「黒田長政」知略の父・官兵衛とは一線を画す、武勇に優れた将。
- 2019/10/07
黒田長政(くろだ ながまさ)は戦国後期に豊臣・徳川家臣として活躍した武将で、その活躍から徳川の時代に入っても黒田家が反映する礎を築き上げた人物です。しかしながら、長政は「天下を取る器をもち合わせていた」と称される偉大な父の黒田官兵衛(孝高)や他の豊臣家臣の陰に隠れがちで、その功績に対して低く評価されることも多いという側面があります。
そこで、この記事では長政の生涯とその功績を整理し、近年再評価が進む彼の実像を解説していきたいと思います。
そこで、この記事では長政の生涯とその功績を整理し、近年再評価が進む彼の実像を解説していきたいと思います。
【目次】
信長・秀吉の人質へ
永禄11(1568)年、長政は播磨国(現在の兵庫県姫路市付近)で生まれました。父は言わずと知れた黒田官兵衛で、母は当時官兵衛が仕えていた小寺氏と縁戚関係にあった櫛橋伊定という人物の娘と伝わっています。このような出自のため、幼少期の長政は父と同様に小寺氏に仕える形で過ごしていました。しかし、のちに織田信長が台頭してくると、父官兵衛はこれに従属することを主君である小寺氏に進言。黒田氏は小寺氏とともに信長の配下に加わることになります。
官兵衛は信長に仕える羽柴秀吉の配下として列せられると、天正5(1577)年には服従の証として長政を秀吉に人質として差し出します。以後、秀吉の人質となった長政は当時秀吉の所有していた長浜城で生活していくことになるのです。
ただ、人質とはいっても長政と秀吉・ねね(北政所)夫妻の関係性自体はとても良好だったと伝わっており、実の息子同然に厚遇されて不自由することなく過ごしたようです。
こうした良好な関係性は、後に長政の出世を大きく後押しすることになりました。
官兵衛謀反の疑いで長政は処刑寸前だった?
時の権力者に重用される家臣に愛されて育った長政の将来は、非常に安定したものかに思われました。しかし、彼は自分自身の関われない騒動のあおりを受けて、生涯最大の危機を迎えることになります。天正6(1578)年、信長家臣の荒木村重が突如として反旗を翻しました。この知らせを受けた秀吉は、当時自身の軍勢に加わっていた村重を説得する必要性に直面します。
ここでその交渉役として白羽の矢が立ったのが、村重と旧知の仲であった黒田官兵衛でした。彼は秀吉の命令で村重のもとへと向かいましたが、主君の小寺政職が村重に呼応して裏切り、交渉どころか拘束されてしまいます。
こうして信長の元に現状報告ができなくなってしまった官兵衛。織田方では「交渉役として派遣したところ、逆に説得されて村重派に寝返ったのではないか」という疑いをもつようになります。そしてしびれを切らした信長はついに、人質として預かっていた長政を見せしめとして処刑するよう、秀吉に命じるのです。
長政を可愛がっていた秀吉夫妻でも、主命とあらばこれに抗うことは出来なかったようですね。しかし、ここで長政の危機を救ったのが、秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛(重治)だったとか。彼は長政を自身の配下にかくまわせて、信長には「長政を処刑した」と虚偽の報告をしたといいます。
こうして難を逃れた長政ですが、やがて村重の籠る有岡城が落城し、父が救出されたため、のちに罪を晴らすことができたようです。
上記の逸話はやや「作り物」感の否めないところもありますが、少なくとも村重の反乱によって黒田家が危機的状況に陥ったという部分に関してはおおむね事実なのではないかと思われます。
信長亡き後、秀吉の下で頭角を現す
黒田父子の運命は、天正10(1582)年の本能寺の変による信長の死により、織田家中では覇権争いが本格化。かねてから秀吉に仕えていた官兵衛は転機を迎えます。翌天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いでは、長政は功をあげて450石の領地を与えられ、翌年の家康と秀吉陣営による小牧・長久手の戦いでも優れた戦いぶりを披露。この結果、先ほど得た領地に加増2000石の処置がされました。
長政が貢献したこの一連の戦により、信長の天下事業を受け継ぐ者=「秀吉」と定まっていき、黒田父子も天下人の家臣として力を得るようになっていきます。
天正15(1587)年の九州平定に際しても功績を挙げ、彼ら父子の戦いを評価した秀吉によって父官兵衛には豊前国12万5千石が与えられました。彼らは豊前の国衆を相手に手を焼きつつもなんとか統治に成功し、ふたたび秀吉の命によって動き始めることになります。
ただ、天正17(1589)年には官兵衛が隠居を決断したため、長政が家督を継承しました。なお、この時期には秀吉がバテレン追放令を公布したため、父と同様にキリシタンであった長政も棄教を表明しています。
その後、文禄元(1592)年以降は豊臣政権の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)に参加。一般的に朝鮮出兵は苦戦したイメージが強いものの、長政は主力部隊の一員として異国で奮戦しました。彼は碧蹄山の戦いや蔚山城の戦いなどで戦果を挙げ、痛手を負うこともありましたが大きな功績を残しています。
朝鮮出兵に関する有名な逸話としては加藤清正の「虎狩り」伝説が有名ですが、近年ではこれが長政の手によるものであったという見解も存在するようです。こうした長政の生涯に成し遂げた事蹟がしばしば他人の功績として語られがちなことは、彼の評価がイマイチであることの原因かもしれません。
とはいえ、彼自身の奮戦もむなしく朝鮮の地で日本軍は苦戦するようになり、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなると彼らは朝鮮から撤退。長政も帰国していますが、秀吉亡き後にはその後継者争いの機運が高まっていました。
関ケ原では徳川方として大功を挙げる
帰国後の長政は、かねてより折り合いの悪かった石田三成や小西行長ら文治派の武将たちと対立。彼自身は秀吉に恩があったものの、この点からかつては敵対していた徳川家康のもとへと接近していきます。家康との関係性を強化するべく、彼はすでに迎え入れていた妻を離縁して家康の養女であった栄姫を本妻として娶ります。こうした家康との関係強化によって三成との対立は決定的なものとなり、前田利家が亡くなった慶長4(1599)年には長政や清正らが三成の暗殺を試みるなど、すでに戦の開戦は避けがたい状況にありました。
こうした状況下でかねてより家康方としての参戦を決断していた長政は、三成との「味方勢力獲得競争」においても活躍しました。彼は一応東軍に属すると表明した福島正則の裏切りを警戒した家康から意見を求められますが、正則と親交の厚かった長政は彼の裏切りはあり得ないと主張。この発言は家康を安心させました。
さらに、長政は毛利家を支えていた小早川家と吉川家に内応をもちかけ、吉川家にはどちらにも属さないという確約を、小早川家には戦の当日に内応するという確約を取り付けるなど、東軍の「外交員」として戦の前から活躍を見せていたのです。
準備を整えたところで家康が反抗的な態度を崩さない上杉家を征伐するために会津へと乗り出したところ、予想通り三成を中心とする西軍が兵を挙げました。その知らせを受けて兵を引き返した東軍と西軍は関ヶ原の地で相まみえることになります。
すでに調略の面で活躍を見せていた長政ですが、戦そのものでも大功を挙げています。彼は三成の腹心で猛将として知られていた島清興(左近)を討ち取るなど、東軍の勝利に多方面から貢献しました。
こうした働きは家康からも非常に高く評価され、戦後には筑前国に52万3千石という巨大な領地を得ることになります。あくまで関ケ原の直前になって家康方に属した外様大名としては最大級の評価を得ており、ここでの活躍は江戸時代を通じて黒田家に良い影響を与えました。
「福岡」の名付け親として領地の整備に尽力
関ケ原で大功を挙げた戦勝者として筑前国へ入った長政は、まず当初に小早川氏の居城であった名島城をそのまま本拠とするのではなく、利便性が高く同時に威光を掲げられるような城の築城に着手します。その築城予定地は当初「福崎」という地名が当てられていましたが、長政は黒田家のルーツである備前国(現在の岡山県)ゆかりの地名から「福岡」と改称。築城着手から7年後の慶長11(1606)年に福岡城が完成すると、藩名も「福岡藩」として長政が初代藩主に就任しました。
もともとこの地域は博多など貿易港を有しており、さらに穀倉地帯であったことから長政はこれらの産業を積極的に発展させていきました。その一方で伝統工芸や絵画の作成と普及にも尽力するなど、初代藩主としての功績は大きなものがあります。
こうして領内経営に着手していた長政ですが、慶長19(1614)年の大坂冬の陣では自身も江戸に上り、出陣こそしなかったものの代理として嫡男の黒田忠之を大坂へと向かわせました。一方、翌年の大坂夏の陣では徳川秀忠隊の一員として出陣し、豊臣方と抗戦しています。
晩年まで非常に精力的な活動を続けた長政ですが、元和9(1623)年に徳川家光の将軍就任に際して上洛を果たしたところ、かねてよりの病気が悪化し京都の地で56歳の生涯を終えました。
おわりに
彼の跡を継いだのは嫡男の忠之でしたが、彼は息子の資質を疑問視していました。それは廃嫡まで視野に入れるほどのものであったようですが、重臣であった栗山大膳が彼を説得しそれを思いとどまらせています。結局は大膳に息子の補佐を願いつつ長政は亡くなるのですが、皮肉にもこの二人は後年になって「黒田騒動」という幕府史に残るお家騒動を繰り広げることになってしまうのです。
【参考文献】
- 『朝日日本歴史人物事典』
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
- 渡邉大門『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ケ原』KADOKAWA、2013年。
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