【家紋】「肥前の熊」と綽名される九州三英傑の一!「龍造寺隆信」と龍造寺氏の家紋について
- 2020/02/06
戦国時代の「三英傑」といえば、一般的には「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」の三名を指しています。長きにわたる戦乱の世を終わらせ、天下統一への道筋をつけ、実行した武将たちという評価は誰しも認めるところでありましょう。
しかし、島国である日本では本州島だけではなく、四国や九州などでも当然のように戦国武将たちの覇権争いが繰り広げられました。そのうち、九州島で特に勢力をもった三つの家中がありました。「大友氏」「島津氏」そして「龍造寺氏」のことであり、この三氏族をして九州の「三英傑」と評することがあります。
なかでも龍造寺氏は最盛期をほぼ一代で築き上げ、「下剋上」を地で行く急成長を遂げたことで知られます。それを実現させた武将の名は龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)。「肥前の熊」とも異名される下剋上大名であり、戦国期九州の歴史を語るうえでは不可欠な人物の一人です。
今回はそんな龍造寺隆信らが用いた家紋についてのお話です。
しかし、島国である日本では本州島だけではなく、四国や九州などでも当然のように戦国武将たちの覇権争いが繰り広げられました。そのうち、九州島で特に勢力をもった三つの家中がありました。「大友氏」「島津氏」そして「龍造寺氏」のことであり、この三氏族をして九州の「三英傑」と評することがあります。
なかでも龍造寺氏は最盛期をほぼ一代で築き上げ、「下剋上」を地で行く急成長を遂げたことで知られます。それを実現させた武将の名は龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)。「肥前の熊」とも異名される下剋上大名であり、戦国期九州の歴史を語るうえでは不可欠な人物の一人です。
今回はそんな龍造寺隆信らが用いた家紋についてのお話です。
龍造寺氏の出自と歴史
まずは隆信が属する龍造寺とは、どういった氏族だったのかを概観してみましょう。肥前(現在の佐賀県あたり)の大名であった龍造寺氏は、在庁官人・高木氏の庶流が肥前佐嘉(さが)郡の龍造寺村地頭職に任じられたことからその地名を称したものとされています。一説には藤原秀郷流の系譜に連なるともしていますが、詳細は判明していません。
肥前の国人領主であった龍造寺氏は、室町時代後期までは当地最大勢力とされた「九州千葉氏」に仕えていましたが、やがて肥前守護となって台頭した「少弐氏」の被官となります。
龍造寺氏はいくつかの家流にわかれ、本家を「村中龍造寺氏」といいますが衰退し、水ケ江城を本拠とした「水ケ江龍造寺氏」が大きな勢力をもつようになります。
十六世紀の初め頃、水ケ江龍造寺氏の「龍造寺家兼」が周防を本拠とした西日本の大勢力「大内氏」を破り、主家の少弐氏からの独立を進めていきます。
ほどなくして家兼は主君の「少弐資元」を戦の折に積極的な救援をしないという方法で自害に追い込みますが、これは密かに通じた大内氏の庇護のもと行った調略ともいわれています。
本州島の歴史では珍しくなかった下剋上ですが、九州では稀有な例でもあり、家兼の謀略は少弐氏家臣団の反発を招きます。それにより攻撃を受けた龍造寺氏は一時壊滅状態となり、家兼の息子・孫を含む一族の多くが誅殺されることになります。
家兼は筑後の「蒲池鑑盛(かまちあきもり)」を頼り、やがてその支援のもと龍造寺氏を再興します。この家兼の曽孫が龍造寺隆信であり、幼い隆信を連れて逃れた家兼は実に九十歳を超える老体でした。
幼少期より一族の寺院で養育され「円月」の法名を名乗った隆信ですが、その資質を見込んだ曽祖父・家兼により水ケ江龍造寺の家督を継ぐよう遺言されます。家中では隆信の家督相続について意見が割れましたが、神意を問う「籤(くじ)」で三回占ったところ、すべてが隆信に与したといいます。
隆信は勇猛であると同時に謀略も得意とし、家中での危機を乗り越えながらやがて肥前一国の支配、そして大友氏が島津氏に敗北したことに乗じて九州のほぼ北半を支配するまでに至りました。
およそ隆信一代で築いた龍造寺氏の最大版図でしたが、天正12年(1584)の「沖田畷の戦い」で島津勢に隆信が討ち取られ、龍造寺氏は九州の覇権争いからは撤退することになります。
その事績は隆信の従兄弟であり義弟でもあった家老の「鍋島直茂」が引き継ぎ、やがて肥前佐賀藩(鍋島藩)の礎を築くことになりました。
龍造寺氏の紋について
龍造寺氏が用いた紋は「日足」といい、日の丸の周囲にいくつもの切れ込みが入ったような形をしています。これは日輪とその周囲の光条を表しており、その名の通り太陽をモチーフにした自然紋のひとつです。九州地方に多い紋とされ、龍造寺宗家は光条部分の間隔が異なる十二条で構成された「変わり十二日足」と呼ばれています。分家では光条の数を減らしたとも、また宗家は十二ではなく十六日足の紋を用いたともされ、詳細は定かではありません。
日輪部分と光条部分はひと繋ぎで描かれることが多いですが、中心部を連結せず切り離した状態の紋様も存在します。日輪と光条が連結し、光条同士の間隔が密な変わり十二日足は龍造寺氏の「須古城」に用いられた瓦にも確認することができ、当時の紋の形状に比定されています。
おわりに
「熊」と綽名される隆信は、非常な巨漢であったと伝わっています。肥満体のため乗馬できず、六人で担ぐ輿に乗って指揮を執ったとルイス・フロイスも記録に残しています。隆信の肖像画として有名な宗龍寺蔵のものがあり、やはりたいへん大柄に描かれていますがこれは江戸時代半ば頃の作となっています。
幼少より数々の争いの渦中にいた隆信は、時に冷酷で猜疑心の強い性質が目立ちますが、このことが一大勢力を築く原動力になったとも考えられますね。
ルイス・フロイスは隆信について、注意深さと決断力に関してユリウス・カエサルを上回ると評価しています。酷烈な性格と即断即決という身上は隆信という武将にとって、長所でもありまた致命的な短所でもあったといえるでしょう。
【参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『史徴墨宝.史徴墨宝考証 第2編 第3巻』 帝国大学編年史編纂掛 編 1889 大成館
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
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