合貿易です。
日本史の問題で考えるなら、「日明貿易は勘合貿易」でいいのですが、「日明貿易だけが勘合貿易ではない」ともいえます。
日明貿易のキーパーソンは足利義満
日明貿易といえば、3代将軍の足利義満です。室町幕府を創設した足利尊氏の孫である義満は、父・足利義詮の跡を継ぎ、応安2年(1369)、12歳で征夷大将軍となります。洪武帝が明を建国した翌年にあたります。 康暦2年(1380)には京の北小路室町に新邸・室町第を完成させました。室町幕府の名の由来となる「花の御所」です。明徳3年(1392)には南北朝を統一。そして、有力守護大名を討伐したり、役職から解任したり、独裁色を強めていきました。
義満は早くから日明貿易に意欲を持っていましたが、一つ問題がありました。建国当初の明が倭寇の取り締まりを求める使者を九州へ送り、南朝の征西大将軍・懐良(かねよし)親王(後醍醐天皇の皇子)を「日本国王良懐」として冊封しました。
つまり、明は懐良親王を ”日本国王” と認めたのです。これが義満の足かせになります。
その後、懐良親王は幕府側の攻勢で弱体化。しかし、明は懐良親王を日本国王として冊封した既成事実があります。義満が康暦2年(1380)、「日本国征夷将軍源義満」の名で交渉を望みますが、冊封した従属国の王が外交の相手、というのが明の方針でした。将軍といえども、天皇の臣下であり、皇帝の外交相手にはならないので義満の使者は追い返されてしまいます。
やむなく義満は外交を小休止。国内での地位固めに腐心します。応永元年(1394)に将軍職を9歳の嫡男・義持に譲って太政大臣となり、翌年には太政大臣を辞任して出家します。このときの義満は38歳。出家して姿は僧侶になっても政治的野心はますます旺盛です。
応永5年(1398)には室町から京郊外の北山に立てた鹿苑寺(通称・金閣寺)に移ります。以後10年間、この別荘地が政治の中心になりました。
満を持して国交回復
応永8年(1401)、足利義満はいよいよ明に使者を送ります。義満の肩書は「日本准三后源道義」。”准三后”というのは、太皇太后・皇太后・皇后の三后に準じるとする貴族としてはかなり特別の称号です。”皇太后” は天皇の母にして皇后だった者、”太皇太后” は天皇の祖母にして皇后か皇太后だった者で、義満は永徳3年(1383)に准后の宣下(告知)を受けます。「道義」は出家した時の法名です。
ついに義満は明の建文帝(洪武帝の孫)から「日本国王源道義」として冊封されました。このとき、建文帝は叔父との抗争中で対抗上、周辺諸国を味方にしたい思惑があったようです。
日本と中国の国交回復は実に約500年ぶり。菅原道真の進言で遣唐使を廃止したのが「白紙(ハクシ、894)に戻せ遣唐使」の寛平6年(894)。その後、私的な貿易は続いていました。平清盛の日宋貿易や鎌倉幕府公認の民間貿易船・建長寺船、足利尊氏の天竜寺船貿易などです。ただ、正式な外交関係は久しく築かれていなかったのです。
建文帝は失脚しますが、帝位を奪った叔父・永楽帝もすぐ義満を日本国王に冊封。応永11年(1403)から勘合を使った貿易が始まります。
急死と貿易の中断
その後、足利義満は毎年のように遣明船を送り、貿易で大きな利益を得ます。ところが、絶頂期を迎えていた応永15年(1408)5月6日、51歳で急死。幕府の外交政策は大きく転換します。義満の死でようやく実権を握った4代将軍・足利義持は、明との貿易を中止します。父・義満への反発から、さまざまな政策の転換を図りますが、特に顕著なのが日明貿易でした。
まず、朝貢外交が貴族からは不評でした。「日本は明の属国ではない」という大義名分です。500年前に遣唐使が中止された事情にも通じます。日本では、中国の王朝の武力を背景にしても政敵への脅しになることはなく、へりくだって属国になる理由がありません。
一方で天皇を飛び越えて義満が「日本国王」を名乗ったことにも「僭越だ」という批判がありました。義満が健在のときは表立って批判する者はいませんが、義満の死によって反動が噴き出したのです。
日明貿易の仕組みと成果
日本から明に向かう遣明船は1隻に100~150人が乗り込み、その6割程度が随行の商人でした。 使節代表の正使は五山の禅僧が就き、ほかに遣明船経営者や通訳らのスタッフ、随行商人、船を動かす乗務員らが乗り込みます。日本の遣明船が入港できるのは寧波。そこから一行は北京に向かいます。滞在、移動の経費は全て明が負担します。具体的な取引は3パターンです。
- (1)朝貢と回賜の贈答
- (2)附搭物の官買
- (3)政府指定商人の購入
まず、「朝貢と回賜の贈答」は、日本からの朝貢と明からの返礼品の贈答。儀礼的な品々のやり取りです。
2つ目の「附搭物の官買」。遣明船に積んできた品を明政府が買い上げ、その代価として明の品々を受け取ります。
3つ目の「政府指定商人の購入」。官買されなかった附搭物を明政府指定の商人が買い、その代価の品を船に積んで持ち帰ります。売買は使節の宿舎「北京会同館」と税関のような貿易事務所「寧波市舶司」に限られます。初期は官買での取引が多かったのですが、次第にこの商人による取引が重要性を増していきます。
さまざまな貿易品
日明貿易では主に銅、硫黄、刀剣を輸出し、銅銭や生糸などを輸入しました。輸出品は、朝貢品では太刀、金屏風、すずり箱、メノウ、馬などがありました。さらに銅や硫黄などの鉱物、ソボクやコショウなどの南海の産物、ラッコの皮、刀剣や漆器などの工芸品を明政府や商人に購入させました。南海の産物は琉球との交易で得た品です。
輸入品は、朝貢の返礼として銅銭、高級織物などが贈られました。また、明政府や商人との取引では銅銭、生糸、絹布を中心に絹織物、薬、陶磁器、書籍、書画などを持ち帰ります。
銅を輸出して銅銭を輸入するのは二度手間にみえますが、日本では銅銭鋳造技術がまだ十分ではなかったことや中国では銅が不足していたことが背景にあります。
輸入した銅銭は永楽通宝です。江戸時代初期に国産の銅銭に取って代わられるまで長く流通し、日本の貨幣経済を発展させました。何しろ織田信長は旗印に永楽通宝をデザインしたほどで広く通用した貨幣です。
また、水墨画、陶磁器などが室町時代の文化に影響を与えました。明から輸入した高級品、工芸品が唐物(からもの)として珍重されました。
莫大な利益
日明貿易は日本側に大きな利益をもたらしました。これは朝貢という形式に関係します。献上品の価値を大きく上回る返礼品を贈るというのが明の基本姿勢。貿易収支がアンバランスで、日本側が大きく儲かる仕組みなのです。 また、「抽分銭」という一種の貿易税も幕府の収入になります。遣明船に同乗して輸入品を持ち帰った随行商人から日本での価格の1割を徴収しました。
随行商人たちは、輸出品は明の商人に高値で買い取らせ、輸入品は日本国内で高く売ることができ、抽分銭や経費を差し引いても十分利益が出ました。
断交と復活
4代将軍・足利義持のときに中断された日明貿易ですが、6代将軍・足利義教が永享5年(1433)、23年ぶりに再開します。これは父・義満にならい、経済基盤の強化、幕府権威の復興を狙ったものです。ただ、このころは守護大名の力が強くなっています。足利義教は強権的な恐怖政治を敷き、幕政を混乱させた挙句、嘉吉元年(1441)、播磨、備前、美作の守護・赤松満祐に誅殺される悲劇的な最期を遂げます。
幕府の弱体化で日明貿易は博多商人と結んだ大内氏、堺商人と結んだ細川氏といった有力守護大名が主導権を握ります。また、15世紀後半は財政的に厳しくなった明が10年に1度、3隻300人と遣明船を制限する姿勢に転じます。
大永3年(1523)には「寧波の乱」で大内氏と細川氏が争い、以降は大内氏が貿易の実権を独占。しかし、大内義隆が天文20年(1551)、家臣・陶晴賢の謀反で自害させられ、日明貿易は天文18年(1549)が最後となってしまいました。
日朝貿易
続いて日朝貿易をみていきましょう。日朝貿易は高麗の後に登場した朝鮮半島の王朝・李氏朝鮮との貿易です。始まった経緯や衰退後の影響など倭寇との関わりが深いのが特徴です。
高麗から李氏朝鮮へ
高麗は貞治6年(1367)、倭寇取り締まりを室町幕府に求めますが、2代将軍・足利義詮は「九州は管轄外」と頼りない返事でした。このころは南朝勢力が九州を制圧していたのです。そして、有力武官・李成桂がクーデターで高麗を倒し、李氏朝鮮を建国したのが明徳3年(1392)。これは日本の南北朝統一と同じ年です。
この李氏朝鮮との貿易は対馬の宗氏が仲介して国交を開いて始まります。西国の有力守護大名・大内氏や九州探題に就いた今川氏、渋川氏も関与します。日明貿易のように国の正式使節だけに限定されていないので、幕府だけでなく、守護大名や商人も独自に貿易に関わりました。その見返りとして李氏朝鮮は倭寇の取り締まりを求めました。
ニセ使節対策で牙符発給
日朝貿易では牙符(がふ)が使われました。日明貿易の勘合と同じように相手の身分確認をするものですが、朝貢外交のためのものではなく、その点が違います。
李氏朝鮮も明のように貿易を許可制とし、相手に朝貢を求めました。西国の守護大名や対馬の宗氏、博多の有力商人などが使節を送り、朝貢形式で貿易します。大内氏に贈られたという銅製の通信符が今も残っています。
しかし、室町幕府は朝貢の対象外です。通交許可を求められる立場ではなく、幕府派遣の使者は自由な貿易が認められました。ともに明に冊封されている立場として同格という意識があります。使節携帯の身分証はなく、そのうちニセ使節が登場して混乱。対策として、8代将軍・足利義政の発案で牙符を使った使節の身分確認制度が始まりました。
文明6年(1474)、李氏朝鮮から幕府に牙符が発給されます。牙符は文字を刻んだ象牙を分割したもので、幕府と朝鮮側が保管。渡航の際、使節が携行し、つき合わせて確認します。
牙符制は当初、効果を発揮しましたが、足利義政死後、幕府の混乱で効力を失います。10代将軍・足利義稙(よしたね)と11代将軍・足利義澄(よしずみ)の派閥争いの中、それぞれが味方を得ようとして西国の有力守護大名の手に牙符が渡り、散逸したり、ニセ物が出たり、それを阻止するため再発給を求めたりして収まりがつかなくなりました。
交易の舞台・三浦
日朝貿易では、綿布、木綿、仏教の経典などの書籍を輸入し、銅、硫黄、琉球貿易で得た南海諸島の特産品などを輸出しました。日朝貿易の舞台は富山浦、乃而浦、塩浦の3カ所の港湾「三浦」です。三浦には日本人居留地もあり、「倭館」といいました。
日朝貿易に関わる事件としては、応永26年(1419)の「応永の外寇」があります。李氏朝鮮が倭寇の拠点になっているとして対馬を襲撃しました。4代将軍・足利義持の方針で日明関係が悪化している時期です。対馬の宗貞盛はこれを撃退し、その後、朝鮮との通交関係を回復しました。
また、永正7年(1510)には「三浦の乱」が起きます。朝鮮側は貿易が経済的負担となり、また、貿易の拡大で主力輸出品の綿布が不足し、次第に貿易に制限をかけるようになります。レートの引き上げや一部品目の取引禁止です。これに三浦の居留日本人と宗氏が反発。武装蜂起しますが、鎮圧されます。
この結果、三浦の日本人居留地は廃止。日朝貿易は衰退しますが、対馬を本拠とする宗氏にとっては死活問題で、その後は日本使節のニセ物を派遣するなどして日朝貿易を独占するようになります。そして日朝貿易から締め出された勢力が後期倭寇の一翼を担うようになります。
ポイントのまとめ
重要なポイントをまとめます。日明貿易の経緯としては、室町幕府3代将軍・足利義満が強力なリーダーシップを発揮して始まりました。
15世紀から16世紀中期の約150年間に19回、日本からの使節団が明に行く形式で続き、後半は博多商人と結んだ大内氏、堺商人と結んだ細川氏といった有力守護大名が中心となりました。
日明貿易は勘合貿易ともいわれます。その特徴として、「勘合」を使って外交官の身分を確認し、私的な貿易を禁止した官製貿易だったこと、明が周辺国との上下関係をはっきりさせた朝貢形式で続けられたことが挙げられます。また、日明貿易の影響として、室町時代の文化や貨幣経済の発展に関係したことが挙げられます。
室町幕府と李氏朝鮮による日朝貿易は、倭寇対策と密接な関係がありました。幕府だけでなく、西国の有力守護大名も関与し、中でも対馬の宗氏が大きな役割を果たします。交易の舞台は3カ所の港湾・三浦で、日明貿易の勘合のような牙符が使われたことも特徴です。
【主な参考文献】
- 荒野泰典、石井正敏、村井章介編『日本の対外関係4 倭寇と「日本国王」』(吉川弘文館)
- 『岩波講座 日本歴史』(岩波書店)
- 『新もういちど読む山川日本史』(山川出版社)
- 『日本史事典』(朝倉書店)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄