【家紋】勇猛果敢で知られる「鬼島津」!その紋はキリシタンと間違えられる?

 戦国武将は命をかけた戦いが日常であったため、いずれの家中も武と勇を誉れとしたことが知られています。そんな武人の群れにあって、なお畏敬の念をもって語られる一族があります。

 その名は薩摩の「島津氏」。薩摩は明治維新を成し遂げた雄藩の筆頭格として、大きく歴史を動かした人材を多く輩出した地でもあり、そんな「薩摩隼人」たちを束ねてきたのが島津氏です。島津氏歴代の武人のうち、ことに戦国期を生きた「義弘」「豊久」の両名はまさしく「猛将」というべき苛烈な生き様で、同時代の武将たちにも深い感銘を与えたとされています。

 今回はそんな、島津氏の家紋についてのお話です。

「島津氏」とは

 まずは島津氏の歴史を概観してみましょう。島津氏は鎌倉幕府御家人であった「島津忠久」を初代とし、忠久は源頼朝より薩摩・大隅・日向といった南九州の三か国、さらに越前を加えた計四か国の守護に任じられるという異例の待遇を受けた人物でした。

 中世を通じて力を蓄え続けた島津氏はやがて戦国大名へと成長、九州全土にその勢力を広げるようになります。しかし豊臣秀吉による九州攻めでは大兵力での侵攻を前に総力戦を回避、降伏して本来の拠点である薩摩・大隅・日向三か国の所領を安堵されます。

 その後、豊臣政権下での軍功を高く評価され加増。豊臣家有数の大大名となっていきます。島津の名を不動にしたのは、関ケ原合戦での壮絶な撤退戦によるものと考える人は多いようです。

島津氏の系図
島津氏の系図

 世にいう「島津の退き口」で、敵に囲まれた中あえてその正面を突破し、捨て身の小隊が断続的に追っ手を足止めしつつ本隊を脱出させるという苛烈な戦法を指しています。これにより、多くの犠牲を払いながらも第17代島津家当主ともされる「島津義弘」は薩摩に生還し、長きにわたる島津の命脈を保ったのは周知のとおりです。

家紋は「丸に十字」、この意味は?

 島津氏の家紋といえば、十字を丸で囲った特徴的な図柄を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。

 戦国史や幕末史を扱った映画やドラマなどのメディア作品においても、島津氏は比較的露出の多い家中のひとつともいえるため、幔幕や装備品などに記された丸に十字の家紋を目にする機会があります。

島津氏の家紋「丸に轡十字」
家紋「丸に轡十字」

 一般に「丸に轡(くつわ)十字」と呼ばれており、馬の手綱を口に噛ませるための「轡」という馬具の金具に由来するという説があります。しかし、これはどちらかというと後付けの説明であると考えられています。というのも、島津氏本来の家紋は毛筆で漢字の「十」を書き出した「筆書きの十文字」だったからです。

 これは島津家始祖である「島津忠久」の時代から使われてきた歴史ある紋で、先述した島津義弘もこの家紋を用いていました。ただし、関ケ原撤退戦で討ち死にした「島津豊久(義弘の甥)」は丸に轡十字の紋を使用しており、この時代に「十文字」から「丸に十文字」の紋へと移行していったものと考えられています。

 一説には、十の字を丸で囲うようになったのはキリスト教禁教令の発布と関連があるものといわれています。

島津氏の家紋「筆文字の十」
家紋「筆文字の十」

 本来の筆書き十文字は下部の縦線を長く引き、一見するとまるで「十字架」のような印象を受けます。
もちろん紋ができた当時の人たちが意図的にクルスに仮託したとは考えにくいですが、少なくとも戦国期に薩摩の十字紋を目にした外国人宣教師たちは十字架との酷似に驚いたようです。

 豊臣政権下の禁教令には大きく第一次と第二次の二段階がありますが、比較的ゆるやかな統制であった一回目に比べ、二回目の施策は教徒らの処刑を伴ったものとして知られています。

 これは宣教師たちの活動が、日本の植民地化を企図するものという疑いのもとに推し進められたもので、島津氏はこれらの禁教令を背景に、従来の十字紋を「十字架」と区別するために丸囲みの紋とし、武家らしい馬具に由来する「丸に轡十字」という意味付けをしたのではと考える研究者もいます。

 島津氏はこれ以外に「牡丹」の紋、また秀吉より使用を許可された「桐」の紋なども用いています。

桐紋の中でもっともベーシックな「五三桐」
桐紋の中でもっともベーシックな「五三桐」

おわりに:命をつなぐ、「家」の存続

 最後に、「丸に轡十字」の紋を用いた有名な島津氏の武人、「島津豊久」について触れたいと思います。

 関ケ原において、伯父である義弘を無事落ちのびさせた豊久はその撤退戦で討ち死にしたことは先に触れましたが、それは「捨て奸(すてがまり)」という戦法によるものだったことは有名です。

関ヶ原合戦での島津豊久奮戦の地(烏頭坂)の碑
関ヶ原合戦での島津豊久奮戦の地(烏頭坂)の碑(岐阜県大垣市上石津町。出所:wikipedia

 撤退における最後尾の部隊は「殿(しんがり)」と呼ばれ、敵を足止めしつつ本隊を逃がす必要があるため、リスクが高く非常に難しい任務とされています。

 島津の捨て奸とはこの殿を小隊に分け、全員が討ち死にするまでその場に留まり、そしてまた決死小隊を繰り出すという方法です。手練れの鉄砲隊があぐらを組んで追撃隊の指揮官を狙撃し、その後白兵突撃で玉砕するという苛烈極まる戦術でした。

 豊久は島津宗家にきわめて近い血筋でありながら、自らも死兵の一人として戦いました。「個」を捨てる代わりに「集」としての一族を生かすという、島津将兵たちの断固とした生きざまに、「丸に十字」の紋は鮮烈な記憶となって刻み込まれたのでしょう。


【参考文献】
  • 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
  • 「島津氏の十字紋」『尾花集』 加藤雄吉 1917
  • 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
  • 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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