「相国寺の戦い(1551年)」再起をかけた幕府軍、多勢に無勢で三好長慶に成す術なし。

三好政権下の近江で苦汁の日々を送る将軍・足利義輝と細川晴元は、再起をめざして長慶軍と交戦を重ねましたが、天文19(1550)年の中尾城の戦いでは長慶軍の攻撃の勢いに焦り撤退しました。翌年、長慶の暗殺を企てて三好方をかき乱した幕府軍は、再び兵を挙げます。

三好長慶暗殺未遂事件

天文19年の中尾城の戦いの後、三好長慶は一時平穏を取り戻した京で治安維持に動いていました。このころ三好政権の行政面で活躍したのは松永久秀です。

一方、撤退して再び近江に戻った義輝は、このまま正面から長慶と戦っても膠着状態が続いて埒が明かないと考えたのか、長慶の暗殺を目論みます。

天文20(1551)年、長慶は3月4日に幕臣の伊勢貞孝の邸を訪れ、酒宴を行いました。この情報を聞きつけた義輝が刺客を送り込んだのか、数日後の3月7日、吉祥院で長慶が貞孝を招いて開いた宴にて事件が起こります。

吉祥院の宿所に何者かが侵入し、放火未遂事件を起こしたのです。この犯人はすぐに捕まえられて翌日に処刑されました。

ほとんど日を置くことなく、2回目の事件が起こります。今度は貞孝の宿所での酒宴で、奉公衆の進士賢光(九郎)が長慶を斬りつけたのです。このとき長慶は三刀つかれたもののなんとか軽傷で済みました。

失敗した下手人の進士賢光はその場で自害しました。暗殺の理由は、長慶への遺恨のため。『細川両家記』には、「御所様(義輝)より仰せつけられたる」ものであったと記録されています。

軍記物の『足利季世記』によれば、斬りつけられた長慶が助かったのは、長慶に同伴していた同胞の茶坊主が進士を抱きとめ、長慶が床に転がっていた枕で受け止めたためだとか。

暗殺は失敗に終わりましたが、15日には晴元家臣の三好政勝(政長の子)、香西元成、柳本氏、宇津氏らが上洛して放火しており、暗殺と連動した騒ぎと見られます。

遊佐長教暗殺事件

また、同年5月5日には長慶の岳父で河内守護代の遊佐長教(ながのり)が暗殺される事件も起こります。

長教は自身が帰依していた時宗の僧侶・球阿弥(じゅあみ)と会って酒を飲んでいたところ、酩酊して横になった長教に珠阿弥が襲い掛かって殺しました。珠阿弥がその後どうしたのかは、目撃者がいないためよくわかっていません。

3月に二度の長慶暗殺未遂事件があった後のこと、長教が長慶に近しい人物であることもあって、首謀者は義輝ではないかといううわさも流れたようですが、このあたりははっきりしません。黒幕は義輝ではなく、河内の有力国人の萱振氏ではないかともいわれています。

長教亡き後、萱振氏は高屋城の城代になっています。この話は長教に恩のある家臣・安見直政の耳に入り、主君の仇討のため、萱振氏ら主従が粛清されて事件は幕を閉じます。

相国寺の戦い

一連の事件がすべて義輝の指示によるものかどうかは定かではありませんが、三好方が混乱する中、幕府方はそれに乗じて兵を挙げます。

7月14日、主力は晴元家臣の三好政勝、香西元成、柳本氏、山本氏、山中氏ら総勢3000あまりで、彼らは臨済宗相国寺派の大本山・相国寺に陣取りました。

これに対して、三好方の指揮を執ったのが長慶家臣の松永久秀・長頼兄弟で、彼らが率いた摂津・丹波を中心とする軍は4万にもなりました。

相国寺の戦いマップ。色塗部分は山城国

3000と4万。10倍以上の兵力差で多勢に無勢。相国寺に立て籠もった幕府方は4万の軍勢に取り囲まれ、翌15日に敗走し、相国寺は炎上しました。

足利将軍家ゆかりの相国寺は度々火災が起こっています。応仁の乱で戦いの細川氏の陣地として戦いの舞台になり焼失したあと、また細川氏によって戦に巻き込まれた形です。

義輝は長慶と和睦へ

相国寺の戦いの後、状況は大きく変わります。武力で反抗しても長慶にはかなわないと察してか、和睦に向かっていったのです。

和睦を斡旋したのは近江の守護・六角定頼です。幕府方の晴元は定頼の姉婿にあたり、そのつながりもあって長く晴元を支援して三好方と戦ってきました。

義輝や晴元は六角氏の援助なしで長慶に抵抗するのは難しく、この状況では長慶を破って帰京することは到底不可能です。長く幕府方を支援し、六角氏全盛期を築き上げた定頼が天文21年正月に亡くなったことも大きかったのでしょう。

その後も和睦は定頼嫡男の義賢によって進められ、1月中にまとめられました。当然、幕府方有利の条件ではまとまりませんでした。

  • 晴元の嫡男・聡明丸は長慶が預かって取り立てること。
  • 細川京兆家の家督は高国系の細川氏綱が相続すること。
  • 義輝は上洛すること。

こうして義輝はようやく帰京し、数千人に出迎えられました。

晴元の嫡男でわずか7歳の聡明丸(のちの細川昭元)は長慶の嫡男・千熊丸(のちの義興)に迎えられて東寺に入りました。実質、三好の人質です。長慶は将軍の御供衆となり、幕臣の仲間入りを果たします。

一方、この和睦に納得がいかないのが晴元です。嫡男が人質に取られてもなお和睦を認められず、晴元は出家して剃髪し「心月一清」と号して出奔し、若狭の武田信豊を頼っていきました。

往生際の悪い晴元のせいか、この和睦以降もまた義輝と晴元が結託して抵抗するなど、幕府軍と三好政権の戦いはまだまだ続くのです。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
  • 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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