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「沼田領の裁定(1589年)」とは? 北条と真田の沼田領問題に秀吉が裁定を下す!

  • 真田幸村
  • 北条五代
 2017/10/19
沼田城跡
沼田城跡

戦国大名にとって、その領土は命にも等しい大切なものでした。それは現代の国際社会の領土問題も同様です。先祖から受け継がれた土地を守ること、利益のために自国の領土を拡大していくことは戦国大名にとってももっとも大切な使命です。

そんな中で東上野の沼田領は真田氏と北条氏が大いにもめた領土として知られています。今回は沼田領を巡る歴史と共に、「豊臣秀吉」が下した「沼田裁定」の内容とその背景についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

沼田領を巡る争い

武田氏の家臣だった真田氏

東上野の沼田領はもともと北条氏(後北条氏)の領土でしたが、上杉謙信によって上杉氏の領土となり、さらに謙信の死後に起きた御館の乱の際に後北条氏が奪回に成功しています。しかしその後、甲越同盟が成立し、上杉景勝の許可を得た真田昌幸が沼田城を攻略し、真田氏の領土となりました。織田信長徳川家康が武田氏を滅ぼすまで、沼田領は武田氏家臣である真田氏の領土だったのです。

天正10年(1582年)に状況は一変します。まず武田氏が織田氏・徳川氏の連合軍に滅ぼされてしまうのです。織田氏に従属した真田氏は沼田領の支配を諦め、織田氏に譲渡しています。しかしそのすぐ後に本能寺の変が起り、沼田領を含めた関東一帯を統率する滝川一益が北条勢に敗れて信濃国に撤退。空白となった沼田領を真田氏はすぐに押さえて、取り戻すことに成功しました。

真田氏の北条氏への帰属

信長が急死したため、信濃国や上野国、甲斐国などは大混乱に陥りました。近隣の戦国大名で力を持っていた北条氏、徳川氏、上杉氏が主のいなくなった領土の切り崩しを行っていきます。「天正壬午の乱」です。こうなるとやはり北条氏、徳川氏、上杉氏と比較すると真田氏は国衆を束ねる小勢力であり、真っ向からぶつかり合える戦力を有していません。そのため真田氏はどの陣営に味方するのかで苦心します。

真田氏当主の昌幸はまず信濃国に侵攻した上杉氏に臣従します。しかし1ヶ月後には北条氏に寝返っています。昌幸は上杉氏に従属しながらも上野国の鎌原宮内少輔を味方につけ、信濃国から岩櫃城に向かうルートを確保しました。さらに草津の武士である湯本三郎右衛門尉を懐柔して派遣し、明き城同然となった岩櫃城を確保しました。

同じ頃、北条氏は滝川一益を敗走させ、その勢いで上野国の制圧を推し進めており、さらに信濃侵攻にも着手していました。信濃国衆の調略を進めるのと共に、6月下旬までには沼田・吾妻領の真田氏の支配地域と前橋城主である北条芳林の支配地域を除く上野国を制圧。沼田や前橋は後に回して、信濃国への侵攻を急ぎます。

北条氏が配下におさめた上野国衆は、白井城の長尾氏、高山城の高山氏、新田金山城の由良氏、安中城の安中氏と一宮氏、箕輪城の内藤氏・小幡氏、和田城の和田氏、後閑城の後閑氏、小泉城の富岡氏、今村城の那波氏などでした。

こうした情勢を鑑みた昌幸は、密かに北条氏へ転じる決意をして、7月には北条氏に従属しています。

沼田領を巡るそれぞれの思惑

真田氏の徳川氏への帰属

その後も沼田領を支配する真田氏の状況は二転三転します。上杉氏と北条氏が和睦したため、真田氏が味方する北条氏は、今度は矛先を変えて、徳川氏と領土を巡って争いました。関東に巨大勢力を築いている北条氏に対し、徳川氏は苦戦を強いられることになり、その打開策として家康は真田氏を取り込むことを画策しました。これに対し昌幸は家康に起請文を要求しています。実は北条氏が沼田領を真田氏から取り上げることを公言しており、このことが真田氏の寝返りの要因になっていたようです。

9月下旬、昌幸がついに正式に徳川方に転じます。同日付けで家康は箕輪城一帯や甲斐国で2000貫文、諏訪一郡、当知行(現在の昌幸の支配地域)を与えると明記した知行宛行状を作成しています。真田氏にとっては北条氏に味方するよりも、徳川氏に味方した方が見返りは大きいと判断したのでしょう。ただし家康の真田氏調略は極秘裏に進められており、北条氏はおろか家康の家臣すらほとんど知られぬまま10月になって通達されています。

徳川氏と北条氏の和睦

真田氏が徳川方についたことで形勢は逆転しました。北条氏は苦戦を強いられ、さらに常陸国の佐竹氏が上野国に侵攻したことにより、徳川氏との和睦を決断します。仲介役は織田信雄です。

このときに締結された内容には、

  • 甲斐国・信濃国で北条氏が占領した領土は徳川氏に譲渡すること
  • 上野国は北条氏が切り取り次第とし、真田氏の沼田領は北条氏に譲渡すること
  • 北条氏直の正室に家康の娘・督姫を娶らせ、同盟を結ぶこと
が盛り込まれています。

沼田領を守るために寝返りを重ねてきた真田氏にとって、この条件は受け入れられるものではありませんでした。

そのため真田氏は徳川氏と手切れをし、再び上杉氏に従属するのです。真田氏の領土を制圧しようと考えた家康は天正13年(1585年)、徳川勢で上田城を攻め、北条勢で沼田城を攻めるも攻略できずに敗退。その後、上杉氏が秀吉に降ったことで、真田氏も秀吉に従属することになりました。

秀吉による調停

北条氏の秀吉への臣従

真田氏が秀吉に臣従した天正15年(1587年)3月の時点で、徳川氏、上杉氏、毛利氏、長宗我部氏といった戦国大名もまた秀吉に臣従しています。九州平定を成し遂げ、関東と奥羽を除くほとんどを勢力下に置いた秀吉は、同年末に仮想敵国を関東の北条氏と奥羽の伊達氏として、関東・奥羽惣無事令を発令します。

秀吉はこの指示に従わない者は成敗するという姿勢で天下統一をはかろうとしたのです。ただし北条氏はこれに従うことなく、上野国では北条氏邦が沼田領侵攻を繰り返しています。

天正16年(1588年)5月、秀吉の意を受けた家康が起請文を添えて北条氏に氏直兄弟の上洛を促しました。

内容は、

  • 今後も徳川氏と北条氏の同盟は継続していくこと
  • 氏直兄弟の誰かが上洛して秀吉に御礼を伸べること
  • 北条氏は秀吉に出仕(従属を意味)すること
  • これを拒否した場合、督姫(家康の娘で、氏直の正室)を徳川方へ返してもらうこと
です。

北条氏はこの要請を受け入れ、同年8月には北条氏規が上洛して秀吉に謁見しています。北条氏は秀吉に従属することを決意したのです。秀吉は北条氏を赦免して関東の領域画定で上使を派遣すると関東諸将に通達しました。

沼田裁定の結論

秀吉は徳川氏と北条氏の和睦条件を巡る沼田領問題の実態調査を開始しています。北条氏に対してはこの経緯をよく知っている家臣の上洛を命じ、天正17年(1589年)2月、氏直は家老の板部岡江雪斎が上洛して事の経緯を報告しました。これを聞き秀吉は沼田裁定を下しました。

内容は「3分の2を北条氏が、3分の1は真田氏が所領とする」という折衷案です。さらに秀吉は氏政・氏直親子のどちらかが上洛するという一筆を提出したら、上使を派遣して該当する沼田領を北条氏に渡すと約束します。

6月には秀吉の側近が小田原へ向かい、氏直は隠居した父親の氏政が年内に上洛するという一筆をこの上使に渡しました。そして7月には秀吉は沼田に検使を派遣し、家康家臣の榊原康政の指示のもとで沼田領の引き渡しを行なわせます。このとき昌幸は案内役を命じられ、また、北条氏堯が請取人として派遣されています。

なお、秀吉は真田氏と北条氏で戦争が起きないように、北条方の軍勢の動員数を1000人程に限定するよう命じましたが、北条氏は無視して2万の軍勢で沼田城周辺に布陣しました。

同月中に引き渡しは完了し、北条方は沼田城に猪俣邦憲が、権現山城には吉田真重が配備され、一方の真田方は名胡桃城に家臣の鈴木主水を配備し、沼田領3分の2にあたる替えの地として家康から信濃国伊那郡箕輪領を与えられています。こうして沼田領を巡る争いは決着したのです。

沼田裁定の影響

納得のいかない北条氏と真田氏

北条氏は、沼田領は譲渡することという徳川氏との和睦条件がありましたから、秀吉の沼田裁定には不満だったことでしょう。しかし秀吉に逆らえばその巨大な軍事力で滅ぼされてしまうことは容易に想像できます。天下の形勢はすでに決まっているのです。だからこそ秀吉の沼田裁定に異を唱えずに氏政の上洛を決意したのです。もちろん真田氏も実力で得た所領を奪われるのですから、いくら替え地を与えられるといっても納得はできなかったはずです。もちろん真田氏の勢力ではとても秀吉に命令に逆らえるはずもありません。

このように北条氏と真田氏が不満を持ったまま引き渡しに至ったことは確かです。秀吉としては、北条氏の従属を確かなものにしたいがためにこのような裁定を行ったと考えられますが、はたして秀吉の本当の狙いはどこにあったのでしょうか。

北条氏討伐のきっかけとなる

秀吉の沼田裁定は、沼田領を巡る争いを鎮めるのとは真逆で、両者に火種を残しつつ、北条氏が秀吉の裁定を破り、真田氏の領土に攻め込むのを狙った戦略だったとも考えられます。実際に北条氏は同年11月には名胡桃城を強奪したことで秀吉の怒りを買い、北条氏征伐の大義名分を与えてしまうのです。

小田原城が開城し、北条氏が滅んだ後、関東の大名はそろって所領替えを命じられていますが、その中で真田氏は本領安堵と共に沼田領を加増されています。もしかすると沼田裁定が下った時点で、このようなシナリオが秀吉から真田氏に示されていたのかもしれません。沼田裁定は北条氏を陥れる罠だった可能性もあるのです。

まとめ

秀吉の沼田裁定は北条氏に配慮したものだったのか、それとも北条氏を滅ぼすためのものだったのか真実は謎です。ただし、幾多の血を流して奪い合った沼田領を北条氏、真田氏共にそう簡単に諦められるものでなかったことは確かでしょう。


【参考文献】
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)
  • 森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(洋泉社、2013年)



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