文武両道で活躍した五奉行「増田長盛」の生涯
- 2019/01/10
豊臣秀吉に仕えた「五奉行」というと事務処理の能力に長けていたというイメージが強い増田長盛(ましたながもり)ですが、その中にあって戦場での武功も有名で、五奉行には珍しく知勇兼備の武将であったことがうかがえます。
はたして長盛はどのような活躍をしたのでしょうか?今回は豊臣滅亡のキーマンとされる長盛の生涯についてお伝えしていきます。
はたして長盛はどのような活躍をしたのでしょうか?今回は豊臣滅亡のキーマンとされる長盛の生涯についてお伝えしていきます。
秀吉の家臣として表舞台に登場
長盛の出生
長盛の出生については正式な記録が残されていません。父も母もどのような人物であったのか不詳であり、どのような身分だったのかもわからないのです。天文14年(1545)に誕生していますが、生まれた地についてもはっきりせず、尾張国中島郡増田村(現愛知県稲沢市増田)か、近江国浅井郡益田郷(現滋賀県長浜市益田町)のどちらかであろうという説が有力です。一向宗徒だったのではないかと推測されています。
永禄7年(1564)に側室との間に長子となる増田長勝が生まれています。その時、どこに住んでいて、誰に仕えていたのかは不明です。秀吉が浅井氏滅亡後に旧領を拝領して近江国長浜城主となった天正元年(1573)、長盛は200石で秀吉に召し出され、仕えることとなります。長盛は28歳にしてようやく表舞台に名前が登場するようになってくるのです。
森可成の娘を正室に迎える
秀吉に仕えてから、長盛は正室を迎えることとなります。織田信長の古参の将である「森可成」の娘です。可成は、武勇に優れ信長の信頼が篤く、近江国宇佐山城城主を務めていたほどの人物ですが、元亀元年(1570)に浅井朝倉連合軍並びに本願寺との激戦の末に討ち死にしています。長盛が可成の娘を娶った時にはすでに可成は没しており、森氏は13歳で家督を継いだ森長可が当主となっていました。長可といえば信長から寵愛を受けた武将で、戦場で活躍し、槍の名手として「鬼武蔵」と呼ばれています。長盛はそんな長可の義理の兄弟という関係になりました。これは長盛に森氏の娘を娶るだけの武勇があったことを示しているのではないでしょうか。
長盛と可成の娘の間には、天正8年(1580)に増田盛次が誕生しています。森氏の血を受け継いだ盛次もまた武勇に才能を発揮することになります。
大和国郡山城20万石の国持ち大名へ
秀吉の勢力拡大と共に立身出世
天正5年(1577)より、秀吉は中国攻めの指揮官に任命されます。長盛も秀吉に従い、天正9年(1581)の鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」に命じられています。やはり奉行としての政治力も秀吉に認められていたようです。天正10年(1582)に信長が本能寺の変で没すると、秀吉の本隊に所属していた長盛は、中国方面から京都に駆け戻り、明智光秀を倒す山崎の戦いに参加します。ここで長盛は初めて秀吉の奏者として、上杉景勝との外交交渉を務めました。
天正12年(1584)には秀吉は信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いで衝突します。長盛の義理の兄弟である長可は、秀吉に味方し、中入りを目指しますが失敗し、討ち死にしました。長盛は先陣を務め、兜首二つをあげ、2万石に加増されています。
天正13年(1585)には、秀吉の紀州攻めに大谷吉継と共に従軍し、ここでも長盛は武功をあげます。同年の秀吉関白就任に伴って、長盛はこれまでの功績を認められ、従五位下・右衛門尉に叙任されています。
秀吉の勢力拡大と共に、長盛もまた順調に立身出世していったのです。
五奉行のひとりに抜擢される
天正15年(1587)の九州征伐、さらに天正18年(1590)の小田原征伐と従軍しています。当初は安房国の里見義康に対して、差出検地の施行と知行宛行状の発給などを担当していましたが、戦後処理では、下野国、常陸国、安房国の諸大名に対する豊臣政権の取次を任されるようになりました。長盛は近江国水口6万石を与えられています。長盛は太閤検地において、石田三成や長束正家と共に中心的な役割を担いました。天正19年(1591)には、同じ奉行衆の正家らと近江国の検地を指揮しています。
文禄元~2年(1592~93)にかけての文禄の役では、朝鮮出兵に参加。長盛は関東の宇都宮、里見、成田ら諸大名の軍勢を率い、三成や吉継らと共に渡海して朝鮮の漢城に駐留しています。長盛の役目は、朝鮮での戦略等の秀吉の上意を諸将らに徹底することと、その戦局を秀吉に報告することでした。実際に戦場にも出陣しています。
文禄4年(1595)4月には豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没し、7月には関白である豊臣秀次が謀叛の嫌疑をかけられて自害することになります。この時、秀次にその真偽を詰問したのが長盛ら奉行衆でした。
長盛は同年に秀長・秀保父子の旧領となる大和国郡山城20万石を与えられており、その城の周囲に総堀をめぐらす大規模な普請も実施しています。もともと長盛は普請には積極的で、三条大橋や五条大橋の改修工事や伏見城の改修などにも携わった実績があります。
慶長元年(1596)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を任されるようになり、慶長2年(1597)には安房国で総検地も実施しています。
これらの功績が認められ、慶長3年(1598)、秀吉が没する直前には浅野長政や三成らと共に五奉行のひとりに抜擢されることになるのです。
秀吉没後は失脚
関ケ原の戦いでは家康に内通するも改易
秀吉の没後、五大老の家康が秀吉の遺命に背き、諸大名と婚姻関係を結んでいきます。長盛ら五奉行は、豊臣秀頼の後見人であった前田利家を立ててこれに反発。しかし慶長4年(1599)、大黒柱の利家も病没してしまいます。加藤清正、黒田長政ら武断派が三成襲撃事件を起こすと、家康がその仲裁に入り、三成を蟄居させます。さらに五大老筆頭の地位を乱用して、前田利長や五奉行の長政らを処分。そして慶長5年(1600)には、上杉景勝に謀叛の嫌疑をかけて、家康派上杉討伐に出陣しました。
ここで三成が挙兵を計画すると、長盛ら他の五奉行はこれを支持して、家康の違約を訴える書状を諸大名に送ることになります。かくして三成方と家康方とが衝突する関ヶ原の戦いとなるのですが、長盛の行動は煮え切らないものがありました。
長盛は、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いでは活躍するのですが、家康の重臣である永井直勝に内通して三成挙兵を知らせたり、三成の資金援助要請に渋ったりもしています。
家康を攪乱する動きとも考えられますが、保身工作という見方の方が強いでしょう。真相はわかっていません。関ケ原の戦いが始まっても、秀頼を守るために大坂城に毛利輝元と共に留まっています。
三成が敗れた後は、出家して家康に謝罪しましたが許されず、改易となったうえに、高野山に追放されています。長盛はこうして完全に失脚してしまったのです。
息子である増田盛次が大坂方に味方し、自害となる
その後、徳川と豊臣の関係は急速に悪化していきます。慶長19年(1614)には、家康が長盛に和睦の仲介を依頼しましたが、長盛はこれを断りました。そして同年に大坂冬の陣が起こり、尾張藩主である徳川義直に仕えていた長盛の嫡子・盛次が徳川方として戦場で活躍することになります。しかし、盛次の本心は豊臣側にあり、義直や長盛の了承を得て、大坂夏の陣では尾張国を出奔して大坂城に入り、豊臣方として奮戦して討ち死にしました。この件を咎められ、長盛は家康から自害を命じられています。
おわりに
戦場での活躍ぶりも見事だった増田長盛。三成と豊臣の存続のために手を取りあって家康と対峙していれば、もしかすると関ヶ原の戦いの結果は変わっていたかもしれません。おそらく家康に豊臣を滅ぼすほどの野心があるとは、長盛は見抜けていなかったのでしょう。それに気づいた時にはもはや手遅れであり、最期は豊臣に殉じて長盛・盛次父子は滅びていくことになります。長盛は、忠義の士であったといえるのではないでしょうか。
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