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織田と良好な関係だった長宗我部。なぜ一転して信長に睨まれた?

戦ヒス編集部
 2017/10/18

長宗我部元親は信長と好を通じて良好な関係を築いていました。しかし四国統一が近づくにつれ、突如信長の気が変わり、暗雲が立ち込めるようになります。

一体どのような経緯でそのようになったのでしょうか。本記事では元親の外交、特に織田家と長宗我部家の関係にフォーカスしてその変遷を詳しくみていきたいと思います。

織田と毛利の領地が隣接

天正3(1575)年に土佐統一を果たした元親は、まもなく四国への侵攻を開始することになります。

土佐国だけでは家臣に十分な恩賞(知行地)を与えることはできなかったため、さらなる所領の獲得が必要だったのです。元親の四国進出の戦いの詳細は別記事で取り上げていますので割愛します。ここでは中央の情勢をみていきましょう。

この時期における中央政権は織田政権です。信長はすでに政権を樹立して15代将軍・足利義昭をも追放し、中央を完全に掌握していました。

その勢力範囲は幾内どころか、西の中国や北の北陸方面に進出する程までに至り、中国の覇者・毛利氏の支配領域とも隣接しており、両者がその境界にある有力国衆らを勧誘していた時期でもありました。

「織田氏 vs 毛利氏」という大大名の全面対決が目前にせまる時期でもあったのです。

ちなみにかつては中央政権を牛耳り、長宗我部家の後ろ盾でもあった細川京兆家は、すでに見る影もないほどに権力が失われていました。

当主の細川昭元は、三好政権のもとでは名目上の管領というだけで力はなく、織田政権になってからは将軍義昭に臣従。将軍追放後は信長の傀儡として利用される始末だったようです。

信長に接近し、好を通じた元親

元親はこうした情勢を鑑みて、同年10月に信長に誼を通じようと接近。使者を送って信長の重臣・明智光秀を通じて四国への進出を伝えたといいます。

光秀を介したのは、元親の妻が斎藤利三の妹(または石谷氏の娘)であり、斎藤利三や石谷氏は光秀の家臣であったからです。ただし、元親はこれより以前に信長と接触したという説や見解もあるようです。

天正6(1578)年の時点で、史料から以下の点が確認できるため、元親は明智光秀を介して引き続き、信長と良好な関係を続けていたことがうかがえます。

  • 元親の嫡男・弥三郎(のちの長宗我部信親)が信長の一字を拝領した
  • 元親が、上記の事と阿波攻略の事を、義兄の石谷頼辰に伝えている

織田・毛利・長宗我部の関係

一方、織田と毛利はすでに衝突しており、この年の戦局は以下のように毛利方が優勢でした。

  • 播磨国の別所長治が織田から毛利へ転じる。
  • 織田方の尼子再興軍が守備する上月城が、毛利軍によって陥落させられる。
  • 信長家臣の荒木村重が謀反、摂津有岡城へ籠城して毛利に通じる。

しかし、翌天正7(1579)年になると、以下のように次第に織田方優勢に傾いていきました。

  • 備前国の宇喜多直家が毛利から織田へ転じる。
  • 織田方の攻撃で有岡城が陥落。
  • 毛利方の伯耆羽衣石城の南条氏が謀反。
  • 年末には三木城が陥落寸前に。

元親は二重外交をしていた?

同年末には長宗我部氏と毛利氏との関係もうかがえます。

というのも、毛利方の小早川隆景が、長宗我部氏と河野氏の和睦に動いていた形跡があるからです。実際、以後しばらくは長宗我部氏と河野氏の対立がみられないことから、毛利が和睦を仲介したと考えられています。

このことからわかるのは、長宗我部氏はこの時点で織田、毛利のいずれとも敵対関係になかったということです。元親は2重外交を行なっていた、と捉えてもいいかもしれません。

信長と元親の間に不協和音

四国進出の過程において、織田信長と友好関係にあった元親ですが、天正8(1580)年に入ってしばらくすると、その関係に陰りがみえはじめます。

同年の6月、元親は弟の香宗我部親泰を派遣して三好康俊を服属させたことの報告、さらに阿波国の支配を目的として、三好康長との友好を信長に依頼しています。これに対して信長は異議がなかったようです。

また、時期は定かではありませんが、『元親記』によると、「四国のことは元親の手柄次第に切り取ればよい」との信長の朱印状を与えられたといいます。

しかし、この後に事件が起きます。

本願寺の残党が阿波へ侵入

時期ははっきりしませんが、同年、元親が讃岐の十河城・羽床城を包囲中に、大阪本願寺の残党が三好氏を頼って阿波国へ入ってきました。

彼らは紀伊の雑賀衆と淡路の勢力を引き連れて、三好の本拠である阿波国勝瑞城を長宗我部方から取り戻したといい、続けて一宮城も包囲したといいます。

これに乗じて牛岐城主・新開道善も雑賀と結んで背いたようだが、これは長宗我部方に敗北したようです。 また、勝瑞城の過半は雑賀の連中が支配するような状況になったとの記録もあります。

このように三好氏が本拠に復帰すると、隣の讃岐国でも動揺がおき、長宗我部から離反する国衆が相次ぎ、ここにきて元親の四国経略は膠着状態となるのです。

ここで、同年の中央戦局における本願寺と雑賀衆についてみていきましょう。

雑賀衆は、以前から本願寺らとともに反織田勢力として戦っていたものの、既に信長と和睦を結んでいました。ただし、一部の残党勢力はまだ本願寺に加担して信長に抵抗していたようです。

しかし、同年に本願寺顕如が信長と和睦を結んで雑賀へ向かうと、信長に抵抗する雑賀衆はいなくなったとみられています。

ちなみに、顕如の子・教如はそのまま本願寺に籠もって信長に抵抗する姿勢をみせましたが、8月までに本願寺を明け渡しています。つまり、本願寺顕如が雑賀へ行ってからは、本願寺も雑賀衆も基本的には信長と敵対関係ではなくなったということです。

信長に疑念をもつ元親

ここで疑問となるのは、本願寺の残党や雑賀衆はなぜ、三好氏に加担して阿波へ攻めてきたのでしょうか?

この疑問は元親自身が抱いたようであり、同年11月に元親から信長重臣・羽柴秀吉に宛てた書状でうかがえます。書状では元親が秀吉に以下の旨のことを伝えています。

  • 紀伊の者(=雑賀衆か?)が四国における朱印状をもらって蜂起しているが、これは信長公のどういう命令か?
  • 上記の理由がわからないので、紀伊の者への攻撃を遠慮した。
  • 阿波と讃岐を攻略した暁には、西方の戦争を手伝わせていただく。
  • 紀伊の者を押さえてくれれば、阿波・讃岐両国の征服はすぐにでも可能だ。

これをみる限り、元親は信長自身が本願寺の残党勢力を動かしているのではないか、と疑念を抱いています。また、そうした中でも元親は信長に従う姿勢を崩していないのがわかります。

結局のところ、阿波へ侵入した本願寺の残党や雑賀衆が、単に反信長の集合体だったのか、それとも元親が言うように信長の手足として動いた者なのか、ハッキリとわかっていません。

三好康長に介入させる信長

一方で同じ頃、信長は淡路国を平定し、ついに三好康長に阿波・讃岐平定を命じました。

三好康長は、三好一族で三好長慶の叔父にあたり、宗家の三好義継が滅ぼされた後も、幾内で最後まで信長に抵抗していました。ただ、このときは既に信長の家臣として本願寺との和睦交渉も担当するなど、重用されていた人物です。

康長は阿波国の回復を望んでいましたが、さらに讃岐国の十河在保、伊予の河野氏や西園寺氏もまた、元親に奪われた所領回復を望んで信長を頼っていたようです。

天正9(1581)年3月には、康長が阿波の岩倉城に入って長宗我部方にあった同族の三好康俊を説得して織田方に寝返らせ、十河存保と共同で失地回復を企てたといい、元親に服属していた国衆らも康長へ転じる動きがみられたといいます。

信長が四国への介入を決めたのは、さらに何者かが讒言したことにあったようです。

「元親は西国に並ぶものがないほどの武士だから今後(信長の)天下統一の妨げになる、元親が阿波と讃岐を制圧すれば、すぐに淡路にも手を出すでしょう。」

信長は元親の四国制覇を手柄次第としていましたが、これを聞いて一転し、「伊予・讃岐を取り上げ、土佐と阿波の南半国の支配のみを認める」と元親に言ったようです。

絶対絶命!信長の四国出兵

三好康長を派遣して四国に介入する信長に対し、元親は「四国は自分の手柄で切り取ったものであり、信長からの恩義ではない。思ってもないことに、驚いている。」(『元親記』)と言って反発したといいます。

天正10(1582)年2月には、明智光秀の使者として元親の義兄・石谷兵部少輔が元親のもとにやってきているが、そのときの内容は残念ながらわかっていません。

5月7日には、従わない元親をよそに、信長はついに四国遠征を決定します。このとき、三男の織田信孝に対して以下の計画を伝えています。

  • 信孝を三好康長の養子とする。
  • 讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
  • 伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。

5月11日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日に出発する予定を立てました。 また、すでに三好康長は先鋒隊として渡海して阿波国勝瑞城に入り、長宗我部方の一宮城・夷山城を攻め落としたといいます。

信長に降参か?

信長の四国介入を拒絶し、窮地に立たされた元親だが、実はここにきて一転して従う姿勢をみせたようです。 5月21日付けの斎藤利三に宛てた元親書状でうかがえます。

  • 今回、進物の用意が間にあわず、信長の命令を受けるのが遅れた。
  • 一宮城、夷山城、畑山城、牛岐城、仁宇城など、信長の命令に応じて明け渡す
  • 海部城と大西城は、土佐の入口を守る要所だから長宗我部方に残してほしい。讃岐と阿波がほしいわけではない

上記をみるかぎり、さすがの元親も信長相手に戦うのは無謀とみて、必死に弁明したようです。 しかし、その後に元親にとって九死に一生を得る出来事が起きるのです。

ご存じのとおり、6月2日に信長が横死した「本能寺の変」です。この驚愕の出来事により、翌3日に予定されていた信孝らの四国出兵は中止となりました。

元親は、長宗我部氏と縁の深い明智光秀の謀反によって、奇跡的なタイミングで難を逃れたのです。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん


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