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織田政権の威勢と元親の四国進出(1575~79年)

戦ヒス編集部
 2017/10/18

これまでの中央政権と信長の台頭

天正3年(1575)に土佐統一を果たした元親は、まもなく四国への侵攻を開始することになる。

というのも、土佐国だけでは家臣に十分な恩賞(知行地)を与えることはできなかったため、さらなる所領の獲得が必要だったからだ。

ところで、元親の四国進出の戦いにおいては、中央の戦局が密接に関わってくるのだが、この時期の中央政権と幾内周辺の戦局などはどうなっているのだろうか?

すでに織田信長が中央政権を樹立しているのは言うまでもないが、そこに至るまでのプロセスを知る必要があるので、以下に簡潔にまとめてみた。

  • 戦国期に入り、将軍権力は地に落ちて、政権は管領の細川氏が牛耳っていた。(=細川政権)
  • 細川氏では内訌などが頻発、やがて細川家臣の三好氏が細川を追放して政権を奪取。(=三好政権)
  • その後、信長が台頭して上洛し、三好氏を京から追放して15代将軍義昭を誕生させる。(=織田政権)
  • 信長と義昭の連合政権は、しばらくして両者が仲違いとなって戦いに発展。
  • 「信長 vs 義昭率いる反織田勢力」の抗争は信長の勝利に。義昭は追放される。(=室町幕府滅亡)

織田信長に接近する元親

上述のように、信長は将軍義昭をも追放して中央政権を完全に掌握し、元親が土佐統一をした頃には、幾内どころか、西の中国や北の北陸方面に進出する程までに至っていたのだ。

なお、中国の覇者となっていた毛利氏の支配領域とも隣接し、両者がその境界にある有力国衆らを勧誘していた時期であり、「織田氏 vs 毛利氏」という大大名の全面対決が目前にせまる時期でもあった。

一方、長宗我部のかつての主君・細川家はどうかというと、すでに見る影もないほどに権力が失われていた。
当主の細川昭元は、三好政権のもとでは名目上の管領というだけで力はなく、織田政権になってからは将軍義昭に臣従し、この時はすでに信長の傀儡として利用される始末であったのである。

こうした情勢をみた元親は、同年10月に信長に誼を通じようと接近、使者を送って信長の重臣・明智光秀を通じて四国への進出を伝えたという。

光秀を介したのは、元親の妻が斎藤利三の妹(または石谷氏の娘)であり、斎藤利三や石谷氏は光秀の家臣であったからだ。ただし、元親はこれより以前に信長と接触したという説や見解もある。

四国への進出を開始する元親

元親の四国進出は、阿波・伊予・讃岐の3方面で並行して行なわれたことで知られる。そして、阿波の侵略においては土佐東部の安芸・香美2郡の兵が担当、一方の伊予の侵略では土佐西部の高岡・幡多2郡の兵が担当したとみられる。

さて、四国進出の端緒となったのが、同年末(または秋頃)における阿波国の海部城の奪取である。

ここでまずは、阿波国のこれまでの情勢などを簡潔に説明しておこう。

  • 阿波国は室町期より、細川家の庶流である阿波細川氏が代々守護に君臨していた
  • 戦国期に入り、細川家が没落して中央政権が三好氏にとって代わる。この頃の長宗我部氏は国親の代。
  • 三好長慶の弟・実休が当時の守護・細川持隆を殺害して、持隆の子・細川真之を擁立して阿波の実権を握る。
  • 三好実休が紀伊の畠山氏との戦いで討死し、子の三好長治が実権を掌握する。この頃の長宗我部氏は元親の代。

上述のように、この頃の阿波国は三好庶流の阿波三好氏が支配していた。つまり、元親の阿波での戦いは「長宗我部氏 vs 三好氏」なのである。 三好氏は、本願寺勢力と手を組んで反織田勢力の一角でもあったが、一方の元親は信長と誼を通じていたので、両氏は「織田政権 vs 反織田勢力」の対立構図にも参加しているといえよう。

話を元にもどすが、元親の海部城奪取のきっかけや経緯はどうだったのだろうか?

『元親記』によると、元亀2年(1571)には元親の弟・島弥九郎親益が播磨国へ療養でむかう途中、阿波国海部城下の湊に舟を停泊、これを敵と間違えられて海部城主に討たれたといい、元親はこれを恨んでいた。

のちに、元親は海部城を奪取し、続いて由岐・日和佐・牟岐・浜・桑野・椿泊・仁宇(七ヶ浦)の各城主をも降伏させた。 この海部城の陥落以後、阿波南部の国衆らが動揺して長宗我部方に降ってきたという。

一方の『長元記』では、阿波国の海部・宍喰の知行境で国衆らが対立したところ、海部城主が加勢に出かけた。元親はこれを機に同城を奪取し、海部城主は逃亡してそのまま行方知れずになったと伝わる。

戦後、元親は家臣である久武親信の娘(または妹)を養女として、桑野城主の東条関兵衛に嫁ぎ、仁宇伊豆守も親類にするなどして、降伏した国衆らとの結束を強めた。

とはいえ、阿波の国衆らの心中は完全に服属したものではなく、いつ離反してもおかしくない状況だったようだ。また、元親は陥落した海部城に弟の香宗我部親泰を配置して阿波南部の軍代としている。

こうして元親は、翌年からの本格的な阿波経略に向け、阿波南方を整えてから土佐の岡豊に戻っていったのである。

四国制圧の要所となる白地を攻略

天正4年(1576)に入り、元親は阿波・伊予2国への侵略を本格的に開始する。

この頃の阿波国は、三好長治が守護の細川真之を傀儡化して、事実上の支配者となっていた。
だが、長治は鷹狩や遊興にふけり、国内の武士や領民に法華宗への改宗を強要するなどの暴政を行なっていたことで、国内に混乱を引き起こすことになる。

阿波の支配者・三好長治を討つ

同年10月、実権を取り戻そうとした細川真之が海部方面に出奔。これに一宮城主の一宮成助や伊沢城主の伊沢頼俊が、長治に背いて真之を支持し、一宮成助が元親にも援軍を要請したという。
そして、12月には、戦いに敗れた長治が自害して果てた。

このとき、元親は援軍を出して協力し、細川真之と連携して阿波攻略を進めていったと考えられている。なお、この政変については、織田信長が関与していたという見解もあるようだ。

というのも、この年は信長に追放されていた将軍義昭が毛利輝元を頼って、義昭を中心とした反織田勢力が再結成された年である。

中国・四国方面における反織田勢力は、毛利氏を筆頭に本願寺勢力や阿波三好氏などがいる。つまり、信長は細川真之や元親らに働きかけ、間接的に阿波三好氏を攻撃したということであろう。

最重要拠点・阿波の白地

さて、三好長治の死と同じ頃、元親は阿波の三好郡白地へも攻め込んでいた。

この白地は、阿波と讃岐の境界に位置する要所であり、四国制覇をもくろむ元親にとって絶対に奪取すべき場所であった。

白地城は、三好長治の叔父にあたる大西覚養が守備していたが、元親は計略をもって覚養を降参させたという。
しかし、大西覚養は将軍義昭の政権復帰を支持していたといい、まもなくして毛利方に転じ、元親は白地の支配権を失ったようだ。

これに対する元親は、翌天正5年(1577)の4月に再び白地に攻め込んで覚養を降して服属させたといい、その後、白地に新たな城を築いて家臣の谷忠兵衛に守らせたという。

大西覚養の背後には毛利氏の存在があったが、織田方を支持する長宗我部氏と反織田勢力の筆頭である毛利氏との間はどうだろうか?
どうやら長宗我部と毛利が戦った形跡はなく、少しあとには小早川隆景が "長宗我部とは友好関係にある" 旨のことを述べていることから、両者は敵対関係にはなかったようだ。

こうして元親は、阿波・讃岐・伊予の3方面に通じる最重要拠点を手に入れたのである。

雲辺寺の逸話

ところで、白地を手に入れたときの讃岐進出にまつわる元親の話がある。

白地奪取後の元親は、讃岐国の進出にあたって真言宗寺院の雲辺寺に登った。
この雲辺寺は標高1000メートル程の高山にあって、讃岐を一望できるという。

そこで、元親が雲辺寺の住職・法院と四国進出の話などをしたところ、法院は以下のように元親の讃岐進出に関して釘を刺したようだ。

  • 元親殿は度量の大きい方だ。
  • だが、中国の軍書ではそのような大将は5万や7万の軍勢を率いると記されている。
  • 元親殿がわずかな軍勢で讃岐に攻め入ることはよくよく考えるべき。
  • 茶釜の蓋で茶桶の蓋を塞ぐことができませんでしょう。
  • 早く帰陣したほうがよい。

元親はこの忠告に納得し、このときは讃岐進出を見送っている。

伊予への進出

次は白地攻めと同時並行で進められていたとみられる元親の伊予進出だが、はじめに伊予国のこれまでの情勢などを簡潔に触れておこう。

  • 伊予は古代より河野氏が本拠として、同一族は分家をだして北伊予を中心に繁栄。
  • 一方、伊予中部では鎌倉期に下野から移って土着した宇都宮氏が台頭し、守護も務める。
  • 南北朝期は河野氏が守護を務め、一方で西園寺氏が伸びて領国支配をはじめる。
  • 戦国期は河野氏を中心に、宇都宮・西園寺との3氏による割拠状態が続いた。
  • 河野氏はお家騒動等で伊予統一をする力はなく、勢力維持に同盟国の毛利氏に頼る始末であった。

上述のように、河野・宇都宮・西園寺の3氏による支配の中、元親が天正3年(1575)の四万十川の戦いで一条兼定を破ったことで、長宗我部の支配領域が伊予国と隣接するようになっていたのである。

別記事でも述べたように、伊予攻めは元親の弟・吉良親貞を中心として土佐西部の高岡・幡多2郡の軍勢で進められたとみられるが、その端緒はおそらく天正4-5年(1576-77)であろう。
というのも、天正5年(1577)2月の時点で南伊予を支配する西園寺氏が、土佐からの侵略に困っているとして毛利氏に援助を要請しているからである。
なお、同年中に伊予攻略の指揮官であった吉良親貞が病没し、長宗我部家にとって大きな痛手となった。

ちなみに、元親に敗れた一条兼定の逃亡先が南伊予だったことから、一条氏を支援する勢力と戦ったと考えられる。

阿波・讃岐・伊予の三国を同時経略

天正6年(1578)から翌年にかけての元親の四国制覇の戦いは、阿波・讃岐・伊予の3国同時に展開されていった。

はじめに、この時期の主な出来事を以下に示すので、目次がわりにみてほしい。

--天正6年(1578)--

  • 【伊予】長宗我部勢が伊予宇和郡へ出兵
  • 【阿波】三好方の重清城を攻略
  • 【阿波】三好方の岩倉城を攻略
  • 【讃岐】三好方の藤目城を攻略
  • 【讃岐】三好方の財田城を攻略

--天正7年(1579)--

  • 【阿波】三好方が岩倉城奪回に攻めてくるが、激しい攻防の末に長宗我部方がこれを撃退。
  • 【讃岐】長宗我部氏、香川氏と同盟を結ぶ。

上記の2年間の出来事は、年月がはっきりせず、3国同時の経略とあって時系列での説明が困難なため、本稿では各国毎にみていこうと思う。

阿波の経略

まずは阿波経略だが、同国では三好長治が倒れ、元親が重要拠点となる白地を攻略したのは前の記事で述べたとおりであり、天正6年(1578)には三好長治の弟・十河在保が後継者となって阿波国勝瑞城へ入り、元親と戦うことになる。

白地を拠点として長宗我部方はまず、久武親信と大西上野介(大西覚養の弟か。)が美馬郡の重清城を攻めとり、これによって、近辺の志摩・青野等の諸将らも降ったという。

その後まもなく、長宗我部勢は同郡の阿波岩倉城へも攻め入って、城将で三好一族の三好康俊を降したようだ。
しかし、三好方も所領奪還に向けた反撃にでて、同年10月に元親従属下の大西氏を攻めたといい、このとき大西覚養が再び三好方へと従属したとみられる。

さらに三好勢は、翌天正7年(1579)に岩倉城奪回に押し寄せてきたが、長宗我部勢は途中、城外へ打って出て鉄砲をあびせ、数百人を討ち取って撃退したという。

この激戦で打撃を受けた三好勢は、その後、家中で謀反の噂が立ったことから居城・勝瑞城を退去して讃岐へ逃れたため、元親はここに一宮成相を入れて一時的に同城を支配することに成功するのだ。

讃岐の経略

次に讃岐の経略だが、天正6年(1578)に元親が豊田郡藤目城を奪取したことがその第一歩とみられる。

ここで以下、讃岐のこれまでを概説しておこう。

  • 讃岐は南北朝期以来、細川氏が守護として支配。
  • 戦国期に入り、細川から三好に政権が移ると、三好氏が支配。
  • 信長の台頭によって、三好氏は弱体化。
  • やがて讃岐の有力国衆である香川氏や香西氏らが三好から離反。

このように元親が四国進出をはじめる頃には、西讃岐=香川氏、中讃岐=香西氏、東讃岐=十河氏というように、讃岐国は三好氏による統治が崩壊し、割拠状態となっていた。

藤目城攻略は、城主・斎藤下総守が縁者にあたる大西上野介を頼り、人質を提出して降ったことにあった。 しかし、まもなくして、十河存保の命をうけた奈良太郎兵らに攻めとられてしまったため、今度は元親自らが指揮を執って激戦を繰り広げることになる。

『元親記』によれば、「鬨の声や鉄砲の音で天地が震動ふるえるほど激しい攻防だった」と伝えており、長宗我部方は700人ほどの犠牲者を出して、ようやく藤目城を攻め落としたという。
戦後、元親は再び斎藤下総守に守備させると、続いて香川氏の財田城も陥落させている。

このように元親は、阿波だけでなく、讃岐においても三好勢力と攻防を繰り広げていたのである。

西讃岐の香川氏と同盟へ

天正7年(1579)には、元親の讃岐攻略が大きく前進する出来事、すなわち西讃岐最大の勢力・香川信景との同盟が成った。

香川氏は、長宗我部と同じようにはじめは管領細川氏に仕え、西讃岐の守護代を務めた。中央政権が三好氏に移ってからはこれに服属したが、三好氏の没落過程で三好氏から独立。
信景はこのころ、信長に接近して、従属下にあったようだ。

長宗我部氏と香川氏は、それぞれが三好勢と対立、さらに織田政権とも誼を通じていたため、双方の同盟は悪くない話だったのである。

こうして元親は、香川氏に和睦を持ちかけ、元親の二男・親和を婿養子として香川信景の娘を娶わすことになって同盟を結んだ。
西讃岐を手中に収めた元親は、同年11月までに那珂郡の長尾氏とも和睦し、長尾に新城を築いて一門衆の国吉親綱を配置し、讃岐の軍代に任命したようである。

伊予の経略

最後に伊予の経略について。

すでに南伊予へ進出していた元親だが、長宗我部方と東伊予の国衆が同盟を締結したという文書が残っていることから、東伊予へも手を伸ばしていたようだ。
時期ははっきりしないが、阿波の要所である白地の攻略後、すなわち天正5~7年(1577-79)あたりと考えられている。

また、伊予方面の軍代となった久武親信が、天正6年(1578)に南伊予へ出兵しており、翌天正7年(1579)には非業の死を遂げている。

『長元記』によると、同年に伊予岡本城が長宗我部方に内通していたため、親信は岡本城へ向かったが、岡本城周辺の地形は険しく、敵将の土居清良率いる伏兵の鉄砲隊によって討ち取られたとされている。

なお、この戦いで、伊予の守護・河野氏が土居清良に感状を送っているため、この時点で長宗我部氏と河野氏は敵対関係となっていたことがわかる。

中央の情勢と長宗我部氏

ここで、この2年間における中央の情勢と長宗我部氏との関係もみてみよう。

まずは織田信長と元親の関係だが、天正6年(1578)の文書で以下のことが確認できるため、元親は明智光秀を介して引き続き、信長と良好な関係を続けていたとみられる。

  • 元親の嫡男・弥三郎(のちの長宗我部信親)が信長の一字を拝領した点。
  • 元親が、上記の事と阿波攻略の事を、義兄の石谷頼辰に伝えている点。

次に「織田氏 vs 毛利氏」の情勢だが、同年に関しては以下のように毛利方が優勢であった。

  • 播磨国の別所長治が織田から毛利へ転じる。
  • 織田方の尼子再興軍が守備する上月城が、毛利軍によって陥落させられる。
  • 信長家臣の荒木村重が謀反、摂津有岡城へ籠城して毛利に通じる。

しかし、翌天正7年(1579)になると・・・

  • 備前国の宇喜多直家が毛利から織田へ転じる。
  • 織田方の攻撃で有岡城が陥落。
  • 毛利方の伯耆羽衣石城の南条氏が謀反。
  • 年末には三木城が陥落寸前に。

上述のように戦局は次第に織田方優勢に傾いていったのである。

最後に、同年末には毛利氏と元親の関係もうかがえる。
というのも、毛利方の小早川隆景が、長宗我部氏と河野氏の和睦に動いていた形跡があるのである。

実際、以後しばらくは両者の対立がみられないことから、毛利が和睦を仲介したと考えられている。 つまり、長宗我部氏は織田・毛利のいずれとも敵対関係になかったのだ。

元親は2重外交を行なっていたとみてもいいかもしれない。


【主な参考文献】
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん


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