【家紋】ルーツは神紋?徳川家康「葵のご紋」の起源を探る

 一族のエンブレムとして用いられる「家紋」。多くの戦国武将も先祖伝来のものや、あるいは新たに作り出したものを武具や衣服にあしらい、それぞれの存在を象徴するマークとなっていました。

 なかには皇室や特定の家格でしか使用できないという権威的な家紋もあり、それを有することがひとつのステータスともなっていました。その最たるものが、「葵のご紋」として知られる「三つ葉葵」ではないでしょうか。いわずと知れた戦国の三英傑が一人、「徳川家康」の用いた紋で、後世に「葵」といえば徳川将軍家のことを指すほどのシンボルとなったものです。

 今回は、そんな葵の紋と家康のお話に焦点を当ててみましょう!

葵の紋の歴史と賀茂神社の神紋

 葵の紋が武将の家紋として登場するのは古く、初出は室町時代・15世紀後半に記された『見聞諸家紋』という文献です。そこには約260に及ぶ家紋の図が描かれており、葵は丹波の豪族・西田氏の家紋として紹介されています。ただし、これは徳川氏が使用した三つ葉葵ではなく、茎部分が長く描かれた二つ葉の葵です。

 この二つ葉の葵は、京都の「賀茂神社」の神紋としてもよく知られているものですが、家康の出身地である三河地方には賀茂神社の神領があり、氏子連もいたために葵紋が伝わったという説もあります。

※参考(外部リンク):上賀茂神社 公式web

 特に「本多忠勝」で有名な本多氏はその家譜において、祖先が賀茂神社の神職であったことを伝えており、家紋も三つ葉の立葵を用いていることが知られています。

「丸に立ち葵」の家紋。
本多忠勝の家紋として知られる「丸に立ち葵」

 家康本来の一族である松平氏も賀茂神社とはとても縁が深く、松平三代目・信光は仏像に納めた願文で「賀茂朝臣」と署名を行っています。もっともこの頃に、後に見られるような三つ葉葵の紋が定着していたかは定かではなく、松平の源流である「新田源氏」は別の紋を用いており、信光の墓にも「三つ剣銀杏」という家紋が施されているといいます。

 このように、葵紋は三河地方では比較的ポピュラーな紋であったようですが、松平氏であった家康がどのような経緯で三つ葉葵を用いるようになったのかは不明な点も多く残されています。

「葵」という権威のブランド化

 かつて朝廷(天皇)は、功あった武家に対して皇室使用の紋である「桐」の使用を下賜することがありました。その初出は後醍醐天皇による足利尊氏への下賜とされ、織田信長や豊臣秀吉も桐の紋を用いたことが知られています。

五七桐紋
信長や秀吉が使用した五七桐紋。

 秀吉に至っては「太閤桐」というオリジナルアレンジの桐紋を使用し、秀吉からの拝領以外での桐の紋の使用を禁止する法令まで出しています。つまり「桐」が武家にとっても、公的な朝廷権力の裏付けとして珍重されてきたという側面を示しています。

 ところが、家康は自家の「三つ葉葵」そのものをブランド化します。基本的に徳川一門以外での三つ葉葵の使用を認めず、一族であっても分家等には当初の「松平」姓を名乗らせて形状違いの葵紋を与えるなど、徹底した区別を行っています。

 歴史上、一口に「葵の紋」といっても時代ごとにいくつものバリエーションがあり、家康が用いた葵はおおよそ三代目・家光の頃まで使われたと考えられています。これは秀吉以来の旧権威を刷新し、自らの治世であることを広く知らしめるための一種の「ブランディング」であったとも考えられており、やがて葵の紋は強力な威信を発揮するようになるのは周知のとおりです。

「葵っぽい」ものへのタブー

 さて、よく世人の口の端に上るおもしろいお話として、江戸の人々が「葵」に関するある種の禁忌意識をもっていたということが語られます。その最たるものが「輪切りの胡瓜」。胡瓜を輪切りにした際の断面が葵の紋に似ているとされ、それを食べるのは恐れ多いとして違う切り方をした、という逸話です。

輪切りのきゅうりの写真

 実際には江戸期における栽培植物としての胡瓜への評価は高くなく、貝原益軒は「瓜類の下品」と評し、水戸光圀に至っては食べること・栽培することを禁じる発言をしています。

 味も悪く少々の毒があると考えられていたようで、江戸末期の品種改良による食味向上まではあまり人気のある野菜ではなかったようです。それにもかかわらず、断面の模様が葵の紋に似ているから避けるという話が伝わっていることは、いかに葵の権威付けが浸透していたかということの証といえるかもしれませんね。

おわりに

 徳川家康は、最終的に戦国の世を終わらせ天下を平定した「天下人」であり、260余年に及ぶ長期政権の礎を築いた人物として知られています。日本での人気はなぜか絶大とはいいがたいものですが、世界史的にも類をみないタイプの武人・政治家として海外でも高い評価を受けているといいます。

 葵の紋が権威そのものを象徴するようになったのは家康の巧妙な政略が功を奏した証拠でもあり、現代の私たちが見てもすぐさま「徳川ゆかり」とわかるほどですね。もしかすると、あの特徴的なデザインにも細心の配慮と深謀が込められているのかもしれません。

 もし葵の紋を目にする機会があれば、家康という武将がそこに何を願ったのか、思いを馳せてみるのも一興ではないでしょうか。


【参考文献】
  • 『見聞諸家紋』 室町時代 (新日本古典籍データベースより)
  • 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
  • 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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