天下一の刀剣好き・織田信長と愛刀。その驚愕エピソードとは?
- 2019/05/24
その苛烈な生きざまと既成概念にとらわれない柔軟な戦略、そして稀代のカリスマ性から高い人気を誇る武将が「織田信長」です。 いくつかの「好きな武将ランキング」では他を圧倒して1位に輝くことも多く、まさしく戦国武将の代名詞ともいえる人物でしょう。
天下統一に王手をかけた、ともいえる信長のもとには、さまざまな名器名物が集まりました。特に茶道具や絵画の収集は俗に「名物狩り」とも呼ばれる大規模なもので、政治的意義もふくみつつ文化面からの統治にも力を注いだことが考えられます。
そして、戦国武将らしく古今の名刀もまた、信長のもとへともたらされました。そのなかには「織田信長」という一人の人間の個性を、強く想像させるようなエピソードに彩られたものがあります。
本コラムではうち三振りの刀剣を取り上げて、人間・織田信長の心理へと迫ってみることにしたいと思います。
天下統一に王手をかけた、ともいえる信長のもとには、さまざまな名器名物が集まりました。特に茶道具や絵画の収集は俗に「名物狩り」とも呼ばれる大規模なもので、政治的意義もふくみつつ文化面からの統治にも力を注いだことが考えられます。
そして、戦国武将らしく古今の名刀もまた、信長のもとへともたらされました。そのなかには「織田信長」という一人の人間の個性を、強く想像させるようなエピソードに彩られたものがあります。
本コラムではうち三振りの刀剣を取り上げて、人間・織田信長の心理へと迫ってみることにしたいと思います。
信長のおそろしさを伝える「へし切り長谷部」
信長の刀、といえば真っ先にこれを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。通称「へし切り長谷部」、刃長約64.8cmの刀で国宝に指定されています。無銘ではありますが、桃山時代の研師で本阿弥宗家第九代・本阿弥光徳によって、山城国の刀工「長谷部国重」の作と鑑定されたことから「長谷部」と呼ばれています。
この刀にはおそろしい有名なエピソードがあります。
ある時、観内という名の茶坊主が信長の逆鱗に触れ、手打ちから逃れて膳の下に隠れました。信長はこれを圧するように、膳もろともに観内を押し切りにしたといいます。
「へし切り」とは「圧し切り」のことで、刀を振りかぶって斬り下ろすのではなくそのまま体重をのせて力で切断する様子のことと思われます。刀の号として残るほどですから、戦国の世であってもよほど印象的な出来事だったのでしょう。
狭い場所で刀を振りかぶることができなかったのではとも考えられていますが、無理な態勢から強引に斬ってしまうことから怒りの凄まじさとある種の癇性を感じさせ、信長のおそろしさを強調する逸話となっています。
へし切り長谷部が無銘であることについては、少し説明が必要かもしれません。この刀は本来、南北朝時代を中心に隆盛した「大太刀」と呼ばれる長大な太刀でした。
大太刀は有事には強力な武器となりますが誰でも扱えるわけではなく、取り回しも困難だったのです。そこで、大太刀を使いやすいサイズへと切り詰め直し、標準的な刀として再生することが行われました。
刀の寸法を短くすることを「磨り上げ」といい、茎(なかご)の銘が残らないほどの長さを詰めるのを「大磨り上げ」と呼びます。
すなわち、へし切り長谷部は大太刀を大磨り上げにした刀、という位置付けになるのです。
本能寺で灰燼に帰した「薬研藤四郎」
武将の武器といえば太刀や槍をイメージするかと思いますが、「短刀」も重要な持ち物でした。ほぼ肌身離さず持っているもので、戦場においては最後に明暗を分ける組打ちなどで使われる、命を預ける武器だったのです。また、コンパクトなため授けやすく、名刀はさまざまな武将の手を経て代々伝えられていきました。
信長の短刀で有名なものに、「薬研藤四郎」があります。推定刃長約25cm、短刀の名手として知られる山城の刀工、粟田口吉光の作と伝わっています。吉光は通称を藤四郎ということから、多くの同作がこの名で呼ばれています。
「薬研(やげん)」とは薬草や薬種をすり潰して粉にするための舟形の道具で、金属製や石製であることが多いとされています。
この藤四郎短刀は、最初の持ち主と考えられている「畠山政長」が敗戦の末、腹を切るために用いたとされるものでした。
ところが、いざ切腹しようとしたところ切っ先が刺さらず、あきらめて放り出すと近くにあった薬研を貫いた、という逸話が残されています。このことから、別名を「薬研通(やげんどおし)吉光」ともいい、鋭利ながらその主には刃を立てない、という伝説とともに藤四郎作の名声が広まったといいます。
薬研藤四郎はやがて足利将軍家から松永久秀の手を経て、信長のもとにもたらされました。時の権力者に代々継承された名刀でしたが天正10年(1582)、本能寺の変において信長とともに炎に消えたとされ、以後の消息は不明となっています。
歪んだ愛着?激しい所有アピールの「義元左文字」
最後に、信長が歴史の表舞台に躍り出る契機となった出来事に関わる刀に触れて、まとめとしたいと思います。永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で、信長は「海道一の弓取り」と名高い今川義元を少数の部隊で撃破しました。日本戦史上つとに有名な奇襲戦であり、この勝利をきっかけに信長は大きく勢力を広げていくことになります。
このとき討ち取られた今川義元が佩いていた太刀は、戦利品として信長のもとにもたらされました。通称「義元左文字」。刃長約67cm、無銘のため製作者は不明ですが、南北朝ころの筑前の刀工集団「左家(さけ)」の名を冠して伝えられています。
今川義元から分捕った左文字の太刀、という意味で「義元左文字」と呼ばれるようになりますが、その前は「宗三(そうざ)左文字」の通称で知られていました。
これは最初の持ち主が三好宗三(政長)であったことに因み、本来の刃長は二尺六寸(約78.8cm)のものでした。宗三左文字は次に信玄の父である武田信虎の手を経て、今川義元の佩刀となりました。
最初に義元左文字の刃長を約67cmと記しましたが、宗三左文字と呼ばれたころから実に10cmばかりも短くなっていることがわかります。それというのも、信長は手に入れた左文字を好みの長さに磨り上げ(刀身長をみじかくすること)てしまったためなのです。
さらに、茎(なかご)には改めて「織田尾張守信長」、そして「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と金象嵌による銘を施したのです。
「この刀は今川義元を討ち取った時に彼が持っていたものである」といった来歴を記し、そして自らの名を刻んだというこの行為。あたかもこれから戦国の寵児として台頭する信長の、自己存在への激しいアピールを感じさせはしないでしょうか。義元左文字は現在、信長を祀る京都の建勲神社が所有し重要文化財に指定されています。
【主な参考文献】
- 『歴史群像シリーズ【決定版】図説 日本刀大全Ⅱ 名刀・拵・刀装具総覧』歴史群像編集部編 2007 学習研究社
- 『別冊歴史読本 歴史図鑑シリーズ 日本名刀大図鑑』本間 順治監修・佐藤 寒山編著・加島 進協力 1996 新人物往来社
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