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「石田三成」誤解か真実か!?豊臣政権を支えるも、関が原に敗れたその生涯とは

  • 豊臣秀吉
 2017/12/14
石田三成の肖像画

石田三成という人物は、歴史上で必ずしも肯定的な評価をされてきたわけではありませんでした。三成を打倒して天下を勝ち取った徳川家康の江戸時代に入ると、彼は「能力は高かったが人望がなかった」「傲慢で豊臣政権を滅ぼした」などと言われるようになってしまいます。

しかし、近年ではそんな彼の評価も上向き始めており、かつてのような不当評価も少なくなりつつあります。今回の記事では、変わりつつある三成の生涯とその評価を解説していきます。
(文=とーじん)

幼少期から才覚が光っていたか、秀吉に見定められる

永禄3(1560)年、三成は近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)に生まれました。父は石田正継という人物で、地名にもなっている石田荘を中心に勢力を有する土豪であったと考えられています。

その一方、当時の近江国を支配していた浅井氏に仕える家臣という性格も有していたようであり、この時点ではまだ三成躍進のヒントを見つけることができません。

彼の人生を大きく変えるキッカケになった出来事が、元亀元年(1570年)織田信長浅井長政朝倉義景との間で勃発した「姉川の戦い」。ここで大勝利を挙げた信長は、浅井氏を監視するという名目で羽柴秀吉を近江国の横山城へと配置しました。

信長の勢力が強大であることは国内にもよく伝わっており、秀吉に従った浅井支配下の勢力も多かったといわれます。三成の父・正継もその一人であったと考えられており、天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡したことで旧浅井領が秀吉に与えられ、三成は彼に接近していくことになります。

この後、彼が秀吉の小姓として近侍していたのはほぼ間違いないのでしょうが、具体的な行動については有力な史料が残されていません。そのため、三成の逸話として有名な「三成茶」の一件などは創作であるという見方が有力なのも事実。

ただし、後で見ていくように三成の出世速度は異例ともいうべき速さであり、飛びぬけて優秀な人物であったということ自体は間違いないでしょう。

天下統一の過程で豊臣政権の中心人物に急成長

三成の活動が確認できるようになるのは、天正11年(1583年)以降のこと。とはいえ、すでにこの時点で三成の存在は他家にまで広く知れ渡っていたようで、文書によっては浅野長吉や増田長盛らと並んで彼の名前を確認することができます。

当時は越後の上杉景勝が秀吉と同じく信長の旧臣であった柴田勝家らと対立した状況にあり、彼は秀吉と結ぶことで他の信長旧臣をけん制しにかかりました。この上杉―豊臣連携交渉において、実働部隊として細かな実務を任されたのが三成でした。

しかし、賤ケ岳の戦いでは敵情偵察を担当して秀吉に情報をもたらし勝利に貢献すると、柴田家が滅んで秀吉と景勝の領地が接近したことで両者の関係に緊張が走ります。それでも三成は交渉役として十分な責務を果たし、上杉家は後の豊臣政権においてなくてはならない存在となっていきます。

小牧・長久手の戦いなどに三成は参戦しておらず、ここから彼の役回りが「戦場で敵と戦う」ことではないということがわかります。彼は基本的に秀吉のそばで近侍することこそが仕事であり、講和によって戦いが終結すると、誕生した秀吉政権の中枢を担うようになりました。

彼は紀州攻めや四国攻めにおいても秀吉に近侍し、天正13年(1585年)に彼が関白就任を成し遂げると、三成も従五位という身分に叙任され、「治部少輔」という官職に就任しました。彼が「治部殿」と呼ばれるのは、この官職が由来です。

以後、先ほど少し触れた上杉氏との交渉などに代表されるように、三成は秀吉の東国政策において中心的な役割を果たすことになります。天正14年(1586年)には上杉景勝・徳川家康が秀吉との和睦・従属を受け入れ、彼はそうした大大名を相手に秀吉側の交渉役として力を発揮。

さらに、同年中には堺奉行の役にも任じられ、東国だけでなく堺の行政までを取り仕切ることとなります。また、彼の堺奉行就任は当時秀吉が構想を練っていた九州平定を意識しての人事異動とみる意見もあり、堺商人らから西国事情を収集することも期待されていたようです。

九州平定に際しては、秀吉と九州で活躍する諸将との取次を引き受けていました。秀吉が九州へ出向くと本陣中から彼の命令を遂行することに従事していたと考えられ、秀吉からの絶対的な信頼を感じ取ることができます。

外交・内政で絶大な存在感を発揮した

九州平定の後には、新たに軍門へ下った島津家への指南役に就任。三成は島津氏へあれこれと指示を出していく中で、当時当主であった島津義久よりも義弘のほうがより交渉相手として適任であると感じたようです。その結果、秀吉政権は基本的に島津家の当主を義弘と認識したようで、彼宛に多くの指示を出しています。

他にも、未だに大きな勢力を有していた本願寺対策や、景勝のころから継続していた東国における支配秩序の確立にも従事しており、非常に精力的な働きを見せていたことがハッキリしています。

しかし、彼の東国支配は一筋縄で遂行できるものではありませんでした。奥州の伊達政宗が蘆名氏を攻めたことで一気に緊張感が走り、秀吉の怒りを買います。さらに、一応従属することで合意していたはずの北条氏も秀吉の意向を無視するようになり、ついに小田原攻めを決意。

三成はこの時期までにおおむね7~8万石を手にする大名に取り立てられていたと考えられ、小田原攻めではこれまでと異なり「武将」として戦に参加しました。彼は敵方の館林城を落とすと、忍城を「水攻め」によって攻略します。ただ、三成の忍城攻めは有名な一方で、「水攻め」という戦略は彼独自の発案というわけでもなければ、大軍を指揮した経験に乏しい三成が、諸将に細かく作戦進行の確認を取っていたのも事実のようです。

無事小田原攻めを完遂すると、三成はふたたび「本業」である各大名との折衝役に戻り、特に奥州仕置で力を発揮しました。諸大名の領地替えや一揆の対応などを行うなど、奥州と京都を行き来する多忙な生活を送っていました。

三成は何度か領地替えを行っていますが、天正19年(1591年)の時点で彼の領地としてはもっとも有名な佐和山に拠点を置いていたことが確認できます。当時彼が同地の佐和山城を領有していたかまではハッキリしませんが、たとえ所有していたとしても多忙を極めていたため、城にいた時間は決して長くなかったように思えます。

天正20年(1592年)、秀吉はかねてからの構想であった唐入りを目指し、諸将を朝鮮の地へ派遣しました。三成は前線基地の名護屋城において島津氏や琉球との交渉を済ませると、自身も秀吉に代わって朝鮮へ渡海。彼は大谷吉継・増田長盛と並んで「三奉行」と称され、秀吉の命令を諸将に伝えるのが重要な任務でした。

ところが、いざ現地入りすると朝鮮攻略には苦戦を強いられ、秀吉の「即座の明国境接近」という命令と、まずは朝鮮攻略に重点を置きたい現地諸将の「板挟み」となって苦しみます。特に通信網の瓦解や兵糧不足は深刻だったようで、刻一刻と旗色が悪化する現状を嘆く三成の史料も残されているほど。

現状を深刻に受け止めた三成らは、明側の使者と接触して和平の道を探ります。結果的にひとまず交渉に際して日本軍は現地から引き揚げ、三成も帰国しましたが、和平案として彼らが示した内容は明らかに秀吉軍の「勝利」と等しいものでした。なお、交渉の間にも三成は国内で秀次事件への対応や京都所司代の職務にも従事しています。

文禄4年(1595年)にはこれまで秀吉から預かっていたとされる佐和山城が正式に与えられたことが確認され、近江国に20万国ほどの領地を得ていたと考えられています。しかし、三成が中心となって進めていた明との講和条約が正式に破綻したのもこの年で、彼はすぐさま朝鮮再派兵に向けた準備に追われました。

今回はもっぱら国内で後方支援に徹した三成ですが、現地の将兵は疲弊し敗色が濃くなっていきます。苦境のさなか、慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、彼らはこれまで通り政務を執り行う一方で朝鮮からの撤退を決断。兵を国内に戻しましたが、以後三成は豊臣政権の軋轢に対処しなければならなくなります。

徳川家康との「天下分け目の戦」に敗れる

秀吉の死後、これまで一枚岩だった豊臣政権が大きく分断されていきます。我々もよく知っている徳川家康のあからさまな動きに加え、一説には石田三成と浅野長政が対立して豊臣家臣団も内部崩壊していきました。

崩壊していく五大老制度の中、ギリギリのところでバランサーとして機能していた前田利家が没すると、ついに対立の歯止めが利かなくなります。慶長4年(1599年)、三成は朝鮮出兵などの過程で反感を抱かれていた諸将によって襲撃を企てられ、伏見へ逃れて屋敷から出ることもできなくなってしまいます。

事件の結果、三成は半強制的な引退と決められ、天下の政治から事実上外されることになりました。彼らに代わって政治を動かすようになっていったのが徳川家康であり、慶長5年(1600年)には自身の指示に従わない上杉景勝の討伐を決意。三成ら後の西軍武将らも追従の構えは見せましたが、彼らの中で「家康が天下を奪っていく」という危機感が共有され、やがて「家康を打倒しなければならない」と方針が定まっていきました。

三成は毛利・宇喜多の両家を味方につけると、都における家康の拠点であった伏見城を襲撃。現場にも復帰し、いよいよ出陣の準備を万全としました。

そして同年9月15日、三成を大将とする西軍は関ケ原の戦いに挑みます。しかしながら、西軍には小早川秀秋を代表とする諸将の裏切りが続出。軍は総崩れとなり、三成は再起を賭けて落ち延びるも、捕縛されてしまいました。

彼らは市中引き回しの辱めを受けたうえ、10月1日に処刑されました。石田家も佐和山城が落とされ、滅亡。秀吉の右腕として働いた男の最期は、あまりにも寂しいものであったといえるでしょう。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)
  • 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館、1961年)





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