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「引田の戦い(1583年)」元親、織田の覇権争いへ参戦

ろひもと理穂
 2017/10/18

讃岐国の引田城本丸跡(香川県東かがわ市)
讃岐国の引田城本丸跡(香川県東かがわ市)

阿波国の大半を制圧し、四国で勢力を拡大し続ける長宗我部氏は、「豊臣秀吉」(当時は羽柴姓)の軍勢とも激突しています。秀吉方の大将は仙石秀久でした。

今回は「長宗我部元親」が仙石勢を破った天正11年(1583年)の「引田の戦い」についてお伝えしていきます。

元親の外交戦略

敵対勢力は三好氏ら秀吉派

天正10(1582)年、三好氏の十河存保(三好存保)を阿波国から追い出した元親は、10月には続いて讃岐国の十河城、虎丸城の攻略を目指しました。

十河城は十河氏の本拠であり、虎丸城は存保が阿波国を追われて後に入った城です。すでに家臣の香川親和率いる軍勢が東讃岐に攻め込んでおり、藤尾城の香西好清を降していました。

元親は阿波国の岩尾城から出陣して讃岐国へ侵攻し、親和の軍勢と合流して十河城を三万六千の軍勢で包囲します。しかし簡単には城を攻略することができず、冬の時期を迎えて元親は一度本国に帰還しています。

元親にとって四国を制圧するためには三好氏を倒す必要がありました。その三好氏が頼った相手が秀吉です。

秀吉は明智光秀を討って織田氏の中でも大きな勢力を築いていました。つまり元親は三好氏と敵対することで、織田氏とも敵対関係にあったということです。

味方は秀吉の敵対勢力

ただ、元親にとって幸いなことに、当時の織田氏は信長の死後の覇権争いによって内部分裂が起こっていました。つまり、元親は織田氏のすべてを敵に回したわけではなかったということです。

敵の敵は味方という言葉通り、秀吉の対抗勢力が元親の味方となります。その筆頭が織田氏の重鎮である柴田勝家と信長の三男である神戸信孝です。秀吉は信孝の器量を警戒していたようで、信長の二男である織田信雄を担いで滅ぼそうとしていたとも考えられています。

天正11(1583)年には、織田家中で2分化された秀吉陣営と柴田陣営による対立が本格化します。勝家や信孝と元親がいつから接近を始めたのか詳細は判明していませんが、遅くても同年1月には手を結んでいます。

『香宗我部家伝証文』では、元親の弟である香宗我部親泰宛の書状で、長宗我部と信孝方が好を通じていたこと、 また、高野山の層を通じて勝家から協力要請も受けていることがうかがえます。

さらに2~3月には、都落ちして毛利氏の保護下にあった将軍義昭からも、元親に使者が送られていたようです。 『石谷家文書』によると、義昭から伝えられた内容は以下のとおりです。

  • 毛利氏が土佐(=長宗我部)と伊予(=河野氏)の和睦を願っている。
  • 四国と中国は勝家と連携して、義昭を京に戻れるようにしろ。

このころの長宗我部氏は伊予国の河野氏とも戦いを繰り広げていました。ただし、毛利氏と河野氏は縁戚関係にあるため、毛利は両者の和睦を望んでいたようです。また、信長との戦いに敗れて京を追放されていた義昭も京への返り咲きを図っていました。

このように勝家や信孝は、将軍義昭、高野山、毛利、長宗我部など、様々な勢力と連携していたことが伺えます。長宗我部勢には秀吉勢力の背後を突いてくれることを期待したことでしょう。元親としても四国を統一するには絶好の機会だと考えたはずです。これは秀吉という強敵がいたからこその結びつきでした。

そもそも本能寺の変が起きなければ信孝が織田勢の総大将として長宗我部氏征伐のために四国に渡海する予定だったのです。それが手を結んで、信長の仇を討った秀吉を倒そうとするのですから不思議な因縁です。

こうなると秀吉としては勝家との戦いの最中にも背後の長宗我部氏の動きを警戒する必要があります。十河城が包囲されたことで、虎丸城の存保からも援軍要請が届いていました。

秀吉は家臣の仙石秀久に対し淡路洲本城に戻るよう指示しました。秀久は淡路平定で実績をあげており、長宗我部氏の抑えに適任だと判断したのでしょう。

こうして元親は三好氏の十河勢だけでなく、秀吉の仙石勢とも死闘を繰り広げるのです。

ちなみに元親は、細川晴元の子の細川昭元が長宗我部氏を頼って阿波国に訪れた際には歓迎しています。

四国に強い影響力を持つ三好氏に対抗するためには、かつての管領の力だろうが利用できるものは利用しようという外交戦略だったのではないでしょうか。四国統一の大義名分を得ようと元親も必死だったのかもしれません。

引田の戦い

仙石勢の奇襲

秀吉の指示を受け四国攻めを始めた仙石秀久は、小豆島に渡り屋島の高松城を攻略しようと試みましたが失敗に終わり、一時撤退しています。同じく秀吉の家臣である小西行長も兵を率いて香西浦に攻め込みましたが長宗我部勢に撃退されています。元親はこのように四国の防衛戦を固く守っていたようです。

『秋山家文書』によると、2月下旬には讃岐国寒川郡の石田城を攻撃したと記されており、秀吉の軍勢を抑えながら、四国の三好勢力を各個撃破していく戦略をとっています。

引田の戦いマップ。色塗部分は讃岐国

『元親記』によれば、4月になって長宗我部軍は讃岐国大川郡の引田で三好領の麦を薙ぎ、十河存保が守る寒川郡虎丸城を包囲しました。

ところが4月21日、元親らが弁当を食べていたところに、仙石勢が引田湊から上陸し、奇襲を仕掛けてきました。奇襲を受けたのは香川信景、国吉三郎兵衛、大西上野介らの軍勢でした。奇襲を受けた長宗我部勢は足並みを崩し、仙石勢の奇襲攻撃は成功したようです。

鉄砲の音を聞いた元親はすぐさま援軍を派遣します。重臣の桑名太郎左衛門に加え、側近の中島与一兵衛重房も仙石勢の迎撃に向かいました。

崩れかけていた長宗我部勢でしたが、援軍が駆け付けたところで形勢逆転となり、仙石勢は総崩れとなって引田城へ撤退しています。

戦いはかなりの死闘だったようで、仙石勢は多くの兵を失いましたが、『竹心遺書』によると、長宗我部勢も国吉三郎兵衛、中内勝助、中内藤十郎、さらに援軍に駆け付けて突撃を仕掛けた中島与一兵衛重房らが討ち死にしています。

この「引田の戦い」は「入野屋之合戦」とも呼ばれています。戦いに勝利した長宗我部勢はその勢いのまま翌日には引田城に攻め込み、江村太郎左衛門、吉良親実、大西上野介らによって攻略に成功しました。

ほぼ同時期には香宗我部親泰の軍勢が阿波国板野郡の三好領へ侵攻して木津城を攻略しています。これで阿波国の三好氏の拠点は土佐泊城のみとなったのです。元親にとっては秀吉を敵に回しても勝てるという手応えを感じたことでしょう。

元親の誤算

このように四国統一に向けて順調に進んでいましたが、ここで思わぬ出来事が起こりました。引田の戦いに勝利した日、遠く近江国では勝家の軍勢と秀吉の軍勢が衝突していたのです。有名な賤ヶ岳の戦いです。

勝家はこの戦いに大敗し、本拠の越前国に退却。4月24日には追い詰められた勝家は自害しました。5月2日には勝家と手を結んでいた信孝も自害しています。

秀吉は四国の局地戦では長宗我部氏に負けたものの、最も重要な天下分け目の大戦には勝利したのです。

戦後、秀吉に狙われる元親

元親としてはまさかこうもあっさり勝家らが敗北するとは考えていなかったことでしょう。頼りにしていた同盟者を失って秀吉に睨まれるハメとなり、長宗我部氏は再び危機的状況を迎えることになります。

実際、秀吉は5月13日付の書状で仙石秀久に長宗我部攻めを(『伊予国新宮田辺氏蔵古文書』)、同20日付の書状で石井与次兵衛に艦船を大坂に集結させるように命じています(『石井文書』)。同年中にはたびたび、十河在保や仙石秀久らの軍が長宗我部領へ攻め込んだとみられます。

ところで先の将軍義昭からの要請に対し、元親はどのように対応したのでしょうか。

『香宗我部家伝証文』によると、毛利氏に対して将軍上洛の協力をすると返事をしたと記されています。ただ、伊予国制圧の野心は捨てきれず、河野氏との和睦には応じていません。

実際、同年5月と7月にも和睦の使者が訪れており、和睦交渉が上手く進んでいなかったことがうかがえます。元親はあくまでも四国統一を望んでいたのです。

毛利と長宗我部の関係は、信長生前のときから誼を通じて友好関係が続いていました。しかし、毛利輝元としては、秀吉とは既に和睦しており、さらに河野氏とも縁戚関係の立場にあったため、元親の扱いに苦慮していたのではないでしょうか。

秀吉の圧力を恐れていた?

しかし、同年末頃になると、秀吉に乞う元親の姿がうかがえます。

  • 元親が「阿波・讃岐2か国を手放す代わり、伊予国を与えてほしい」と要求、これに秀吉は「伊予は毛利輝元に渡す」と返答したという。(『毛利家文書』)
  • 秀吉は元親が許しを願っていることを受け入れず、土佐を奪い取って家臣らに与えることに決めた。(『柴田合戦記』)

ここでも元親が伊予にこだわっている様子がみてとれます。上記のことは真実かどうか定かでないが、いずれにしても元親の四国制覇の夢が遠のいたのは確かでしょう。

また、同じ頃に秀吉との対決を見据えてか、元親は次男・香川親和を讃岐国天霧城に入城させています。 なお、このとき交わしていた親和の養父・香川信景と伊予国衆・金子元宅の文書のやりとりから、以下の点がわかります。(『金子文書』)

  • 毛利輝元と秀吉との領地交渉が確定した。
  • 毛利と長宗我部の友好関係は維持できている。
  • 長宗我部は引き続き河野の動向に注視する。

まとめ

勝家がもう少しの期間、秀吉と対峙できていたら元親はもっと秀吉の脅威になっていたに違いありません。

その間に四国を統一し、中央に軍勢を派遣するまでになっていたとしたら、勝家は秀吉を倒すことができ、長宗我部氏はさらに繁栄していたことでしょう。

迅速な行動でその動きを封じた秀吉は、さすがと言わざるを得ません。


【主な参考文献】
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
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