真田幸村所用の甲冑解説!赤備え、鹿の角の兜の意味など…

 そのあまりにも劇的な戦いぶりとヒロイックな散り際から、戦国武将の中でも一二を争う人気といわれる「真田幸村」。同時代の武将たちからも「大手柄」「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」などと、最大限の称賛をされた伝説的な戦士として名を馳せています。

 後の世の講談や創作、メディア作品などでも恰好の主人公として取り上げられ、今なおその生きざまは多くの人の深い感銘を与え続けています。しかしその一方で、真田幸村については史料が多くないこともあり、実態が知られていない謎の武将という側面ももっています。

 例えば「幸村」というよく知られた名前についても実は文献上では確認することができず、「真田信繁」が本当の名前であるというお話は有名です。後世にいつしか呼ばれるようになった「幸村」が、人気とともに人々に記憶されてあたかもそれが真名であるかのように扱われた稀有な例といえるでしょう。

 すなわち、神格化されたイメージが先行するほどに愛され、高い人気を誇ってきたという証拠でもあります。また、資料の少なさから幸村が実際に着用したという甲冑や所有物などについても、確たる点は不明なことも多いのが実情です。

 それらを踏まえつつ、本コラムでは現代の私たちが描く「幸村像」をベースに、史実との比較によってその甲冑がどのようなものであったかを考察してみたいと思います。なお、ここでは「幸村」というもっともよく知られた名前で呼ぶことにしましょう。

現存しない?でも強烈なインパクトの「真紅の甲冑」

 真田幸村の戦陣装備と聞くと、多くの人が「鹿角」「六文(連)銭」「真紅の甲冑」といったキーワードを思い浮かべるのではないでしょうか。

 いくつかのメディア作品でもその姿が描かれ、近年では大河ドラマでも見事な武者振りを披露してすっかり幸村を象徴する甲冑というイメージが定着したように思われます。

真田幸村の全身イラスト

 ところが、この特徴的な鎧は実は現存していないとされています。それもそのはず、大坂夏の陣(1615)で散った幸村とともに失われたと考えられるからです。

 当時、名のある武将を討ち取るとその証拠に首だけを回収し、その後に本人であるかどうかを確認する「首実検」が行われました。しかし、情報伝達に限界のあった当時のこと、夏の陣では「幸村のもの」とされる首がいくつも並んだといいます。

 そのような錯綜した状況ゆえ、幸村本人の、当時の本物の装備というのは残っていないことがむしろ自然な流れともいえるでしょう。それなのに、なぜこれほど鮮明に幸村の赤い甲冑が印象付いているかというと、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた真田隊の姿によるところが大きいと考えられます。

 これは筑前福岡藩に伝わった六曲一双の巨大な屏風で、黒田長政が当時の戦役の様子を後世に語り継ぐため制作させたといわれています。

『大坂夏の陣図屏風(一部分)』にみえる真田隊
『大坂夏の陣図屏風(一部分)』にみえる真田隊。画像右上に幸村らしき姿がみえる。

 そこには、立派な鹿角の脇立を備えた兜に真紅の鎧をまとった、堂々たる幸村の姿が描かれています。真田隊の面々はいずれも赤を基調とした装備に身を包み、世に名高い「真田の赤備え」の部隊が描写されているのが確認できます。幸村の兜にはトレードマークの六文(連)銭は見えませんが、現存する真田一族の鎧にはその意匠がさりげなく散りばめられています。

 大坂夏の陣図屏風の描写が、どの程度まで写実的であるのかはわかりませんが、すくなくとも制作当時には幸村の装備は鹿角をあしらった真紅の甲冑、という認識のあったことがうかがえます。

 さて、次項からは幸村の甲冑にみえる三つの特徴について考察していきます。

なぜ鹿角なのか?

 まず、兜に備えられた立派な鹿角の飾りが目を引きます。

 兜を彩る飾りを「立物(たてもの)」といい、側面に取り付けられるそれを特に「脇立(わきだて)」といいます。鹿角の脇立は幸村の兜以外でも散見され、比較的ポピュラーかつよく好まれたモチーフであったことが想像されます。

 武将によっては鹿がきっかけとなった天祐にあやかって鹿角を用いるようになった、などのエピソードが残っていますが、残念ながら、幸村の兜についての詳しい意味はわかっていません。

 しかし、鹿のもつ神性を考えるといかにも戦国武将らしい選択とも思えるのです。それというのも、武の神である「建御雷命(たけみかづちのみこと)」のもとに天照大神から遣わされた使者が鹿であったとされ、武威と関わりの深い動物であるからです。

 いまも建御雷命を祀る茨城県の鹿島神宮や奈良県の春日大社などでは鹿が神の使いとされ、武運への願いを託すにふさわしい意匠といえるでしょう。

六文銭の意味

 真田の紋として有名な六枚のコインは、もともとは中国の「冥銭」という風習に由来するとされています。

 日本では三途の川の渡し賃や、六地蔵に一枚ずつ備えるものなどの言い伝えがあり、「六文銭」の通称で知られますが一文相当の銭貨が六枚ということで「六連銭」が適切な呼び方でしょう。

 元来は家紋ではなく、合戦の折に使用する定紋であり、真田家の源流である滋野氏の系統が家紋としていたものです。いつでも散る覚悟があることを表す、勇猛果敢なエンブレムとして一族の気概を示しています。


甲冑が赤色の理由

 また、真田の部隊は「赤備え」と呼ばれる赤系統の装備品がひと際目を引きます。これは元来、武田信玄の精鋭部隊が用いたものとされ、武田家臣であった真田家がその伝統を継承したものとされています。

 これを用いたのは幸村だけではなく、豊臣時代に兄の信幸が秀吉の閲兵に際して、赤備えによる部隊の準備を指示していたことが伝えられています。

 幸村の赤備えは、まさしく一族の伝統に則った戦支度だったといえるでしょう。

真田の赤備えは実在した!民家から発見されたその証

 最後に、真田の赤い鎧について最新の研究成果を紹介したいと思います。

 つとに有名な真田の赤備えですが、実は文献上に記載が確認できるのみで実在は確証がありませんでした。ところが2016年、長野県の東御市で真田家の末裔となる個人宅に赤い甲冑の一部が保管されていることが確認されたのです。

 真田家の源流に当たる海野(うんの)氏の家中、「真田右馬亮(うまのすけ)」の後裔とされるお宅での発見でした。長らく幻とされていた真田の赤備えの実在が証明され、幸村がひきいたであろう「赤い部隊」への想像がますます膨らみます。


【主な参考文献】
  • 『歴史群像シリーズ【決定版】図説・戦国甲冑集』監修・文 伊澤昭二 2003 学習研究社
  • 『完全保存版 甲冑・刀剣のことから合戦の基本まで 戦国武将 武具と戦術』監修 小和田泰経 2015 枻出版社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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