長宗我部元親の四国進出はどのように展開されていったのか(1575~79年)
- 2021/03/09
天正3(1575)年に土佐統一を果たした長宗我部元親は、まもなく四国への侵攻を開始することになります。元親の四国進出は、阿波・伊予・讃岐の3方面で並行して行なわれたことで知られています。
本記事で具体的にその展開をみていきましょう。
四国への進出を開始する元親
土佐国の統一後、長宗我部氏の四国進出の端緒となったのが、天正3(1575)年末(または秋頃)における阿波国の海部城の奪取です。阿波の侵略においては土佐東部の安芸・香美2郡の兵が担当したとみられています。
ここでまずは、阿波国のこれまでの情勢などを簡潔にみてみましょう。
- 阿波国は室町期より、細川家の庶流である阿波細川氏が代々守護に君臨していた
- 戦国期に入り、細川家が没落して中央政権が三好氏にとって代わる。この頃の長宗我部氏は国親の代。
- 三好長慶の弟・実休が当時の守護・細川持隆を殺害して、持隆の子・細川真之を擁立して阿波の実権を握る。
- 三好実休が紀伊の畠山氏との戦いで討死し、子の三好長治が実権を掌握する。この頃の長宗我部氏は元親の代。
上述のように、この頃の阿波国は三好庶流の阿波三好氏が支配していました。つまり、元親の阿波での戦いは「長宗我部氏 vs 三好氏」ということです。
三好氏は本願寺勢力と手を組んで反織田勢力の一角でもありましたが、一方で元親は同年10月に信長に誼を通じようと接近。
織田家に使者を送って信長の重臣・明智光秀を通じて四国への進出を伝えたといいます。
両氏は「織田政権 vs 反織田勢力」という大きな括りでみても、互いに対立関係にあったようです。
話を元にもどしますが、元親の海部城奪取のきっかけや経緯はどうだったのでしょうか?
『元親記』によると、元亀2(1571)年には元親の弟・島弥九郎親益が播磨国へ療養でむかう途中、阿波国海部城下の湊に舟を停泊、これを敵と間違えられて海部城主に討たれたといい、元親はこれを恨んでいました。
のちに元親は海部城を奪取し、続いて由岐・日和佐・牟岐・浜・桑野・椿泊・仁宇(七ヶ浦)の各城主をも降伏させます。
この海部城の陥落以後、阿波南部の国衆らが動揺して長宗我部方に降ってきたといいます。
一方、『長元記』によると、阿波国の海部・宍喰の知行境で国衆らが対立したところ、海部城主が加勢に出かけました。元親はこれを機に同城を奪取し、海部城主は逃亡してそのまま行方知れずになった、と伝わっています。
海部城奪取の後、元親は家臣である久武親信の娘(または妹)を養女として、桑野城主の東条関兵衛に嫁ぎ、仁宇伊豆守も親類にするなどして、降伏した国衆らとの結束を強めました。
とはいえ、阿波の国衆らの心中は完全に服属したものではなく、いつ離反してもおかしくない状況だったようです。また、元親は陥落した海部城に弟の香宗我部親泰を配置して阿波南部の軍代としています。
こうして元親は、翌年からの本格的な阿波経略に向け、阿波南方を整えてから土佐の岡豊に戻っていったのです。
四国制圧の要所となる白地を攻略
天正4(1576)年に入り、元親は阿波・伊予2国への侵略を本格的に開始します。
この頃の阿波国は、三好長治が守護の細川真之を傀儡化して、事実上の支配者となっていました。しかし、長治は鷹狩や遊興にふけり、国内の武士や領民に法華宗への改宗を強要するなどの暴政を行なっていたことで、国内に混乱を引き起こすことになります。
阿波の支配者・三好長治を討つ
同年の10月、実権を取り戻そうとした細川真之が海部方面に出奔。これに一宮城主の一宮成助や伊沢城主の伊沢頼俊が、長治に背いて真之を支持し、一宮成助が元親にも援軍を要請したといいます。
12月には、戦いに敗れた長治が自害。このとき、元親は援軍を出して協力し、細川真之と連携して阿波攻略を進めていったと考えられています。
なお、この政変については、織田信長が関与していたという見解もあるようです。というのも、この年は信長に追放されていた将軍義昭が毛利輝元を頼って、義昭を中心とした反織田勢力が再結成された年であるからです。
◆ 織田派
- 織田氏
- 徳川氏
- 長宗我部氏
- 細川真之
など…
VS
◆ 反織田勢力
- 足利義昭(15代将軍)
- 毛利氏
- 本願寺
- 阿波三好氏
など…
中国・四国方面における反織田勢力は、毛利氏を筆頭に本願寺勢力や阿波三好氏などがいます。つまり、信長は細川真之や元親らに働きかけ、間接的に阿波三好氏を攻撃したということでしょう。
最重要拠点・阿波の白地
三好長治の死と同じ頃、元親は阿波の三好郡白地へも攻め込んでいました。
この白地は、阿波と讃岐の境界に位置する要所であり、四国制覇をもくろむ元親にとって絶対に奪取すべき場所でした。
白地城は、三好長治の叔父にあたる大西覚養が守備していたが、元親は計略をもって覚養を降参させたといいます。
しかし、大西覚養は将軍義昭の政権復帰を支持していたといい、まもなくして毛利方に転じ、元親は白地の支配権を失ったようです。
これに対する元親は、翌天正5(1577)年の4月に再び白地に攻め込んで覚養を降して服属させたといい、その後、白地に新たな城を築いて家臣の谷忠兵衛に守らせたといいます。
大西覚養の背後には毛利氏の存在がありましたが、織田方を支持する長宗我部氏と反織田勢力の筆頭である毛利氏との間はどうなのでしょうか?
どうやら長宗我部と毛利が戦った形跡はなく、少しあとには小早川隆景が "長宗我部とは友好関係にある" 旨のことを述べていることから、両者は敵対関係にはなかったようです。
こうして元親は、阿波・讃岐・伊予の3方面に通じる最重要拠点を手に入れたのです。
雲辺寺の逸話
ところで、白地を手に入れたときの讃岐進出にまつわる元親の話があります。
白地奪取後の元親は、讃岐国の進出にあたって真言宗寺院の雲辺寺に登りました。この雲辺寺は標高1000メートル程の高山にあって、讃岐を一望できるといいます。
そこで、元親が雲辺寺の住職・法院と四国進出の話などをしたところ、法院は以下のように元親の讃岐進出に関して釘を刺しました。
- 元親殿は度量の大きい方だ。
- だが、中国の軍書ではそのような大将は5万や7万の軍勢を率いると記されている。
- 元親殿がわずかな軍勢で讃岐に攻め入ることはよくよく考えるべき。
- 茶釜の蓋で茶桶の蓋を塞ぐことができませんでしょう。
- 早く帰陣したほうがよい。
元親はこの忠告に納得し、このときは讃岐進出を見送っています。
伊予への進出
次は白地攻めと同時並行で進められていたとみられる元親の伊予進出についてですが、まずは伊予国のこれまでの歴史を軽くまとめてみましょう。
- 伊予は古代より河野氏が本拠として、同一族は分家をだして北伊予を中心に繁栄。
- 伊予中部では鎌倉期に下野から移って土着した宇都宮氏が台頭し、守護も務める。
- 南北朝期は河野氏が守護を務め、一方で西園寺氏が伸びて領国支配をはじめる。
- 戦国期は河野氏を中心に、宇都宮・西園寺との3氏による割拠状態が続いた。
- 河野氏はお家騒動等で伊予統一をする力はなく、勢力維持に同盟国の毛利氏に頼る始末であった。
河野・宇都宮・西園寺の3氏による支配の中、元親が天正3(1575)年の四万十川の戦いで一条兼定を破ったことで、長宗我部の支配領域が伊予国と隣接するようになっていたのです。
伊予攻めは元親の弟・吉良親貞を中心として土佐西部の高岡・幡多2郡の軍勢で進められたとみられますが、その端緒はおそらく天正4-5(1576-77)年
です。というのも、天正5(1577)年2月の時点で南伊予を支配する西園寺氏が、土佐からの侵略に困っているとして毛利氏に援助を要請しているからです。なお、同年中に伊予攻略の指揮官であった吉良親貞が病没し、長宗我部家にとって大きな痛手となっています。
元親に敗れた一条兼定の逃亡先が南伊予だったことから、一条氏を支援する勢力と戦ったと考えられます。
阿波・讃岐・伊予の三国を同時経略
天正6(1578)年から翌年にかけての元親の四国制覇の戦いは、阿波・讃岐・伊予の3国同時に展開されていきました。
この時期の主な出来事を以下のとおりです。
━━ 天正6(1578)年 ━━
- 【伊予】長宗我部勢が伊予宇和郡へ出兵
- 【阿波】三好方の重清城を攻略
- 【阿波】三好方の岩倉城を攻略
- 【讃岐】三好方の藤目城を攻略
- 【讃岐】三好方の財田城を攻略
━━ 天正7(1579)年 ━━
- 【阿波】三好方が岩倉城奪回に攻めてくるが、激しい攻防の末に長宗我部方がこれを撃退。
- 【讃岐】長宗我部氏、香川氏と同盟を結ぶ。
上記の2年間の出来事は、年月がはっきりしていません。3国同時の経略ということで時系列での説明が困難なため、次項からは各国毎にみていきます。
阿波の経略
まずは阿波経略ですが、同国では三好長治が倒れ、元親が重要拠点となる白地を攻略したのは前述のとおりです。
天正6(1578)年には三好長治の弟・十河在保が後継者となって阿波国勝瑞城へ入り、元親と戦うことになります。
白地を拠点として長宗我部方はまず、久武親信と大西上野介(大西覚養の弟か。)が美馬郡の重清城を攻めとり、これによって、近辺の志摩・青野等の諸将らも降ったといいます。その後まもなく、長宗我部勢は同郡の阿波岩倉城へも攻め入って、城将で三好一族の三好康俊を降したようです。
しかし、三好方も所領奪還に向けた反撃にでて、10月に元親従属下の大西氏を攻めたといい、このとき大西覚養が再び三好方へと従属したとみられます。
さらに三好勢は、翌天正7(1579)年に岩倉城奪回に押し寄せてきましたが、長宗我部勢は途中、城外へ打って出て鉄砲をあびせ、数百人を討ち取って撃退したといいます。
この激戦で打撃を受けた三好勢は、その後、家中で謀反の噂が立ったことから居城・勝瑞城を退去して讃岐へ逃れたため、元親はここに一宮成相を入れて一時的に同城を支配することに成功するのです。
讃岐の経略
次に讃岐の経略ですが、天正6(1578)年に元親が豊田郡藤目城を奪取したことがその第一歩とみられます。
ここで以下、讃岐のこれまでの歴史も概観しておきましょう。
- 讃岐は南北朝期以来、細川氏が守護として支配。
- 戦国期に入り、細川から三好に政権が移ると、三好氏が支配。
- 信長の台頭によって、三好氏は弱体化。
- やがて讃岐の有力国衆である香川氏や香西氏らが三好から離反。
このように元親が四国進出をはじめる頃には、西讃岐=香川氏、中讃岐=香西氏、東讃岐=十河氏というように、讃岐国は三好氏による統治が崩壊し、割拠状態となっていました。
藤目城攻略は、城主・斎藤下総守が縁者にあたる大西上野介を頼り、人質を提出して降ったことにありました。
しかし、まもなくして、十河存保の命をうけた奈良太郎兵らに攻めとられてしまったため、今度は元親自らが指揮を執って激戦を繰り広げることになります。
『元親記』によれば、「鬨の声や鉄砲の音で天地が震動ふるえるほど激しい攻防だった」と伝えており、長宗我部方は700人ほどの犠牲者を出して、ようやく藤目城を攻め落としたといいます。戦後、元親は再び斎藤下総守に守備させると、続いて香川氏の財田城も陥落させています。
このように元親は、阿波だけでなく、讃岐においても三好勢力と攻防を繰り広げていたのです。
翌天正7(1579)年には、元親の讃岐攻略が大きく前進する出来事、すなわち西讃岐最大の勢力・香川信景との同盟が成立しました。
香川氏は、長宗我部と同じようにはじめは管領細川氏に仕え、西讃岐の守護代を務めました。中央政権が三好氏に移ってからはこれに服属したが、三好氏の没落過程で三好氏から独立。信景はこのころ、信長に接近して、従属下にあったようです。
長宗我部氏と香川氏は、それぞれが三好勢と対立、さらに織田政権とも誼を通じていたため、双方の同盟は悪くない話だったということです。
こうして元親は、香川氏に和睦を持ちかけ、元親の二男・親和を婿養子として香川信景の娘を娶わすことになって同盟を結びました。西讃岐を手中に収めた元親は、11月までに那珂郡の長尾氏とも和睦し、長尾に新城を築いて一門衆の国吉親綱を配置し、讃岐の軍代に任命したようです。
伊予の経略
最後に伊予の経略について。
すでに南伊予へ進出していた元親だが、長宗我部方と東伊予の国衆が同盟を締結したという文書が残っていることから、東伊予へも手を伸ばしていたようです。
時期ははっきりしませんが、阿波の要所である白地の攻略後、すなわち天正5-7(1577-79)年あたりと考えられています。
また、伊予方面の軍代となった久武親信が、天正6(1578)年に南伊予へ出兵しており、翌天正7(1579)年には非業の死を遂げています。
『長元記』によると、同年に伊予岡本城が長宗我部方に内通していたため、親信は岡本城へ向かいましたが、岡本城周辺の地形は険しく、敵将の土居清良率いる伏兵の鉄砲隊によって討ち取られたとされています。
なお、この戦いで、伊予の守護・河野氏が土居清良に感状を送っているため、この時点で長宗我部氏と河野氏は敵対関係となっていたことがわかります。
中央の情勢と長宗我部氏
ここで、この2年間における中央の情勢と長宗我部氏との関係もみてみましょう。
織田と長宗我部
まずは織田信長と元親の関係ですが、天正6年(1578)には
元親の嫡男・弥三郎(のちの長宗我部信親)が信長の一字を拝領しています。
このことから引き続き、織田と長宗我部の関係は良好だったことがうかがえます。
織田と毛利
次に「織田氏 vs 毛利氏」の情勢をみてみますと、同年に関しては以下のように毛利方が優勢でした。
- 播磨国の別所長治が織田から毛利へ転じる。
- 織田方の尼子再興軍が守備する上月城が、毛利軍によって陥落させられる。
- 信長家臣の荒木村重が謀反、摂津有岡城へ籠城して毛利に通じる。
しかし、翌天正7(1579)年には、備前国の宇喜多直家が毛利から織田へ転じ、織田方の攻撃で有岡城も陥落。さらには毛利方の伯耆羽衣石城の南条氏が謀反を起こし、年末には三木城も陥落寸前となっています。
つまり、戦局は次第に織田方優勢に傾いていったということです。
長宗我部と毛利
最後に、同年末には毛利氏と元親の関係もうかがえます。というのも、毛利方の小早川隆景が、長宗我部氏と河野氏の和睦に動いていた形跡があるのです。
実際、以後しばらくは両者の対立がみられないことから、毛利が和睦を仲介したと考えられています。つまり、長宗我部氏は織田・毛利のいずれとも敵対関係になかったのです。
元親は2重外交を行なっていたとみてもいいかもしれません。
【主な参考文献】
- 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
- 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
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