「等持院の戦い(1520年)」高国vs澄元、ついに決着。三好之長の最期
- 2020/09/10
管領・細川政元の後継者をめぐる争いは、政元の暗殺(永正の錯乱)を経て、政元の養子である高国と澄元の対立に発展しました。
この両者の戦い(両細川の乱)は世代交代をしながら数十年に渡って続きますが、ここで取り上げる「等持院の戦い」で高国と澄元の戦いは一応の決着をみます。
この両者の戦い(両細川の乱)は世代交代をしながら数十年に渡って続きますが、ここで取り上げる「等持院の戦い」で高国と澄元の戦いは一応の決着をみます。
船岡山合戦の後
永正4(1507)年の細川政元の暗殺後は、以下の図のように後継者&中央政権の争いは高国と澄元に絞られました。その翌永正5(1508)年には、中国地方の有力大名である大内義興を味方につけた高国が、澄元を近江に追いやって政権を手にします。しかし、澄元が引き下がるワケもなく、両者の争いは長期化(両細川の乱)するのです。
◆ 高国派
- 細川高国
- 足利義稙(10代将軍)
- 大内義興
VS
◆ 澄元派
- 細川澄元
- 足利義澄(11代将軍)
- 三好之長
参考までに上記はこの頃の対立構図です。ご覧のように両者の争いは単なる細川家の後継者争いではなく、将軍家(義稙・義澄)の対立も絡んだ複雑な戦いでした。
永正8(1511)年の船岡山合戦では、澄元派は大敗しています。合戦の直前に足利義澄が急死した上に、この出兵に反対していた澄元派の主力である三好之長が不参加という中での敗戦でした。
勝利した高国は細川京兆家の家督を相続し、管領として実権を握り、その後数年間勢力を誇りました。一方の澄元は、敗北後は阿波へ逃れていたものと思われます。このころの澄元の記録は少なく、動きははっきりとはわかりません。
澄元の好機
数年後に、願ってもないチャンスが訪れます。永正15(1518)年に、高国派を軍事面で支えていた周防の大内義興が帰国してしまったのです。澄元、之長らはこの高国方が不安定なタイミングをねらって動き、永正17(1520)年、ついに高国に勝利します。
高国が近江へ逃れると、将軍・足利義稙は高国を見限って澄元に近づき手を組みます。義稙はすぐに、澄元が細川京兆家の家督を継ぐことを認めています。
等持院の戦い
しかし、澄元の時代は長くは続きませんでした。義稙の手のひら返しに焦った高国は、同年5月のはじめには近江守護の六角氏を味方につけ、東山の如意ヶ嶽に布陣したのです。高国方は、六角定頼・朽木稙綱・蒲生定秀・越前の朝倉氏・美濃の土岐氏らを含むおよそ2万の大軍で、同じく味方につけた丹波の内藤貞正は7000の兵を率いて船岡山に出陣。
これに対して、将軍邸の近く、三条・等持院あたりに布陣した澄元軍はわずか4000~5000余りであったようです。
之長は高国の反撃に全く備えていなかったのか、と疑問に思いますが、どうやら義稙の支援を期待していたようなのです。
もちろん準備不足もあったでしょう。また、澄元は指揮を執ることができないほどの病で姿はなく、澄元方の兵の士気は下がりに下がり、高国に降る者が続出しました。これにより高国軍は最終的に4万にまでふくれあがったとか。
合戦は5月5日の正午に始まりました。之長は劣勢ながら局所では奮闘し、よく戦いました。しかし澄元方であった久米・川村・東条らが午後6時ごろに高国に降り、午後8時ごろに戦いは終わりました。
敗者・之長の世評
京都の町医者の半井保房の日記『聾盲記』によれば、離反して高国に降った国人たちは、之長がこのまま敗れて阿波に帰国すれば、人質にとっていた自分達の妻子を殺すに違いないので、先回りして妻子を奪還しなければならない。それが高国に降った理由であると言ったとか。これを見るとどうやら之長は国人たちから信頼できる人物とは見られていなかったようです。
半井保房はこれ以外にも、「天罰にて~」とか「今三好は大悪の大出なる者」と悪しざまに言い、栄華も一瞬に滅ぶさまを項羽に例えられています。
このほかにも鷲尾隆康が『二水記』の中で「往年令滅却堂塔、其悪逆之報難逃之謂歟、生者必滅之境界為眼前何人不思此理乎」というように、酷評しています。
之長にも澄元に家督と管領の座を、という大義があるのですが、敗者は悪く言われるのが世の常です。戦いで被害を蒙った市民にとってはそんなことは関係なく、敗者でしかなかったのかもしれません。
之長の最期
敗れた之長は、子の長光と長則、甥の新五郎とともに通玄寺塔頭曇華院を頼って隠れていました。早々にどこかへ落ち延びてしまえばよいものを、このように近場に隠れる選択をしたのは、肥満体型の之長は長距離を逃走することができなかったためであったとか。
高国は之長の居場所を見つけると、命を保証する約束で彼らを投降させます。通玄寺は将軍の縁者の女性が入る尼寺でした。院主は引き渡しを拒みましたが、かなうことなく降ることになったのです。之長の子ふたりは10日に、之長と新五郎は11日に降りました。
命は保証されたはずでしたが、高国は之長らを処刑しました。これは、昨年之長に父・細川尚春を殺された彦四郎の訴えによるものであったといわれます。
失意の澄元は阿波で病死
一方で之長の敗北と死を知った澄元は阿波へ逃れましたが、すでに病は重く、失意のうちに勝瑞城にて亡くなっています。高国派と澄元派の戦いは、澄元と之長の死により、一旦は決着がついたことになりますが、のちに澄元と之長の遺児(晴元と元長)が立ち上がり、打倒高国を成し遂げることになるのです。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
- 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2017年)
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
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