織田信長は病気と無縁!?信長の健康法とは
- 2021/09/23
戦国武将というと戦に明け暮れていたせいで、肉体的にはかなり過酷な環境に置かれていたというイメージがある。そのせいか、あまり健康的と感じる武将がいないのも事実である。その最たるものが上杉謙信であろう。
彼は戦での強さもさることながら、酒の強さも天下一品の酒豪であった。どれだけ飲んでも乱れることが一切なかったというから驚く。謙信の好きな酒の肴は、「梅干し」「味噌」であったそうである。大量飲酒に塩分摂取過多であった謙信が、高血圧であったことは明らかであろう。事実、彼の死因は脳卒中であった。
武田信玄にしても、「隔」という病気を罹っていたらしく53歳で病没する。現代で言うところの胃癌であったという説もある。前田利家も62歳で病没する。病名ははっきりとはわかっていないが、現代医学の観点から肝硬変だという説がある。
ところが、織田信長には病気の記録がほとんど見当たらないのである。あの徳川家康ですら、44歳の時に背中に腫瘍ができて、かなり難儀したとの記述があるのに、である。このことは、信長がいかに健康体であったかを示している。彼の実践していた健康法とはいかなるものであったのだろうか。
彼は戦での強さもさることながら、酒の強さも天下一品の酒豪であった。どれだけ飲んでも乱れることが一切なかったというから驚く。謙信の好きな酒の肴は、「梅干し」「味噌」であったそうである。大量飲酒に塩分摂取過多であった謙信が、高血圧であったことは明らかであろう。事実、彼の死因は脳卒中であった。
武田信玄にしても、「隔」という病気を罹っていたらしく53歳で病没する。現代で言うところの胃癌であったという説もある。前田利家も62歳で病没する。病名ははっきりとはわかっていないが、現代医学の観点から肝硬変だという説がある。
ところが、織田信長には病気の記録がほとんど見当たらないのである。あの徳川家康ですら、44歳の時に背中に腫瘍ができて、かなり難儀したとの記述があるのに、である。このことは、信長がいかに健康体であったかを示している。彼の実践していた健康法とはいかなるものであったのだろうか。
【目次】
ルイスフロイス曰く…
織田信長というと、寝返った浅井久政・長政父子の髑髏を肴に酒宴を催したとか、酔って明智光秀に絡んだ等、酒にまつわるエピソードが多い。そのため、信長は「酒飲み」というイメージをお持ちの方も多いと思う。ところが、ルイスフロイスの『日本史』にはこうある。
「酒を飲まず、食を節し…」
なんと信長は酒を飲まなかったというのだ。酒宴の記述があるということは下戸ではなかったが、普段は意図的に酒を飲まなかったものと思われる。
さらに、信長は中肉中背で華奢な体つきをしていたという記述も見られる。「華奢」という表現は意外だが、体格に恵まれたヨーロッパ人から見れば、細マッチョな体型は華奢に見えてもおかしくはないだろう。
今川義元が肥満して馬に乗れないほどであったというのと比較して、信長は日頃から肉体の鍛練を欠かさなかったことがうかがえる。これは、信長が武芸、乗馬、水泳の修練を好んだという記述とも符合する。
以上のことからも、信長は健康体を維持できたと推測できるが、信長の健康の秘訣はそれだけではなかったようだ。
岐阜城・安土城の効用
信長は永禄10年(1567年)に小牧山城から岐阜城に本拠地を移転している。岐阜城は標高約329mの金華山に築かれた典型的な山城である。信長は山城の上り下りが日常だった?
岐阜城に移った信長は、来客用の館を麓に建設したという。フロイス『日本史』によれば、信長に所用のあるものは彼が麓の館に降りてくるのを待っていたという。ちなみに現代人が往復すると登りに50分、下りに40分かかるということがわかっている。信長に面会を申し入れる人は多かったろうから、毎日相当な時間を山歩きに費やしたであろうことは想像に固くない。ひょっとすると、これは以前より忙しくなり運動に時間を割きにくくなった信長の苦肉の策であったのかもしれない。
それはともかく、足腰を十分に使うと、身体の調子が良いということを経験的に知っていた可能性は高いと思われる。
現代医学でも負荷の大きな階段の上り下りは、健康寿命を延ばすのに必要な太ももの筋肉を鍛えるのに極めて効果的であるという。筋肉量は80歳になるとピーク時の約半分にまで減ってしまうことが知られている。
実は健康寿命を縮める大きな原因は、筋肉量の減少などにより転倒などのケガや関節疾患が起こりやすくなり、結果として寝たきりになってしまうことなのだそうだ。太ももの筋肉量をキープできれば、このリスクを減らすことが可能になるというわけだ。
そして、山道の上り下りは有酸素運動としても優れていることでも知られている。生活習慣病の予防には有酸素運動が効果的であるから、信長は生活習慣病に罹るリスクが極めて少なかったということになる。
この生活パターンは、居城を安土城に移してもあまり変わらなかったと思われる。というのも、安土城の天主は地下1階地上6階建てで、その高さは32mだったからである。
これは現代で言うと10階建てのビルに相当する高さだという。信長はこの天主に居住していたから、この高さを階段で行き来していたことになる。階段の傾斜を考えると相当な負荷の有酸素運動である。研究によると、階段の上り下りを通常のウォーキングと比較すると、約3倍もの運動効果が得られたという。
趣味の「鷹狩」も功を奏す?
そして、信長のもう1つのウォーキングが「鷹狩」である。鷹狩とは鷹に獲物を追わせて捕獲した所で餌を与え、鷹が餌に食いついている隙に獲物と交換するというというものである。鷹狩は起伏のある野原を長時間歩くため、「高負荷ウォーキング」に該当する。信長はこの鷹狩を異常なほどに好んだという。
特に1579年~1580年にかけては「毎日のように鷹狩を行った」と『信長公記』に記述があるくらいであるから尋常でない。やはり信長は、健康法としての「高負荷ウォーキング」にかなりのこだわりがあったとしか思えないのである。
信長の「ウォーキングシューズ」
信長のウォーキングへのこだわりは「高負荷」だけではない。シューズに関しても信長はこだわりがあったのである。当時のウォーキングシューズと言えば、当然「草履」であろうが、信長は特殊な草履を履いていたという。それは「足中(あしなか)」というものであった。
足中とは草履の土踏まずあたりから後ろをカットしたものであるが、これを履くと重心が当然土踏まずより前にくるのである。重心が土踏まずより後ろにあると、身体のバランスを取るため上半身が前傾した姿勢になってしまい、腰や首に負担がかかることが知られている。
足中を履いて歩くと、これを予防できるため、肩こり・腰痛などが生じにくいという。足中は足軽や雑兵が履くものであったらしいが、信長は馬に乗らず徒歩で長距離を歩く彼らを見て、「歩きやすく疲れにくい」ことに気付いたのかもしれない。実際、江戸時代の飛脚がこの足中を履いていたという記録が残っているから、長距離の歩行には極めて適していたことが窺えよう。
『信長公記』によれば、信長の足中好きは有名で、常に腰に足中を下げ家臣にも与えていたという。足軽が履くものを気にもせず履いてみるとは、合理主義者である信長らしい行動である。
信長の身体測定
ルイスフロイスが信長は「中肉中背」であると書いていることは、前述した通りである。ヨーロッパ人から見て中肉中背ということは、どちらかというとスリムでまあまあ背が高いという感じだったのだろうか。というのも、信長の身長のデータが残っていないからである。当時は身体測定というものなどないので、背の高さは誰々よりは高いが、あの人よりは低いという相対的なものに過ぎなかったであろう。
よく史料で、斎藤道三の嫡男義龍は身長六尺五寸(約197㎝)であったとか、後藤又兵衛は六尺(約182㎝)だったとかいうデータが残っているのは、当時としては異様に背が高かったからに他ならない。
信長に関してそのような記述はないことから、おそらく180㎝は超えていなかったであろうと思われる。信長の身長に関しては様々な推論がなされている。遺骨や甲冑が残されていれば、ある程度正確に身長を割り出せるのであるが、信長はそのいずれも残っていない。
別の方法としては、右上腕骨の長さを利用する考古学的手法が考えられる。具体的には、右上腕骨の長さ×2.79+73.242≒身長という式を使うのだが、信長の遺骨は残されていないため右上腕骨の長さはわからない。
ある医師が信長の肖像画から右上腕の長さを割り出したところ、34.5㎝だったそうである。この数値を使うと信長の身長は169.497㎝となる。ざっくり言うと、170㎝前後というところか。
当時のポルトガル人男性の平均身長は165㎝程度であったという点を考慮すると、ポルトガル人であるルイスフロイスのいう「中背」という表現にも合致していると思われる。
信長の疾病リスク
さて、信長の生活習慣を調べれば調べるほど、彼が病気とは無縁な生活を送っていたであろうことがわかってくるのであるが、そこに死角はなかったのであろうか。ここでは信長に関する記述から気になる点について述べてみたい。信長の性格
織田信長というと「怒りっぽい」というイメージがある。これが本当だとすると、信長にはある「疾病リスク」が存在していたことになる。「攻撃的」「短気」「怒りやすい」人はそうでない人に比べて、心筋梗塞や狭心症に罹るリスクが約2倍になるという研究結果があるからである。イライラしたり怒ったりすると、副腎からアドレナリンが分泌されることはよく知られている。アドレナリンは血小板の形を変え、血小板が互いにくっつきやすくなる。そうすると血流が妨げられて、血圧が上がることはもちろんのこと、血管を傷つけてしまい、循環器疾患に罹りやすくなるという。
さて、信長は本当に怒りやすかったのであろうか。
ルイスフロイス『日本史』には、「(戦時には)非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。」とある。
ということは、戦の頻度が信長の健康状態を左右するということになる。生活習慣病に罹患する確率が上昇するのは40代からであると思われる。そこで、40歳以降の信長の戦の状況を見てみると、1580年(信長47歳)の本願寺との和睦以降は目立った戦はないことがわかる。
1582年3月の甲州征伐の総大将は嫡男信忠であり、戦況は織田方に極めて有利であった。しかも信長は前線で戦ったわけではないので、それほど短気を起こすこともなかったであろう。つまり、40代の信長は戦に出陣することが以前より減っていたのである。
これは、複数の遠隔地を攻めるために各方面軍を組織したことも大きな理由であるし、天下統一事業も完遂間近となって、戦の数自体が減ったこともかなり影響しているだろう。よって、本能寺の変がなかった場合でも、激昂することが原因となって心疾患を患う可能性はさほど高くなかったのではないか。
私が気になる点は他にある。
濃い味を好む
『常山紀談』によれば、信長は濃い味の料理を好んだという。『常山紀談』は史料としての信憑性は今一の書物であるが、信長が薄味好みであれば、わざわざこのような逸話を持ってこないだろうと思われる。特に尾張の郷土料理である焼味噌は好物であったらしい。少なくとも京風の薄い味付けは好まなかったのではないだろうか。
塩分の摂りすぎは血圧を上昇させ、脳卒中や心筋梗塞などを起こすリスクが高まることがよく知られている。また、腎臓病や胃癌を引き起こす要因となることも知られている。信長の疾病リスクとしては、怒りやすいことよりも塩分過多によるものの方が大きいのではないかと私は考えている。
かなりの甘党
信長が大の甘党であったことは、様々な資料に記述があることから事実であると思われる。特に干し柿は大好物であったらしく、戦場にも携帯して行き、手柄を立てた家臣に褒美の代わりに与えたりしていたという。ルイスフロイス『日本史』には、1569年に京都二条城において織田信長に謁見した際に、金平糖が献上されたという記述がある。
信長は金平糖を非常に気に入ったという。糖類の過剰摂取は糖尿病の原因となることが知られているが、糖尿病の恐ろしさはむしろその合併症にある。
血中の糖の濃度が高いとインスリンの分泌が過剰になるが、このことで血管壁の平滑筋が増殖し、血管が細くなってしまうという。このことで脳卒中や心臓発作が誘発されてしまうことがわかっている。
糖尿病は古くは「飲水病」などと呼ばれ、のどの渇きを訴えてしきりに水を飲むという症状が知られている。藤原道長はこの「飲水病」であったという。信長も喉がしきりに乾いて水を飲んだという記述が残されているので、糖尿病であった可能性は否定できない。
それともう一点、癌細胞は糖類を好むということも現代医学ではわかっているので、癌に罹る可能性も低くはなかったろう。この時代に健康診断があったとしたら、信長は「高血圧」「高血糖」を指摘される可能性はある。
信長はハーブマニア?
信長はハーブの効用についても宣教師から聞いて知っていたそうである。当時のヨーロッパでは既に、病気の治療のためにハーブが使われていたというから驚く。『切支丹宗門朝記』などによると、信長は伊吹山に50町、東京ドームにして10個分の広さのハーブ園を作らせて、3,000種ものハーブを栽培させたという。
この記述は、現在も伊吹山にはヨーロッパ原産の植物が数種類自生していることから事実であったと思われる。
漢方で言うところの薬草は当時には既にあったろうが、南蛮渡来の薬草であるハーブに目を付けたとは、さすがは新しもの好きの信長である。この伊吹山の薬草園は日本初のハーブ園と言えそうである。
あとがき
様々な角度から織田信長の健康診断を行ってみた。その結果、他の戦国武将と比べると、かなりの健康体であったことがわかったのであるが、仮に本能寺の変がなかったとしたら彼は何歳まで生きたのだろうか。実は短気であった徳川家康が75歳の長寿を全うしたわけだから、そのくらい生きた可能性はある。しかし、信長の食生活には前述したように若干問題があった。
信長の濃い味好みで甘党という嗜好は、現代でも問題になりやすい嗜好である。濃い味好みのほうはハードな運動をして汗をたくさんかく生活であれば、さほど問題はないであろう。
問題はむしろ「甘党」のほうなのかもしれない。甘党はそうでない人に比べて糖類の摂取量が多いことで、「糖尿病」になりやすいことはよく知られている。
このことから、信長は糖尿病であった可能性はあると先にも書いた。しかし1つ疑問なのは、毎日かなりの運動をこなしていた信長が、恒常的な高血糖状態に陥ることがあり得るのだろうかということである。
信長糖尿病説の主な根拠は、特に安土城に居城を移したあたりから、喉が渇きしきりに水を飲んでいたという記述である。しかし、これは単に加齢によるドライマウスの症状なのかもしれない。
実のところ私が気になっているのは、信長の身体の「糖化」はどのくらい進んでいたのだろうかという点なのである。
「糖化」とはタンパク質や脂質が糖類と結びつくことであるが、この現象が体内で起こると老化促進物質「AGE」が生成されてしまう。糖化が身体に与える影響は深刻で、外見は老け顔になり、身体の内部では血管が脆くなり、腎機能が低下するということがわかっている。
糖化を防ぐには、血糖値が高くなる食後1時間ぐらいに有酸素運動を行うと効果的であると言われているが、そのタイミングで信長が高負荷ウォーキングなどの有酸素運動をおこなっていたかは不明である。
そう言えば、狩野永徳が描いた織田信長像(大徳寺蔵)を見たことがあるが、かなりの老け顔に描かれているのに驚いたことがある。現代人と比較すると老化が速かったこともあるだろうが、糖化の影響も否定できないような気がするのである。
最後に、信長の遺伝的傾向を見てみる。
父信秀は享年42歳でかなり短命であるが、これは流行り病が死因である。弟の長益(有楽斎)は享年75歳、同じく弟の信包(のぶかね)は享年72歳と当時としては長寿である。次男信雄は享年73歳と、決して遺伝的に短命な家系ではないことがわかる。
ひょっとすると、本能寺の変で命を落とさなければ、案外信長は長生きだったのかもしれない。
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【参考文献】
- 篠田達明 『戦国武将のカルテ』 角川ソフィア文庫 2017年
- 篠田達明 『日本史有名人の身体測定』KADOKAWA 2016年
- 酒井シヅ『戦国武将の死亡診断書』エクスナレッジ 2012年
- 太田牛一『信長公記』 角川ソフィア文庫 2002年
- ルイスフロイス『完訳フロイス日本史』 中公文庫 2000年
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