「石田三成」誤解か真実か!?豊臣政権を支えるも、関が原に敗れたその生涯とは
- 2020/06/25
石田三成という人物は、歴史上で必ずしも肯定的な評価をされてきたわけではありませんでした。関ヶ原合戦で三成亡き後、徳川の世になると、彼は「能力は高かったが人望がなかった」「傲慢で豊臣政権を滅ぼした」などと言われるようになってしまいます。
しかし、近年ではそんな三成の評価も上向き始めており、かつてのような不当評価も少なくなりつつあります。今回の記事では、変わりつつある三成の生涯、およびその評価を解説していきたいと思います。
しかし、近年ではそんな三成の評価も上向き始めており、かつてのような不当評価も少なくなりつつあります。今回の記事では、変わりつつある三成の生涯、およびその評価を解説していきたいと思います。
秀吉に出会い、小姓に取り立てられる
永禄3(1560)年、三成は近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)に生まれました。父は石田正継という人物で、地名にもなっている石田荘を中心に勢力を有する土豪であったと考えられています。その一方、当時の近江国を支配していた浅井氏に仕える家臣という性格も有していたようであり、この時点ではまだ三成躍進のヒントを見つけることができません。
三成の人生を大きく変えるキッカケになった出来事が、元亀元(1570)年に織田信長と浅井長政・朝倉義景との間で勃発した「姉川の戦い」です。ここで大勝利を挙げた信長は、浅井氏を監視するという名目で羽柴秀吉を近江国の横山城へと配置しました。
信長の勢力が強大なことは国内によく伝わっており、秀吉に従った浅井支配下の勢力も多かったといわれています。三成の父・正継もその一人であったと考えられています。
天正元(1573)年に浅井氏が滅亡したことで秀吉に旧浅井領が与えられると、三成は彼に接近していくことになります。
あるとき、秀吉が領内の観音寺を訪れて茶を所望すると、一人の小姓が茶の熱さを変え、それに応じて器の大きさも変えて3度茶を出し、秀吉のノドの渇きをいやしたといいます。
これが三成と秀吉の出会いで有名な「三献の茶」のエピソードですが、これは創作であるという見方が有力です。三成が秀吉の小姓として近侍していたのはほぼ間違いないのでしょうが、具体的な行動については有力な史料が残されていません。
ただし、後で見ていくように三成の出世速度は異例ともいうべき速さであり、飛びぬけて優秀な人物であったということ自体は間違いないでしょう。
秀吉の側近として台頭
三成の活動が確かな史料で確認できるようになるのは、天正11年(1583年)以降のことです。とはいえ、すでにこの時点で三成の存在は他家にまで広く知れ渡っていたようで、文書によっては浅野長吉や増田長盛らと並んで彼の名前を確認することができます。
当時の織田家は信長死後の覇権をめぐり、秀吉は柴田勝家と対立していました。越後の上杉景勝も柴田勝家と敵対していたため、秀吉と結ぶことで他の信長旧臣をけん制しにかかりました。
秀吉と上杉家の連携交渉において、実働部隊として細かな実務を任されたのが三成です。さらに同年の賤ケ岳の戦いでは敵情偵察を担当し、勝家派を倒すことに貢献しています。
柴田家が滅ぶと、秀吉と上杉の領地が接近したことから両者の関係に緊張が走りますが、三成は交渉役として十分な責務を果たしており、やがて上杉家はのちの豊臣政権においてなくてはならない存在となっていくのです。
天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いには参戦していませんが、ここから三成の役回りが戦場で敵と戦うことではないということがわかります。基本的に秀吉のそばで近侍することこそが仕事であり、講和によって戦いが終結すると、誕生した秀吉政権の中枢を担うようになりました。
紀州攻めや四国攻めにおいても近侍し、天正13(1585)年に秀吉が関白就任を成し遂げると、三成も従五位という身分に叙任され、「治部少輔」という官職に就任しました。
彼が「治部殿」と呼ばれるのは、この官職が由来です。以後の三成は秀吉の東国政策において中心的な役割を果たすことになります。
豊臣政権下で吏僚としての功績を重ねる
天正14(1586)年には上杉景勝・徳川家康といった大大名が秀吉の配下に属すようになりますが、三成はそうした大大名を相手に秀吉側の交渉役として力を発揮しています。さらに、同年中には堺奉行の役にも任じられ、東国だけでなく堺の行政までを取り仕切ることに。彼の堺奉行就任は当時秀吉が構想を練っていた九州平定を意識しての人事異動、とみる意見もあり、堺商人らから西国事情を収集することも期待されていたようです。
九州平定に際しては、秀吉と九州で活躍する諸将との取次を引き受けていました。秀吉が九州へ出向くと本陣中から彼の命令を遂行することに従事していたと考えられ、秀吉からの絶対的な信頼を感じ取ることができます。
九州平定の後、三成は新たに秀吉の軍門に下った島津家への指南役に就任します。
島津氏へあれこれと指示を出していく中で、当時当主であった島津義久よりも義弘のほうがより交渉相手として適任であると感じたようです。その結果、秀吉は基本的に島津家の当主を義弘と認識したようで、彼宛に多くの指示を出しています。
その他にも、未だに大きな勢力を有していた本願寺対策や、上杉景勝の頃より継続していた東国における支配秩序の確立にも従事しており、非常に精力的な働きを見せていたことがハッキリしています。
しかし、三成の東国支配の政策は一筋縄で遂行できるものではありませんでした。
奥州の伊達政宗が蘆名氏を攻めたことで一気に緊張感が走り、秀吉の怒りを買っています。さらに、一応は従属することで合意していたはずの関東の北条氏も秀吉の意向に従わないなどし、天正20(1590)年にはついに小田原攻め(北条攻め)が決定されます。
三成はこの時期までにおおむね7~8万石を手にする大名に取り立てられていたと考えられ、小田原攻めではこれまでと異なり「武将」として戦に参加しました。
彼は敵方の館林城を落とすと、忍城を「水攻め」によって攻略します。ただ、三成の忍城攻めは有名な一方で、「水攻め」という戦略は彼独自の発案というわけでもなければ、大軍を指揮した経験に乏しい三成が、諸将に細かく作戦進行の確認を取っていたのも事実のようです。
小田原攻めで北条が滅亡すると、三成はふたたび「本業」である各大名との折衝役に戻り、特に奥州仕置で力を発揮しました。諸大名の領地替えや一揆の対応などを行うなど、奥州と京都を行き来する多忙な生活を送っています。
三成は何度か領地替えを行っていますが、天正19(1591)年の時点で彼の領地としてはもっとも有名な佐和山に拠点を置いていたことが確認できます。
当時、三成が佐和山城を領有していたかまではハッキリしていませんが、たとえ領有していたとしても多忙を極めていたため、城にいた時間は決して長くなかったように思えます。
朝鮮出兵における三成の活躍
文禄の役
天正20(1592)年、天下人となった秀吉はかねてからの構想であった唐入りを目指し、諸将を朝鮮の地へ派遣しました。三成は前線基地の名護屋城において島津氏や琉球との交渉を済ませると、自身も秀吉に代わって朝鮮へ渡海。大谷吉継・増田長盛と並んで「三奉行」と称され、秀吉の命令を諸将に伝える重要な任務でした。
ところが、いざ現地入りすると朝鮮攻略には苦戦を強いられ、秀吉の「即座の明国境接近」という命令と、まずは朝鮮攻略に重点を置きたい現地諸将の「板挟み」となって苦しみます。
特に通信網の瓦解や兵糧不足は深刻だったようで、刻一刻と旗色が悪化する現状を嘆く三成の史料も残されているほどです。
現状を深刻に受け止めた三成らは、明側の使者と接触して和平の道を探ります。結果的にひとまず交渉に際して日本軍は現地から引き揚げ、三成も帰国しましたが、和平案として彼らが示した内容は明らかに秀吉軍の「勝利」と等しいものでした。
なお、和平交渉の間にも三成は、文禄4(1595)年に起きた秀次事件への対応や京都所司代の職務にも従事しています。
また、同年にはこれまで秀吉から預かっていたとされる佐和山城が正式に与えられたことが確認され、近江国に20万国ほどの領地を得ていたと考えられています。
慶長の役
慶長元(1596)年になると、三成が中心となって進めていた明との講和条約が正式に破綻、彼はすぐさま朝鮮再派兵に向けた準備に追われます。年が明けてすぐに開始された2度目の朝鮮出兵においては、もっぱら国内で後方支援に徹した三成ですが、現地の将兵は疲弊し敗色が濃くなっていきます。
苦境のさなか、慶長3(1598)年に秀吉が没すると、彼らはこれまで通り政務を執り行う一方で朝鮮からの撤退を決断。兵を国内に戻しましたが、以後三成は豊臣政権の軋轢に対処しなければならなくなります。
天下分け目・関ヶ原合戦で敗戦
秀吉の死後、これまで一枚岩だった豊臣政権が大きく分断されていきます。徳川家康のあからさまな天下取りへの動きに加え、一説には石田三成と浅野長政が対立して豊臣家臣団も内部崩壊していきました。崩壊していく五大老制度の中、ギリギリのところでバランサーとして機能していた前田利家が慶長4(1599)年に没すると、ついに対立の歯止めが利かなくなります。
三成は朝鮮出兵などの過程で反感を抱かれていた諸将によって襲撃を企てられ、伏見へ逃れて屋敷から出ることもできなくなってしまいます。事件の結果、三成は半強制的な引退と決められ、天下の政治から事実上外されることになりました。
そうした間にも政治を動かすようになっていったのが徳川家康でした。慶長5(1600)年には自身の指示に従わない上杉景勝の討伐を決意します。
三成らのちの西軍武将らも追従の構えは見せましたが、彼らの中で「家康が天下を奪っていく」という危機感が共有され、やがて「家康を打倒しなければならない」と方針が定まっていきました。
こうした中、三成は毛利・宇喜多の両家を味方につけて挙兵し、京都における家康の拠点であった伏見城を襲撃。現場にも復帰し、いよいよ出陣の準備を万全としました。
同年9月15日、三成を大将とする西軍はついに関ケ原の決戦に挑みます。
しかしながら、西軍には小早川秀秋を代表とする諸将の裏切りが続出。軍は総崩れとなり、三成は再起を賭けて落ち延びるも、捕縛されてしまいました。
彼らは市中引き回しの辱めを受けたうえ、10月1日に処刑されました。石田家も佐和山城が落とされ、滅亡。秀吉の右腕として働いた男の最期は、あまりにも寂しいものであったといえるでしょう。
【参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)
- 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館、1961年)
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