「足利義満」公家・武家の頂点に君臨 ”日本国王”を名乗った室町幕府3代将軍の実像
- 2023/12/20
義満は金閣寺(鹿苑寺金閣)を建立し、世阿弥ら芸能者のパトロンになるなど、「北山文化」と呼ばれる時代を築きました。一方で、武家なのに太政大臣になり、中国に対しては「日本国王」と名乗るなど、必要以上の権力を欲した人物という評価もあります。
そんな義満の生涯を眺めてみると、実は思いのままにふるまっていたのは晩年のわずかな期間だけであり、それ以外は幼くして将軍になったことから、重臣らの操り人形の時期すらあったのです。
本記事では足利義満にフォーカスして、その生涯・人物像をみていきましょう。
動乱の幼少期
足利義満は、延文3(1358)9月に京都で生まれました。幼名は春王です。父親は足利義詮(あしかがよしあきら)で当時28歳、母親は石清水八幡宮神官の娘・良子です。義詮は3年前に長男・千寿王丸を亡くしており、この時点では義満が唯一の男児(のちに弟の満詮が誕生)でした。
義満が生まれた頃、京都周辺はかなり物騒な状況にありました。当時は南北朝の争い真っただ中。大和国吉野には、後醍醐天皇からはじまる南朝がおり、京都を奪還しようと機会をうかがっていました。人望の厚かった祖父・足利尊氏の亡き後、義詮の采配如何では、足利家の権力自体もいつ崩壊してもおかしくないような時代だったのです。
康安元年(1361)、義満3歳のとき、重臣の細川清氏が裏切り、南朝とともに京都を襲ってきます。このとき父・義詮は幼い義満を置いたまま、後光厳天皇とともに近江へと逃れました。
そして家臣に守られた義満が建仁寺に身を寄せると、やがて窮状を知った播磨守護・赤松則祐が義満を救出して播磨に連れ帰ります。翌年の春には京都に戻って父と再会もできましたが、その後も貞治3年(1364)に興福寺の僧兵が京都に乱入し、関与を疑われた幕閣が更迭されるなど、社会の混乱は一向に収束する気配が見えません。
そうした中、貞治6年(1367)9月、義満9歳の時に義詮が重病にかかります。赤松則祐や佐々木道誉などの老臣は、幼い義満にまだ実務はつとまらないと判断し、四国にいた細川頼之(よりゆき)を呼び寄せて、政務代行を任せました。結局、義詮は回復せずに12月7日に病死。37歳という若さでした。
次の年の春、義満は父の喪が明けると同時に元服し、さらにその翌年の応安2年(1369)正月1日には征夷大将軍となりました。義満はわずか11歳で、混乱する時代の幕府を背負う立場になったのです。
義満を支え、操った2人の重鎮
さて、まだ若い将軍だった足利義満をサポートした人物を2人みていきましょう。彼らは義満を支えると同時に将軍権力を利用し、自らの理想の実現に向けて活動しました。管領・細川頼之
その1人目は細川頼之(ほそかわ よりゆき)です。死去直前の義詮の命により、政務代行を任せられて管領に就任。幼少の義満に代わって幕府の実権を握りました。
管領となった頼之ですが、実は京都周辺にはほとんど勢力基盤を持たない人物だったようです。彼を支持する幕閣たちが相次いで死に、「将軍が必要としてくれている」事だけが管領として権力をふるう拠り所でした。
この頃の幕府政治は、”事なかれ主義” がポリシーでした。もともと京都は天皇家の土地なので、幕府として必要以上に介入しない、という方針です。本音としては、当時の義満・頼之の権力ではリーダーシップが取れなかったのかもしれません。
そのため、京都で僧兵が暴れていても、天皇家で後継者争いがあっても、「天皇家の事だから」と、頼之は知らんぷり。あまつさえ、この頃から厄介ごとが起こると、「もう辞職する!」と家出をして、義満に慰留される事態が頻発。
若い将軍に気を遣わせる頼之は、もはやそこまでしないと自分の権力を維持できなくなっていたのでしょうか…。その結果、幕府の信頼は急速に低下します。
応安7年(1374)、後光厳上皇が急死し、幕府は16歳の後円融天皇のサポートも期待されます。対応しきれなくなった頼之は、隠居していた太閤・二条良基に政務復帰を打診します。
彼こそが義満を操る2人目の重鎮です。
太閤・二条良基
前関白・二条良基(にじょうよしもと)は当時50代半ば、すでに現役を引退していましたが、北朝創業期の重臣として、いまだ朝廷で大きな権力を持っていました。 細川頼之の打診をうけた彼は、再び朝廷に関わりはじめます。引き受けた真意は、義満を朝廷行事に参加させれば良い ”金づる” になると思ったからです。
当時の朝廷は深刻な財政難。南北朝の合戦に巻き込まれた上、荘園からの年貢もまともに入ってこないので、重要な行事や日常生活の諸々も幕府からの援助なしには出来ない状態でした。
父・義詮は公家の煩雑な礼儀作法が嫌いで朝廷に寄り付きませんでした。財政援助を取り付けるためには、将軍には朝廷に関心を持ってもらう必要があります。そこで良基は早期教育が必要だとして、10代の義満に手取り足取り、諸々の作法を教えました。
のちに猿楽を保護することから察せられるように、義満は歌舞音曲(かぶおんぎょく)に才能を持っていました。公家の複雑な所作もあっという間に覚えたようです。その成果は、永和4年(1378)7月の右近衛大将任官の時に現れました。近衛大将は朝廷の要職で任官されると、御所に参上し、舞いのような所作をする決まりがありました。義満はそれを見事につとめ、朝廷から絶賛されます。
このとき見物人を驚かせたのが、義満の行列です。莫大なお金をかけて衣装や小道具を新調し、供もずらりと整えた行列は、荒廃した朝廷ではかつてない豪華絢爛なものでした。義満は当時20歳。この青年将軍に、二条良基ら公家は朝廷の再興を託し、義満もまたそれに応えました。
康暦元年(1379)、幕府や義満自身が公家に関わることに消極的な姿勢をもっていた細川頼之が失脚し、義満は一層朝廷のために金を使い始めました。行事の度に現代換算で十数億もの資金を出資し、自らも責任者として行事に出席するというハマりっぷりです。
公家でさえ作法が難しすぎて分からないような行事も難なくこなしていたというから、義満にとって朝廷行事は本当に楽しかったのでしょう。今まで頼之の操り人形になっていたとは思えないほどの積極性です。
公家社会における義満の人望が上がる一方で、同じく朝廷を立て直そうとしていた後円融天皇は、あまりいい顔をしません。同い年の義満が、臣下のくせにしゃしゃり出ているように思ったからです。
彼は義満と良基を困らせようと一計を案じます。永徳元年(1381)、後円融天皇は突如、息子・後小松天皇に譲位して院政を敷くと言い、後小松天皇の即位式には出ない、と主張しました。即位式には上皇の参加は不可欠にもかかわらず、です。これは即位式の責任者が義満と二条良基だったので、後円融が2人を困らせようとしたのです。
後円融の見込みでは、2人が頭を下げてくるはずでした。しかし、義満と二条良基は後円融上皇なしで即位式を挙行し、公家たちも大挙して義満のもとにはせ参じました。彼我の力関係はもう誰の目から見ても明らかでした。この事件以降、後円融上皇は心を病み、彼主導で院政をバリバリ行う夢は果たせず、静かに生涯を終えます。
永徳3年(1383)、義満は「准三后(じゅさんごう)」の格式を得ます。当時の官位は左大臣でしたが、それに加え、太皇太后・皇太后・皇后(三后)に准ずる立場で扱われるということになります。公家であっても滅多に与えられない、非常に名誉なことでした。義満25歳のことです。
室町幕府の由来
右近衛大将に任命された頃、義満は新しい屋敷を手に入れています。室町通に面するこの屋敷は、かつて西園寺家が所有していたもので、複数の所有者を転々とし、この頃は火事に遭い、空き家になっていました。それを義満がもらい受けて改築をし、永和4年(1378)に移住します。以降もこの屋敷は幕府の政庁として長く利用されました。室町にあったことから、後に足利家の幕府は「室町幕府」と呼ばれます。
守護大名を屈服させ、室町幕府を安定させる
公家を味方にすると同時に、義満は30代にかけて守護大名の掌握も進めました。当時はまだ乱世の気風が残っており、不満があると将軍邸を軍勢で包囲し圧力をかけるなど物騒なことも平気でやる時代でした。特に反・細川頼之の土岐頼康・山名時義などは、広大な領土も持っており、要注意人物でした。義満は表面的には彼らを立てつつも、勢力削減の機会を狙います。
嘉慶元年(1387)に土岐頼康、康応元年(1389)に山名時義が立て続けに病死。義満はこれを機会に一計を案じます。義満の周りには、守護大名の庶子や傍流の子弟が小姓や側近として多数仕えていたのですが、彼らに本家の領地の一部を召し上げて与える等して、同族争いが起こるように仕向けたのです。
この謀略により、土岐氏では明徳元年(1390)に「土岐康行の乱」が、山名氏では明徳2年(1391)に「明徳の乱」が勃発し、所領を大幅に減らされ、有力家臣も多数失いました。同様に近年力をつけてきた人物も、義満は容赦なく粛清していきます。
まずは義満のもとで活躍し人望を集めていた大内義弘には、謀反人討伐と同時に北山第の土木工事を押し付けるなどの無茶ぶりをして精神的に追い詰め、応永6年(1399)に謀反を起こしたのを討伐して殺害(応永の乱)。義弘の謀反に応じようとした咎で九州探題として絶大な権力をふるっていた今川了俊も、所領没収の上、蟄居となります。
このように同族争いや謀反を誘発して、危険人物たちを自滅させました。これにより、足利家を脅かすような強大な力を持った守護大名は大幅に減少し、公家のトップとしてのみならず、武家の棟梁としての義満の地位も一層盤石なものになりました。
守護大名らの掌握がひと段落したとき、義満は41歳になっていました。
南朝、北朝を合体させる
明徳3年(1392)、義満34歳の時、義満の主導で京都の北朝と吉野の南朝に和議が成立しました。南朝の後亀山天皇が吉野から大覚寺に入り、三種の神器が北朝に返却されました。南朝は、当時の勢力はそれほど大きいものではありませんでしたが、まだ反・足利の旗印に成り得るほどの威光はあり、義満はそれを危惧して和議を進めました。
北朝としては、実は和議には消極的でした。後醍醐天皇の子孫に加え、公家の中には自分の親戚が南朝に仕えている場合もあり、彼らが戻ってくると後継者人事が混乱することが予想されたからです。ですが、義満はそれを押し切りました。この事で、いわゆる「南北朝時代」は終了し、以降は「室町時代」となります。
この頃すでに二条良基は死去し、後小松天皇も10代、後円融上皇も頼りないため、義満は朝廷を支える人材としても、なくてはならない存在でした。
応永2年(1395)、義満37歳のときに出家します。これは父が37歳で亡くなったことを受け、前々から準備した出家でした。形式的にはここで家督と征夷大将軍職は息子・義持に譲ります。しかし実権は変わらず義満が握り続けている状態で、かつて権力者の操り人形になっていた義満が、今度は息子を操っている状態が出現します。
同じ年、彼は太政大臣に任命されます。武家で太政大臣になるのは平清盛以来の事です。義満の事績として有名な北山第(きたやまてい)の造営を始めたのもこの頃です。元々は西園寺家の別荘地だったものを譲り受けて改築をしました。完成は応永6年(1399)で、以降の義満はここに居住しています。
「日本国王」への道
この北山第では、重要な政治的行事が2つ行われました。1つ目は明使の謁見、2つ目は後小松天皇の行幸です。まず明使について。当時の明は鎖国中で、貿易をするには明に臣従する(朝貢)しか方法がありませんでした。義満はその辺をあまり理解しておらず、単に明と貿易して利益が得られれば良いと考えていたようです。ただ、明は義満を朝貢相手として認識し、「日本国王」の称号を与えました。
意図していなかった事とはいえ明に臣従する形になった上、朝廷の許可も得ていなかったので、僧侶や学者など一部の知識人は愕然としたそうです。幕閣の中にも反対意見は多く、義満死後間もなく日明貿易は中止されました。
そして行幸について、応永15年(1408)3月、義満は後小松天皇を北山第に招待し、滞在期間中に盛大な遊びを開催します。その時、美麗な稚児に成長した息子・鶴若丸(のちの義嗣)を披露し、4月25日には内裏において親王の格式で元服させます。
しかし4月27日、義満は突如病に倒れます。一旦は快方に向かいましたが、再び容体が悪化し、5月6日に死去します。享年50歳。
義満急逝後、息子の義持は「花の御所」を離れ、祖父・義詮の邸宅であった三条坊門邸に移り、義満とまた異なった政治を始めます。
コラム:義満と芸術・芸能関係の人々
足利義満の周りには芸術や芸能に関わりのある人物が出入していました。もっとも有名なのは世阿弥(ぜあみ)でしょう。 世阿弥は義満をパトロンとし、能楽を大成したと言われています。同様な芸能者としては、他にも観阿弥・犬王などが義満に召し抱えられています。
猿楽や田楽は、当時においては新しい芸術でした。それを保護したのに加えて、幕府の年中行事で披露させたり、慶事に合わせて新しい舞いを作らせたりしました。また、義満が日明貿易などで得た宝物を管理する専門職も、この頃から現れます。彼らは同朋衆(どうほうしゅう)と呼ばれ、幕府の宝物庫「公方御倉」の学芸員的立場で、品物の鑑定や解説書の執筆、必要に応じて宴会会場の飾りつけなどの仕事を担いました。
おわりに
足利義満は高位高官を極め、横暴に振舞ったように伝わっていますが、それは彼の生涯における最後の数年の事でした。父親を早くに亡くし不安定な幼少期を過ごし、青年期は細川頼之ら幕閣の老臣らに囲まれ自由がきかない暮しでした。そこへ来て、二条良基らのいる公家社会は、若い義満にとって心地よい所だったのでしょう。公家らと触れ合ったことで、義満は公家・武家双方の頂点に立ち、両方を融和させた政権を実現できました。
彼の代で南北朝が合一し、京都に平和が訪れたことは特筆すべき成果でしょう。義満が確立した華やかな将軍像は、義持の代に取捨選択され、権力として一層洗練されていくのです。
【主な参考文献】
- 小川剛生『足利義満』(中公新書、2012年)
- 桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫、2009年)
- 久水俊和『「室町殿」の時代』(山川出版社、2021年)
- 桃崎有一郎『室町の覇者足利義満』(ちくま新書、2020年)
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