牛乳は薬だった? 古代における牛乳・乳製品の生産について

コロナ禍をきっかけに「牛乳の大量廃棄」がしばしばニュースに取り上げられるようになりました。2022年末も大量廃棄の恐れがあると報道されました。

ところで、日本で牛乳が初めて飲まれたのは7世紀の飛鳥時代のことといわれています。ここでは、史料や考古資料から伺える、古代における牛乳・乳製品の生産についてご紹介します。

日本で最初に牛乳を飲んだのは?

『新撰姓氏録』『類聚三代格』といった平安時代の史料によると、日本で最初に牛乳を飲んだのは飛鳥時代、7世紀半ばの孝徳天皇とされています。

百済系渡来人の子孫である善那という人物が天皇に牛乳を献上し「和薬使主(やまとくすしのおみ)」という姓を与えられました。このとき、名前も善那から福常に改名したようです。また、福常は乳長上(ちのおさのかみ)という職に任ぜられ、その子孫が代々職を継ぎました。

福常の父・智聡は6世紀に百済から来日した人で、医学書などを携えていたと『新撰姓氏録』に書かれています。子どもの福常もまた医学の知識があり、下賜された姓にも「薬」の字があることから、牛乳も薬として天皇に献上されたと思われます。

孝徳天皇の時代、乳牛の飼育や搾乳がどこで行われていたのか詳細はわかりませんが、難波か飛鳥の都の近辺にいた渡来系の人々が乳牛を育てていたのでしょう。

古代の牛乳・乳製品の種類と用途

古代の史料には「牛乳」のほか、「蘇(そ)」「酪(らく)」「乳脯(にゅうほ)」といった乳製品の名前が見えます。牛乳以外の乳製品は以下のような形状のものと考えられています。

古代の乳製品

  • 蘇…平安時代に書かれた律令の施行細則『延喜式』によると「牛乳を約10分の1に煮詰めて作る」とある。バター、チーズ、全粉乳(牛乳から水分を除き、乾燥させた粉末)などの説がある。平城宮の木簡から、完全に煮詰めていない「生蘇」があることがわかっている。
  • 酪…ヨーグルト、コンデンスミルクなどの説がある。
  • 乳脯…平安時代の貴族の日記『小右記』の記述から、薄く伸ばしたシート状の乳製品と考えられている。

次は、牛乳と蘇について用途を見てみましょう。

牛乳

飛鳥時代、牛乳は薬として孝徳天皇に献上されました。時代が下り、奈良時代の皇族である長屋王の邸宅跡から「牛乳を持ってきた者に米を支給した」と書かれている木簡が見つかっています。さらに、平安時代の貴族の日記には、薬として飲んだことが記されています。上流階級では牛乳の飲用が広がっていたことが伺えます。

当時、貴族はビタミンやミネラル不足が原因で体力が低下し、脚気などにかかることが多かったようで、虚弱体質の改善のために牛乳が飲まれたようです。

また、牛乳は仏前へのお供え物としても使われていました。たとえば、奈良時代には東寺で写経を行うにあたり、仏像へ礼拝する際には牛乳が供えられたと東寺の記録にあります。

蘇もまた、食用のほかに儀礼用や薬用として用いられました。

東宮(皇太子)・中宮・左大臣家・右大臣家がそれぞれ正月に開く「大饗」という宴会の際には、朝廷から各宴会用に蘇が与えられています。儀礼用としては「御斎会(ごさいえ)」「太元帥法(たいげんのほう)」といった朝廷が執り行う仏教儀礼で蘇が使われていました。

薬用としては、体調不良の藤原道長が「蘇密煮」を服用していたことが『小右記』に記されています。

スライスした蘇(写真ACより)
スライスした蘇(写真ACより)

古代日本で乳製品を製造した人々

奈良~平安時代にかけて、朝廷や中央貴族の間で消費されたことが記録に残っている牛乳・乳製品ですが、飛鳥時代の終わりごろから生産・供給体制が整えられました。

飛鳥時代から奈良時代

飛鳥時代の終わりである西暦700年、文武天皇は蘇を作って税として納めるよう命令を出し、翌年に制定された大宝律令では、「乳戸」とよばれる酪農の専門集団が都のあった大和国に設けられました。

乳戸は上述した乳長上のもとで、朝廷に納入する牛乳・乳製品の製造に従事します。乳長上や乳戸は宮内省にある典薬寮(てんやくりょう)という役所に属しており、やはり牛乳は「薬」という認識があったのでしょう。

乳戸は17~65歳の男子50人で構成され、10人ずつ1年交替で仕事に就きました。乳製品の製造は特別な仕事であることから、税金のうち調(糸や布などを納める)と雑徭(工事などの労働)が免除されました。

奈良時代になると、山城国にも「乳牛戸」とよばれる酪農集団が編成され、乳戸と同様に牛乳や乳製品を納めています。その後、乳戸・乳牛戸だけでは需要が追い付かなくなったのか、朝廷は諸国に蘇の貢納を命じています。蘇の内容には諸説あると述べましたが、各地から都に運ぶ日数などを考えると、乾燥した全粉乳の可能性が高いかもしれません。

文献や平城宮出土木簡から、出雲・尾張・但馬・周防・淡路・近江などの諸国から蘇が納められたことがわかっています。

奈良時代、「諸国が納める蘇の量や納める年を定めた」と史料には記述されていますが、具体的なことはわかっていません。蘇を納める決まりが記録からわかるのは、平安時代になってからです。

平安時代

平安時代になると、典薬寮に「乳牛院」という施設が設置されます。乳牛院は現在の京都・北野天満宮の近くにあり、皇室に生乳を納めていました。母牛7頭と子牛7頭が飼育され、毎日約2リットル強の生乳が納められたと記録に残っています。

乳牛院には、摂津の「味原牧(あじふのまき、現在の大阪府摂津市から大阪市東淀川区に広がる地域)」で育てられた牛が送られていました。

平安時代の初めには54か国を3つのグループに分け、グループ単位で3年ごと、11月に蘇を納めるルールが定められていました。『続日本紀』には、西暦700年は諸国に牧が置かれて牛や馬が飼育された記事があり、諸国でもこれらの牧で育てられた乳牛から採られた乳を使い、蘇が生産されたと考えられます。

長野県にある吉田川西遺跡は朝廷によって設置された「埴原牧(はいばらのまき)」を経営した集落と考えられていますが、9世紀中ごろの遺構から「蘇」と書かれた墨書土器が出土しています。

蘇を納めるルールが定められたものの、諸国からの納められる蘇は納期がしばしば遅れたり、質が悪かったりしたようです。9世紀半ばには国司(国の地方行政官)に対する罰則規定が定められ、実際に10か国以上の国司が地位を追われています。

それでも改善されなかったのか、9世紀の終わりごろには蘇を納めるルールが「57か国を6つのグループに分け、グループ単位で6年ごと」に改訂されています。これは諸国の負担を軽減し、蘇の質を上げることが目的だったと推察されます。

もっとも、蘇はすべての国から納められていたわけではありません。大和・河内・和泉・山城・飛騨・志摩・陸奥・出羽は、新旧2つのルールのいずれにおいても除外されています。大和など畿内の牧は直接、朝廷に生乳を納めていたために外されたと思われます。また、その他の国は都から遠く、牧が設置されなかったのではないかと考えられています。

おわりに

古代ではごく一部の特権階級の人々が牛乳や乳製品を口にすることができました。やがて、朝廷の勢力が衰える平安時代末期になると、蘇を諸国から献上する制度もすたれ、牛乳や乳製品について書かれた記述は途絶えてしまいます。

ふたたび、牛乳についての記述が現れるのは江戸時代まで待たなければなりません。さらに、一般庶民の間にも牛乳が普及するのは明治時代以降となります。


【主な参考文献】
  • 吉田豊『牛乳と日本人』新宿書房 2000年
  • 佐藤健太郎「古代日本の牛乳・乳製品の利用と貢進体制について」『関西大学東西学術研究所紀要第45輯』 2012年
  • 斎藤瑠美子、勝田啓子「日本古代における乳製品『蘇』に関する文献的考察」『日本家政学会誌Vol.39 No.4』1998年
  • 一般社団法人 日本乳容器・機器協会HP 細野明義「日本における牛乳利用の歴史」

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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