「中富川の戦い(1582年)」長宗我部氏が阿波国を制圧する分け目の戦。三好との激戦で勝瑞城を攻略!
- 2021/03/11
土佐国を掌握した長宗我部元親は四国制圧の野心を抱き行動を起こしました。外交を巧みに利用する元親は中央の織田信長にも接近し、四国制圧を許されます。そんな元親が阿波国を制圧する分け目の大戦さをしたのが「中富川の戦い」です。今回は中富川の戦いまでの経緯についてお伝えしていきます。
織田信長との関係
織田氏との友好関係
元親の正室は斎藤内蔵助利三の妹で、利三は明智光秀の重臣です。元親はこの人脈を頼りに織田信長に接近しました。そして元親は、信長に嫡男である長宗我部弥三郎の烏帽子親になってもらうことに成功します。信長から一字拝領した弥三郎はこれより信親と名乗るようになるのです。大きな後ろ盾を得た元親は天正7年(1579)に阿波国岩倉城の三好氏を攻め、三好山城守康長の嫡男である三好式部少輔康俊を降伏させました。『元親記』によると、天正8年(1580)6月には弟の香宗我部親泰を安土へ送り、信長から四国は元親の手柄次第でいくらでも切り取ってよいという許しを得ます。ここまでは元親の思惑通りに進んでいたと考えられます。
織田氏と敵対関係になる
しかし、四国には長宗我部氏の台頭に対抗する者が多くいました。伊予国の西園寺公広や河野氏、阿波国の三好康長、十河存保(三好存保)らです。彼らは信長に使者を立て、元親の野心を伝え、元親を今のうちに倒すよう願い出ます。信長はこの対抗勢力の大きさに注目し、元親に四国を任せられないと考えたのか、長宗我部氏の領土の伊予国北と讃岐国を返上させ、康長に与えることを決めました。
天正9年(1581)3月、康長は数千の兵を率いて岩倉城に入り、自分の子の康俊に元親との関係を断つよう説得します。さらに存保や中国地方に進出していた豊臣秀吉(当時は羽柴)と協力し長宗我部氏に対抗する態勢を整えました。
これに対して元親は、一度は四国を好きに切り取ってよしという許可を与えておきながら、手のひらを返すように康長に協力し四国に勢力を拡大しようとする信長と戦うことを決意します。
天正10年(1582)5月、信長は総大将に実子の神戸信孝を指名し、丹羽長秀をつけて四国征伐を開始することを決断しました。その先鋒を務める康長は阿波国の勝瑞城に入ります。
『本願寺日記』によると、信孝は康長の養子に入り四国を治める手はずだったと記されています。康長は阿波国の一宮城と夷山城を攻めて、城を守る池内氏や野中氏を倒しています。この時点では織田勢の本隊はまだ四国に渡っていない状態であり、それに苦戦していたわけですから長宗我部氏は圧倒的に不利だったと考えられます。信長としてはこのまま一気に四国も飲み込んでしまう腹づもりだったことでしょう。長宗我部氏は滅亡の危機に立たされることになりました。
そんな中で思わぬ出来事が起こります。天正10年(1582)6月2日、本能寺の変によって信長が光秀に討たれたのです。信孝は丹羽長秀、織田信純、蜂屋頼隆ら近江国・伊勢国・若狭国の兵を大坂の堺に集結させていました。これが本能寺の変の起こる直前の5月1日のことです。
6月2日には四国に出撃する予定でした。これはさすがにできすぎのタイミングなのですが、長宗我部氏は光秀の謀反によって救われたのです。ここには明智氏と長宗我部氏との間に何かしらの示し合わせがあったのかもしれませんが、詳細は不明です。
堺に集まった信孝の軍勢は混乱によって離反し、四国攻めどころではなくなってしまいます。この急報を聞きつけ、先鋒の康長も慌てて阿波国を放棄しました。織田勢の援軍なくして長宗我部勢には勝てないと考えたからです。こうして元親に奇跡的な追い風が吹いたのです。
中富川の戦いと阿波国の制圧
長宗我部勢の反撃
信長が倒れ、織田氏家中が大混乱に陥ったのは反撃の好機でした。元親の嫡男である信親はすかさず一宮城、夷山城の奪還に加え、十河存保の守る勝瑞城を攻略すべきだと元親に進言します。しかし、元親には別の考えがあり、これを退けています。信親は元親の指示を聞かずに小姓組を率いて海部へ進軍、叔父の香宗我部親泰の協力を仰ぎました。信親としてはこの軍勢で一宮城と夷山城は落とせると考えていたのかもしれません。また、親泰はこれを諫めたことでしょう。
『元親記』によると、元親は使者として信親のもとに近沢越後守を送り、将兵と民衆の疲労を回復させてから8月に攻めるという内容を伝えたため、信親もこれ以上の進軍は諦めています。
元親は三好氏との決戦に備え、用意周到に阿波国攻めの準備を行いました。家老衆や一領具足衆に意見も求めています。長期戦を主張する家老衆に対し、一領具足衆は短期決戦を主張し、元親は一領具足衆の意見を採用します。そして15歳以上、60歳以下の者は誰でも取り立て、手柄をたてれば恩賞を与えると布告して兵を2万3千まで集め、8月になって岡豊城を出陣しました。存保は一宮城と夷山城を戦わずに放棄して、数千の兵で勝瑞城の守りを固めました。
中富川の戦い
元親は軍勢を二手に分けて進軍し、天正10年(1582)8月27日には阿波国名西郡中島で終結しています。先鋒を務めた親泰は、本隊の到着を待ってから8月28日に勝瑞城西の中富川に進軍し、十河勢を攻めました。存保も城外の勝興寺に本陣を置いて迎え撃ちます。『昔阿波物語』や『三好記』には壮絶な戦いだったと記されています。寡兵の十河勢でしたが、一時は長宗我部勢を撃退する勢いだったようです。しかし、多勢に無勢、和議を結んでいた一宮城の一宮成相らの援護を受けて劣勢を覆し、十河勢を打ち破りました。
9月には2万の軍勢で勝瑞城を包囲しています。紀伊国の雑賀衆も長宗我部氏に味方したため士気はさらに上がりました。そんな中で存保に内通している勢力があることを元親が看破します。一宮成相と富岡城主の新開道善らであり、元親は9月3日には夷山城にて成相を殺し、さらに同月16日には丈六寺にて道善を殺しています。
勝瑞城を攻略するため万全の用意を整えた元親でしたが、このタイミングで豪雨となり苦境に陥りました。幸運なことに水は4~5日で引いたため、元親は勝瑞城攻めを続行します。存保が籠城を諦め、城を捨てたのが21日。長宗我部勢に城を奪われた存保は讃岐国大川郡の虎丸城まで逃れています。
元親はすぐに勝瑞城を破却し、さらに三好式部少輔康俊が守る岩倉城を攻めてこれを攻略し、こうして長宗我部氏は三好氏を追い出し、阿波国を制圧することに成功したのです。
なお、康俊の対処については殺すことなく追放とし、人質としていた康俊の子も三好康長に送り返したため、康長から感謝されたと『元親記』には記されています。
おわりに
絶対絶命の危機から、本能寺の変によって反撃に成功した長宗我部氏は、中富川の戦いに見事勝利して阿波国を制圧し、さらに四国統一に向けて動いていきます。まさに奇跡の逆転劇と呼べる展開です。もし光秀が秀吉に敗れていなければ、さらに長宗我部氏には追い風が吹いていたことでしょう。しかし光秀は秀吉によって討たれてしまいます。とりあえず信長がいなくなり、元親は心より安堵したことでしょうが、実は秀吉が信長以上の驚異になるとは、さすがの元親でもこのとき考えていなかったに違いありません。
【主な参考文献】
- 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
- 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
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