迂回して奇襲?それとも正面攻撃?「桶狭間の戦い」の謎を探る
- 2022/12/09
永禄3年(1560)5月19日、織田信長は桶狭間の戦いで、尾張に侵攻してきた今川義元を打ち破った。以下、合戦にまつわる諸説を取り上げ、その謎を探ることにしよう。
などがある。
近年では、織田氏との長年にわたる抗争に蹴りを付けるため、尾張に出陣したという③説が有力視されており、①の上洛説は成り立たないとの意見が根強い。
戦いの結論を先に述べておこう。同年5月19日の午後、桶狭間は突如として視界を妨げるような豪雨に見舞われた。織田方はこの悪天候に乗じて、義元の本陣に突撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。義元は毛利良勝に組み伏せられ、首を討ち取られたのだ。義元を失った今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。これが通説として知られる合戦の経過で、信長は義元の本陣に奇襲攻撃を仕掛け、勝利したといわれている。
ここで、改めて桶狭間の戦いの合戦の経過を考えてみよう。桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、先述した奇襲攻撃と正面攻撃という2つの説がある。
同年5月19日、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破った際、義元の2~4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか2・3千の兵しかいなかった。とはいえ、義元の率いた2~4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。織豊期になると、軍役の負担は100人につき平均して3人程度だった。今川氏の駿河と遠江は約40万石だったので、将兵の数は約1万2千になる。今や確かめようもないが、今川氏の兵力はあまりに多すぎるのだ。
ともあれ、信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説となった。しかし、今や有名な「迂回奇襲説」には、異論が提示されている。
義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4・5千の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。
以上の経過の出典は、小瀬甫庵『信長記』であり、明治期の日本陸軍参謀本部編『日本戦史・桶狭間役』(元真社、1911)により、事実上のお墨付きを与えられた。当時の参謀本部は過去の合戦を分析し、来るべき戦争に役立てようとしていた。ところが、この通説には異議が唱えられた。その理由は、小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。
儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16・17年(1611・12)年説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。
そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。
また『信長記』の成立は10年ほど遡ることが立証されたことにより、『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かに関係ない。『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣る。『信長記』は桶狭間の戦いを論じるうえで、不適切な史料なのだ。
千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である。
現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。
『信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。
かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とあまりにかけ離れているので、そのまま鵜呑みにできないと考えられる。いかに義元が油断していたとはいえ、酒盛り中に首を取られるとは、あまりに不用心である。
【主な参考文献】
義元の尾張侵攻理由と、桶狭間の戦いの通説
そもそも義元が西進した理由については、- ①上洛説
- ②三河支配安定化説
- ③尾張制圧説
- ④東海地方制圧説
などがある。
近年では、織田氏との長年にわたる抗争に蹴りを付けるため、尾張に出陣したという③説が有力視されており、①の上洛説は成り立たないとの意見が根強い。
戦いの結論を先に述べておこう。同年5月19日の午後、桶狭間は突如として視界を妨げるような豪雨に見舞われた。織田方はこの悪天候に乗じて、義元の本陣に突撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。義元は毛利良勝に組み伏せられ、首を討ち取られたのだ。義元を失った今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。これが通説として知られる合戦の経過で、信長は義元の本陣に奇襲攻撃を仕掛け、勝利したといわれている。
ここで、改めて桶狭間の戦いの合戦の経過を考えてみよう。桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、先述した奇襲攻撃と正面攻撃という2つの説がある。
同年5月19日、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破った際、義元の2~4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか2・3千の兵しかいなかった。とはいえ、義元の率いた2~4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。織豊期になると、軍役の負担は100人につき平均して3人程度だった。今川氏の駿河と遠江は約40万石だったので、将兵の数は約1万2千になる。今や確かめようもないが、今川氏の兵力はあまりに多すぎるのだ。
ともあれ、信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説となった。しかし、今や有名な「迂回奇襲説」には、異論が提示されている。
迂回奇襲説
「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約3百の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。そのとき、視界を遮るような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4・5千の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。
以上の経過の出典は、小瀬甫庵『信長記』であり、明治期の日本陸軍参謀本部編『日本戦史・桶狭間役』(元真社、1911)により、事実上のお墨付きを与えられた。当時の参謀本部は過去の合戦を分析し、来るべき戦争に役立てようとしていた。ところが、この通説には異議が唱えられた。その理由は、小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。
儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16・17年(1611・12)年説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。
そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。
また『信長記』の成立は10年ほど遡ることが立証されたことにより、『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かに関係ない。『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣る。『信長記』は桶狭間の戦いを論じるうえで、不適切な史料なのだ。
正面攻撃説
最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘した。千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である。
現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。
『信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。
乱取り状態急襲説
ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪)に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある。この説は、軍学書『甲陽軍鑑』(寛永年間に成立)に基づいた説である。かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とあまりにかけ離れているので、そのまま鵜呑みにできないと考えられる。いかに義元が油断していたとはいえ、酒盛り中に首を取られるとは、あまりに不用心である。
むすび
実は、桶狭間の戦いに限らず、一次史料で合戦の状況を復元するのは不可能である。どうしても二次史料に拠らざるを得ないので、安易な新説に飛びつくのは要注意である。【主な参考文献】
- 長谷川弘道「永禄三年五月の軍事行動の意図」『戦国史研究』35号(吉川弘文館、1998年)
- 久保田昌希「桶狭間合戦の再検討」『戦国大名今川氏と領国支配』(吉川弘文館、2005年)
- 黒田日出男「桶狭間の戦いと甲陽軍鑑」『甲陽軍鑑の史料論 武田信玄の国家構想』(校倉書房、2015年)
- 藤本正行『【信長の戦い1】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社新書y、2008年)
- 藤本正行『桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算』(洋泉社歴史新書y、2010年)
- 平野明夫「桶狭間の戦い」『信長軍の合戦史 日本史史料研究会監修/渡邊大門編 1560 ─ 1582』(吉川弘文館、2016年)
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