「船岡山合戦(1511年)」細川高国VS細川澄元の決戦?足利義澄の急死で高国勝利

船岡山合戦とは、細川政元の後継者をめぐる一連の内乱「両細川の乱」の合戦のひとつです。高国が政権をとってしばらくは高国・大内義興の大軍に太刀打ちできなかった澄元でしたが、阿波で軍を整え、また複数の味方を得ると優勢に転じました。

細川京兆家当主の座を高国に奪われた澄元、そして将軍の座を先代将軍の義稙に奪われた義澄による、政権奪回に王手をかける戦いです。

両細川の乱

明応の政変で権力を握った細川政元は、修験道に没頭していたため生涯独身を貫き、実子がありませんでした。

後継者候補は、3人の養子(澄之・澄元・高国)です。最初に養子となった澄之が廃嫡され、後継者として血縁の澄元が確実視されるようになると、澄之派の内衆は永正4(1507)年6月23日に政元を暗殺して澄之を当主に立てました(永正の錯乱)。

しかし、まもなく澄之はもうひとりの養子である高国に討たれてしまいます。その後は澄元が正式に家督を相続しますが、今度は澄元と高国の間で当主をめぐる争いが勃発します。

この抗争に絡んできたのが、明応の政変で2系統に分かれていた将軍です。明応の政変後、周防の大内義興を頼って将軍再任のチャンスをうかがっていた先の将軍・足利義稙は、政元暗殺の混乱を好機ととらえ、義興を伴って上洛しました。これと通じたのが高国です。

義稙・高国・義興が永正5(1508)年4月に上洛すると、将軍・義澄と澄元は近江へ逃亡。こうして、将軍に再任された義稙と、細川京兆家の家督を継いだ高国が政権を掌握することになりました。



勢いをつける義澄・澄元軍

永正6(1509)年に細川高国が政権を掌握して以来、細川京兆家の当主の地位を奪われた立場の細川澄元は京都奪回のための戦い(如意ヶ嶽の戦い)に敗れて辛酸をなめていました。

しかし永正7(1510)年に阿波で軍を整え、細川典厩家の細川政賢、淡路守護の細川尚春、播磨守護の赤松義村を味方に引き入れると、反撃に打って出ます。

政賢や、和泉上守護の細川基常らが澄元軍として戦った永正8(1511)年7月13日の深井の合戦で高国軍に勝利すると、続けざまに、義村や尚春が澄元軍として戦った芦屋河原の合戦にも勝利。

分かれて戦っていた両軍は合流して8月16日に京へ入り、見事京都奪回を果たします。この勢いにおされた高国・義興の軍は迎撃を避けるようにして丹波に撤退しました。

義澄の突然死

阿波で四国勢上洛の準備を進める澄元だったが…

そのころ、澄元は近江を離れて故郷の阿波にいました。義澄の命を受け、四国勢を集めて上洛の準備を進めていたのです。

四国勢を伴って上洛した澄元軍、近江から上洛する義澄軍、摂津方面からやってくる政賢軍によって高国軍を挟み撃ちにする手筈となっていました。

ところが、思ってもみなかった出来事によって計画は崩れます。船岡山での合戦を前に、近江から攻めるはずであった義澄が8月14日に近江の水茎岡山城で病死してしまったのです。32歳の若さで、突然の死でした。

これを知った高国はすぐさま反撃に出ます。

船岡山合戦

8月23日、高国と義興の軍が北山に陣取ると、澄元方の軍は船岡山に陣を構えました。船岡山は比高40mの山で、高国方がやってくる丹波からの道を見渡すにはちょうどいい場所でした。

しかし、澄元方の軍が数千程度であったのに対し、高国方の軍は2万を超える数(『厳助往年記』によれば、義稙軍が2000、高国軍が3000、義興軍が8000、畠山義元軍が300ほどであった)で、圧倒的に優勢でした。

高国方で、強大な軍をもつ義興がいかに軍事的に重要な存在であったかがよくわかります。

船岡山合戦マップ。色塗部分は山城国


24日に戦闘が始まると、澄元方では総大将の政賢を始め、多くが討死して大敗を喫しました。細川元常はなんとか生き延びて阿波に逃れますが、この戦によって船岡山周辺はおよそ5000人もの死体で埋め尽くされたといいます。

之長は参加していなかった?

ところで、澄元方の指揮官を見て気になるのが、これまで澄元とともに戦ってきたはずの之長が不在であるということです。

実は、このとき阿波細川家の年長者であり、若い澄元の後見を務めていたらしい祖父の成之(しげゆき)が出陣に反対していたようで、之長も成之の「時期尚早」との意見に賛成し、出兵を見合わせていたのだといいます。

はやる澄元が意見を聞き入れないことに反発した之長は、一時は高国派と内通していたという話もあります。これにより一時的に関係が悪くなっていたふたりですが、成之の死後、高国や義稙が細川尚春の子・彦四郎に阿波細川家の当主を与えようとしていることがわかると、共通の敵が現れたことをきっかけに関係を修復したようです。

ちなみに、高国らは尚春の子に阿波細川家を与えるというカードをちらつかせ、澄元派であった尚春を親子ともども高国派に引き込んだようです。

細川京兆家の内乱のその後

京都を奪回し、いよいよ高国との決戦を、と意気込んで臨んだであろう澄元は、船岡山合戦での大敗を受けて再び阿波へ戻ります。
義澄の死のショックだけでなく、同年9月には祖父の成之が78歳で亡くなり、近しい人を続けざまに失った澄元は精神的にかなり落ち込んでしまうのでした。

数年後、チャンスがめぐってきました。澄元や之長は、永正15(1518)年に高国方の軍事の要であった大内義興が周防へ帰国すると、再び反撃に出ます。永正17(1520)年には越水城を落とし、高国・義稙を近江へ追いやることに成功します。

このころ、高国に見切りをつけたらしい義稙が澄元と通じたこともあり、澄元は細川京兆家の家督を取り戻しました。義稙に家督を認められたお礼として、澄元は之長を名代に立て、義稙に対して馬や太刀を進上しています。

しかし、喜びもつかの間。近江へ逃れた高国は近江守護の六角氏の支援を得て舞い戻りました。六角氏の軍を含む4~5万の高国軍に対し、澄元方はろくに兵を用意することもできず、わずか数戦で対峙することになります。

この等持院の戦いで澄元方の主力である三好之長とその子・甥らは処刑され、そして澄元自身も失意の中で阿波に帰国すると、勝瑞城で病死します。

船岡山合戦ののちに澄元・之長を討って死に追いやった高国はその後、義澄の遺児である義晴を将軍に立てて政権を掌握します。しかし、両細川の乱は澄元・之長の死をもって終わったわけではなく、その遺児ら(澄元嫡男の晴元・之長の孫の元長など)に引き継がれていくのでした。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 長江正一著・日本歴史学会編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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