「第一次上田城の戦い(1585年)」真田勢は寡兵ながら、なぜ徳川勢を撃退できたのか

 戦国乱世に完全に終止符を打った徳川家康。その天敵ともいえるのが真田昌幸(さなだ まさゆき)です。彼は歴戦の勇を誇る徳川勢を相手になんと2度も苦い思いをさせています。今回はその一度目の合戦となる「第一次上田城の戦い」についてお伝えしていきます。

なぜ家康は上田城を攻めたのか

武田滅亡後、真田は家康の配下になっていた

 真田氏の当主を務めていた真田昌幸は、武田滅亡後は織田・北条・上杉など主君をコロコロと変えて、最終的に徳川氏に臣従していました。

 しかしその北条氏と徳川氏が天正壬午の乱で天正10年(1582)10月に和睦したことで、真田氏の立場がとても微妙なものに…。和睦の条件として家康は、真田氏の領地である上野国沼田・岩櫃を北条氏に割譲すると約束してしまったのです。

 この地は徳川氏から与えられたものではなく、真田氏が自力で支配を勝ち取ったものでしたから、家康の決定に昌幸は異議を唱えました。徳川氏と北条氏の国分けについては「切り取り次第」という内容だったようで、家康は引き渡しを昌幸に勧告し、従わない場合は北条氏が武力で制圧してもいいというものでした。

 昌幸にとって幸運だったのは、家康が勢力を拡大する豊臣秀吉と対立している状態で、なかなか真田氏の所領問題を取り扱う余裕がなかったということです。

徳川氏を見限り、上杉氏と手を結ぶ

 家康が本格的に乗り出してくる前に、昌幸は徳川氏と手を切り、越後国の上杉氏への従属を秘密裏に進めていきます。

 実は真田氏は以前に上杉氏に臣従を約束しながら、それを破ったという過去がありました。しかし上杉景勝は越後国一国を掌握できていないような状態であり、小県郡、吾妻郡、利根郡の三郡を有する真田氏はぜひとも取り込みたい相手だったのです。

 こうして天正13年(1585)6月、昌幸は家康を見限り、上杉氏への従属を明らかにしました。

 北信濃小県郡に築城された上田城は、家康が上杉氏への備えのために築かせた城でしたが、おそらく沼田領問題の際に代替地として真田氏に与えられたものだと考えられます。

 昌幸は独力で上杉氏を抑えると家康に主張し、秀吉との戦いのために小県郡から徳川勢を撤退させることに成功し、上田城を押さえ、そのうえで上杉氏に従属することを表明したのです。

上田城の戦い開戦

上田城を攻めた徳川氏の大将

 真田氏離反を知って、家康はもちろん討伐の兵を上田城に送りました。ただし秀吉と対立している以上浜松の地を離れることができず、自分自身では動けないので、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉という重臣を大将に任じています。天正13年(1585)8月のことです。真田勢を破った後で上杉氏とも対立することを見越した布陣でした。

◆ 真田勢 総勢2000人余り
  • 真田昌幸
  • 真田信之
  • 参戦要請に応じた百姓ら
など…
VS
◆ 徳川勢 総勢7000人余り
  • 三河衆(鳥居元忠・平岩親吉・大久保忠世・芝田康忠ら)
  • 諏訪頼忠、保科正直、保科正光、下条牛千世
  • 知久衆、遠山衆、大草衆
  • 依田康国、屋代秀正
  • 甲斐衆(三枝昌吉)
  • 駿河衆(岡部康綱、岡部長盛ら)

籠城した真田氏と上杉氏の援軍

 上杉氏を頼った昌幸でしたが、景勝は秀吉の指示で越中国の佐々成政を攻めるため、春日山城に兵を集めていました。ですから正規の兵を援軍として上田城に向かわせることができません。代わりに北信濃衆に対し、兵役のない15歳以下の子ども、60歳以上の老人を動員させ、海津城代の須田満親の指示のもと曲尾へ派遣しました。

 真田方では矢沢三十郎頼幸がこれを迎え入れて砥石城、もしくは矢沢城に配置して守備を固めています。それでも真田勢は総勢で2000人余りですから、兵力では徳川勢に大きく劣っていました。

 真田勢は小県郡禰津から早々と撤退したため、徳川勢は労せず禰津に布陣。抵抗という抵抗もなく、徳川勢は8月2日、昌幸が籠城する上田城を攻めました。

 昌幸は野戦ではなく、兵力の差を補うために籠城戦を選択したのです。徳川勢は上田城を攻略するため総攻撃を仕掛けます。

昌幸の計略にはまり徳川勢敗北

二の曲輪まで引き寄せる

 昌幸は上田城内に徳川勢を引き寄せてから隙をみて反撃し、徳川勢が城外に退却した後、混乱に乗じて追撃を仕掛ける作戦でした。そのため昌幸は上田城下と神川沿いに千鳥掛けの柵を多重に設置し、さらに嫡男である真田信幸(信之)の別働隊を砥石城に配置します。

 上田城には三の曲輪がありませんので、城門からの侵入を許せば次は二の曲輪となり、二の曲輪が破られれば後は本丸を残すのみとなります。総攻撃を仕掛けた徳川勢は城門を破り、二の曲輪まで楽々と到達しました。

 ここで大久保忠世の弟である大久保忠教が火を放とうとしましたが、味方の動きがとれなくなることを恐れた芝田康忠が却下し、一度城外に戻り態勢を整えることを選択します。ここが昌幸にとっての好機でした。

 真田勢は一気に反撃に転じるのですが、『三河物語』では火を放っていれば真田勢は出撃できなかったと忠教が悔しがったことが記されています。

真田勢の逆襲とさらなる罠

 退却する徳川勢の行く手を阻んだのは、城下町に互い違いに設置されている柵でした。この柵が進行を妨害に、徳川勢はまっすぐに退却することができなかったのです。

 『上田軍記』によると昌幸の罠は多彩で、まずは城下町に火を放ち、さらに周辺の山に潜んでいた百姓たちに紙で作成した旗をいくつも立てさせ、鬨の声を上げさせました。

 完全に包囲されていると徳川勢に思い込ませたのです。これで退却する徳川勢は完全に混乱状態に陥ります。

 上田城から逃れた徳川勢はそのまま追撃を受けながら撤退を続け、千曲川支流の神川まで追い詰められてしまいます。そしてここで砥石城から出撃した信幸の軍勢の突撃を受けたのです。

 神川を渡って逃れようとする徳川勢でしたが、河が増水しており、徳川勢は押し流されてしまいます。

 『真武内伝』によると、この水攻めも昌幸が事前に用意したものとされています。信幸の軍勢があげた敵の首級は1300。これが本当の数字かどうかはわかりません。『三河物語』では300の兵が討たれたと記されています。どちらにせよ寡兵の真田勢が見事に徳川勢を破り、大きな損害を与えたことは確かです。

第一次上田城の戦いマップ

 以下、参考までにもう一度真田軍の反撃の流れを整理しておきます。

  1. 上田城内の徳川軍が一旦退却を試みるも、千鳥掛けの柵が障壁となってすぐ逃げられず、真田軍の追撃を受ける。
  2. 城下町に火がつけられ、さらに、周辺の百姓らが旗を立てたという、真田の大軍の包囲を装った策にかかり、パニックに。
  3. 撤退中に真田信幸の別働隊の側面攻撃を受ける。
  4. 神川まで逃げた時、昌幸の事前工作?による増水した川によって溺死者が続出。

 その後、昌幸は尾野山城に布陣。徳川勢は翌8月3日には八重原に布陣して丸子平内の守る丸子城攻めに転じます。

 真田勢は8月20日に丸子城近郊で岡部長盛率いる徳川勢とぶつかり撃退されています。第一次上田城の戦いで真田勢唯一の黒星がこの衝突でした。

 8月28日には真田勢が引き上げたため、徳川勢は小諸城に撤退しています。家康は援軍として井伊直政を派遣しますが、こちらは上田城攻めの軍勢を安全に撤退させるための準備だったと考えられます。

おわりに

 歴戦の勇を誇る徳川勢を寡兵ながら破ったことで、真田昌幸の名は全国に知れ渡りました。これには家康と対峙していた秀吉も驚いたことでしょう。秀吉のことですから真田氏は味方につけるのが得策と考えたはずです。

 また、戦に強い者をリスペクトする傾向の強い三河衆もまた真田氏を認めています。家康の家臣で最強と呼ばれた本多忠勝が、娘を信幸に嫁がせたのもこの上田城の合戦での信幸の活躍を知ったからではないでしょうか。

 この合戦に勝利して真田氏の武功と六文銭の旗印が注目を浴び、豊臣大名としてさらに勢力を拡大していけたのも、真田氏の逆境に負けない粘り強さと昌幸の知謀があってこそだったのです。



【参考文献】
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)
  • 平山優『真田三代』(PHP研究所、2011年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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